夜食屋ふくろう

森園ことり

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 半年前に拓がハムスターを飼いたいと言った時も、紗季はすぐに賛成してくれた。小さくて可愛いから、とクルミと名づけてくれたのも彼女だ。

 やさしくて明るくて、拓がなにか言ってもいつも「いいよ」と受け入れてくれる紗季。そのやさしさに甘え過ぎてしまったのかもしれない。

 スマホを持たなくなっても生活にはなんの支障もないと拓は思っていた。家にはすぐに電話を引いたし、家族や知り合いには、スマホを持たなくなったことを伝えて新しい電話番後を教えた。
 みんなには驚かれたが、意外とすんなり受け入れてもらえた気がする。
 家族や友人は彼が帰宅したあとの夜に電話をくれるようになったし、パソコンのメールも活用してくれた。
 紗季もすぐに慣れてくれるだろう、と簡単に考えていたのだが、どうやら違ったようだ。

 日に日に彼女の機嫌は悪くなり、ストレスがたまってきていることが拓にもわかる。
 いままでの普通が通用しなくなったことへの苛立ち。いつどこにいても拓と簡単につながれることへの安心感。それが失われてしまった。
 一緒に住んでいるし、家には電話があるから大丈夫。意思の疎通はちゃんとできる。だって、拓の両親の若い頃には携帯電話なんてなかった。それでもちゃんと生きてこられた。いまだってそれはできるはず。

 拓はそう考えていたが、紗季には不便でしかないようだ。
 少しずつ彼女は拓に不満を直接漏らすようになった。
 日々のちょっとした連絡、頼み事、待ち合わせ。そういうことで、いちいち家の電話に留守電を入れたり、メールを送ったりするのは面倒くさい、と。

 スマホのメッセージアプリや電話を使っていた時には、気軽に連絡できた。いまは、連絡する前にためらってしまう。返事はどうせ遅いんだからあてにしても仕方ない、と。
 以前はよく会社帰りに待ち合わせして夕飯を食べて帰った。買い物の頼み事も気軽にできた。相手がどこにいるかわからなくても連絡がついた。

「いつでもつながれる安心感。それが失われたよね」 

 紗季は苦笑いを浮かべながら拓に言った。
 最近、彼女の仕事は忙しくなる一方で、遅くまで残業する日も増えている。先週は季節の変わり目のせいか、風邪をひいて数日会社を休んだ。

 気を張って毎日頑張って気持ちに余裕がないところに、恋人が突然スマホを持たないことを選んだら、それは戸惑うし苛立つだろう。
 申し訳ない気持ちはちゃんと拓の中にある。
 それでも、またスマホを持ちたいとは思わなかった。
 まだ一ヶ月ちょっとで、紗季は慣れていないだけだ。あともうちょっと。この不便さに慣れて、このままでもやっていけると思えるようになってくれれば……。

 三日前の日曜日、二人は久しぶりに映画を観に行った。
 機嫌が悪い紗季をなかば強引に誘い出し、彼女が好きな監督の作品を見た。
 映画は面白く、拓は久しぶりに笑顔の紗季を見ることができた。

「秋物のコート買ってあげるよ」

 ショッピングに誘うと、紗季は喜んでついてきた。彼女が好きなショップに行くと、ちょうどいいコートを見つけた。カーキ色とベージュ色で悩んだ彼女はなかなか決めきれない。試着をしたり店員さんに相談したりしている彼女を待っている間に、拓はトイレに行きたくなった。

 すぐ戻ってくるから待っててと紗季に断ってから、拓はトイレを探しに行った。
 男性用トイレはその階になく、拓は上の階に行ってトイレに入った。少しお腹が痛くて、出るまでに十五分ぐらいかかった。
 慌てて紗季がいる店に戻った時、彼女はもういなかった。応対をしてくれていた店員を捕まえて訊ねると、「買い物をすませてお帰りになりました」という。
 入れ違いになったかと、慌てて上の階のトイレに戻ったが、そこにも紗季はいない。もしかして下の階にある男性トイレで待っているのではないかと、拓は階段を駆け下りた。だがそこにも紗季はいない。


 紗季の携帯電話に連絡しようと思ったが、彼女の電話番号を暗記していなかった。以前はメッセージアプリの通話を利用していたので覚える必要がなかったのだ。電話番号を書いたメモを財布に入れておくべきだったと後悔するが遅い。
 そのあと拓は、他の階の男性トイレにすべて行ってみたが、どこにも彼女の姿はなかった。
 もしや店に戻ったのでは、と捜しに行ってもやはり紗季はいない。

 やっとのことで紗季を見つけたのは、別れてから一時間もたったあとのことだった。
 紗季は最初に拓が入った上の階の男性トイレの前にいた。そばにある長椅子に疲れ切ったように座っている。傍らには大きな紙袋があった。

「紗季、ごめん」

 拓を見上げた紗季はにこりともせず小さく頷いた。

「俺、このトイレに入ったあとお店に戻ったんだけど、紗季はもういなかったんだよ。捜してくれてたの?」

 紗季はただ小さく頷く。

「じゃあすれ違いになっちゃったんだ。俺も捜してたんだけど……」
「スマホがあったらね」

 ぽつりと紗季は呟いた。
 そう言うと思った。
 拓には返す言葉がない。

「ごめん。不便な思いさせて」
「不便ていうか、なんだろう……拓がこだわり持つのは別にかまわないんだけど、それを一方的におしつけられるのは違うかなって」

 紗季は立ち上がると、勝手に一人で歩き出した。慌てて拓はそのあとを追いかける。
 ごめん、紗季、という謝罪の言葉は誰にも受け取られることなく宙に消えていった。




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