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第2話 「 泣くことの自由 」
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■■プロローグ
館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。濃い絵の具の臭いが鼻を突く。
ここは、この館の主・白野のアトリエだった。
大きく窓の取られた白い壁。そこから続くテラスにはうっすらと雪が積もっている。
外の冷えた空気が開かれた窓から入り込んでいて……。
朱里は思わずため息をついた。
暖房装置の乾燥した熱気が絵の具のノリに影響する事は重々承知しているが、これでは外気温と大差がない。
「お風邪を召しますよ。白野様」
部屋の中央でカンバスに向かう少年に、そう声をかけてみる。
応えを期待しての言葉ではなかった。彼の主人である歳若いこの館の主は、大変寡黙な少年であったから。案の定、少年は黙々とカンバスに向かったままで、朱里もそれ以上は何も言わず、ただ薄いカーテンを揺らめかせている窓を閉じた。
「おや? お客様のようですね……」
階下から低く呼び鈴を鳴らす音が聞こえる。
「今日の予約は入っていなかった筈なのですが……」
白野は絵筆を動かす手を止めて、窓を見遣った。暦上はもう春だと言うのに、今年の冬はよく冷える。
「こんな雪の中をやってくるなんて……きっと哀しい人達だね」
雪がしんしんと降り積もる。
まるで全てを包み込もうとするかのように、雪はしんしんと降り積もる。
■■1
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
この不思議な話を聞かされて以来、ジョーイは画廊の場所を必死で捜し求めた。この話にすがりついた。
こちら側で暮すようになって、既に3年の月日が流れている。それなのに、妻のアンナの時間はあの時以来凍りついてしまっているのだ。あの恐ろしい逃避行から、もうずっと……。
どんな名医の治療も、療養も、アンナの哀しみを癒す事は出来なかった。アンナはあの日以来、笑わない。怒らない。泣く事さえも、もうしない。
全ての感情を無くしてしまった。妻はあの日から不幸せなままだった。
ジョーイは優しくアンナの手を取って、椅子に腰掛けさせてやる。自分も隣り合った席に腰を落ち着け、そして周囲を見回した。
広く、重厚な家具の揃えられた室内。壁には沢山の絵画が飾られている。
大きな暖炉では薪がパチパチと音をたてながら火の中ではぜていて、室内は心地よく暖かかった。
「【幸福画廊】へようこそ」
先程、玄関口で自分達を招き入れた、この館の執事だという男が飲み物を運んで来た。確か朱里という名前だったか。
オリエンタルにしては長身の男だった。決して自国でも低い方ではない自分と同じ位の上背がある。長身の身体の上に載る顔は、執事という職業を持つにはかなり歳若いようにジョーイには思えた。黒い長い髪を肩の辺りで縛っている。表情は穏やかだったが、顔立ちはどちらかというと精悍で、黒の上物のスーツがよく似合っている。
「ダージリン・ティでございます。よろしければこちらのブランディーを一垂らしお入れ下さい。外は寒うございましたでしょう。身体が温まりますよ」
落ち着いた物腰で茶を勧めてくる。声は低く、静かで落ち着いた響きがあり、ジョーイはほっと緊張を解いた。
伸ばした指に触れるカップの温かさが、何故だかひどく嬉しかった。
■■2
カチャリと奥の扉が開いて、入室してくる人影がある。
「当屋の主、白野様です」
そう朱里に紹介された男の風貌に、ジョーイはかなり戸惑いを覚えた。
線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛がまだ愛らしいとさえ思われる少年だ。着ているものは、細身で丈の長い白の中国服にズボン。
東洋人は年齢よりも若く見えると聞いたことがあるが……。それにしても、とても成人しているとは思えない。彼がこの館の主ということは、この少年が絵を描くということなのか? 見る者の全てを幸福にするという不可思議の魔法をこの少年が見せてくれるというのだろうか?
向かい合った席に腰を落とす少年の前にも湯気のたつカップがそっと置かれる。
白野の青く大きな瞳が先ず、ジョーイに注がれ、そして横のアンナに移された。ぶしつけと思えるほど、じっと自分を見つめてくる青い瞳に対しても、アンナは全く反応を示さなかった。ただ、無表情に中空を見つめている。
「妻は……」
ジョーイは言った。
「妻はとても不幸せなのです。深い悲しみから立ち直ることが出来ないのです」
「今の彼女は<抜け殻>だね」
澄んだ声が響いた。白野だった。瞳と同様に青く澄んだ泉を思わせるような声だった。
「どこか遠い所に心を置いてきてしまってる。戻って来たくないんだね。この世界に……」
少し小首をかしげて、自身も悲しそうにそう話す白野の声は優しかった。
その声には歳若い少年とは思えない、<全てを知る者>の響きがあった。この世界の苦しみも悲しみも憤りも喜びも……きっとこの少年は全てをその青い瞳で見ているのだ。
【幸福画廊】。その不可思議の魔法をジョーイは信じたいと思った。この白野という名の少年の青い瞳を信じたいと。
■
「そうです。あの日から妻は抜け殻になってしまいました。どうか妻を助けて下さい! 私に妻を返して下さい!! どうか……【幸福画廊】の絵を売って下さい。お願いします」
そう言って、深く頭を下げる男に、白野は何があったのかを知りたい、と言った。
少し躊躇するジョーイに、後ろに控える執事の朱里が付け加える。
「白野様の絵は、全てご依頼のあった方に合わせて描かれます。奥様のこと、貴方様のことを深く理解した上で、これから描き出されるのです。それがこの画廊の絵です」
既存の絵では奥様を救うことは出来ません。貴方方お二人の為だけに描かれる絵が必要なのです。
「私たち二人の為だけに描かれる絵……?」
「はい」
「あの日の事を話すのは……あの時の事を思い出すのは、私にとってもとても辛い事です。……どうしても必要なのですか?」
「左様で」
「それで、本当に妻を救う事が出来ますか?」
ジョーイの言葉に朱里は微笑んでこう答えた。
「ご安心ください。ここは【幸福画廊】です」
窓の外はまだ雪が舞っている。だが、この館は別だった。別世界のように暖かく、そして穏やかだった。暖炉の火がパチパチと小さな音をたてながら燃えていた。
■■3
「今日は寒い雪の日ですね。しかし、私たちが生まれた国の冬はもっともっと冷たかった……」
ジョーイはポツリポツリと話し始めた。横に座る妻はやはり無表情に宙を見つめたままだ。ジョーイはそんな妻の手をそっと握りしめている。
「私たちは北からの亡命者なのです。私たちの母国は……母国とは呼びたくありませんがね。あの国には自由がありませんでした。独裁政権が全てを管理し、そして国の全てを支配していた。国に有害とされる書物も宗教も学問も……その全てが禁止されていました。それに異を唱える者は全て逮捕され、拘留されてしまうのです」
ジョーイは話しながら白野の表情を伺った。青い瞳が静かに彼を見つめている。
「私はそんな母国に愛想が尽きていました。あの国には本当に何もなかった。学ぶ権利も、話す権利も、想う相手と婚姻する権利すらも……。私とアンナは出会い、互いに惹かれあい、そして恋をしました。しかし、それは国の唱える<階級差>故に決して許されない恋だったのです」
アンナの手を握る指に力がこもる。
母国の唱え続ける<階級>とは何なのだろう? 皆、同じ国の国民なのに。皆、同じ人間なのに。
「アンナに子どもが出来た時、私は国を捨てる決心をしました。幸い……というとヘンですが、私達には親も兄弟もおりませんでしたので、その点は身軽なものでした。お互いの天涯孤独な身の上故に、私達は惹かれあったのかもしれませんね」
なぜ同じ人間に上下の優劣を付けなければならないのか。それを良しとするあの国の全てが私には分らなかった。アンナを、ただ生まれた場所のみで蔑む人々が許せなかった。
「アンナは私に付いて来ると言ってくれました。私は<その日>の為の準備を始め、そしてアンナはこっそりと周囲に内緒で赤ん坊を産み落としたのです。私と同じ目の色をしたかわいい男の子でした。マイケルと名付けました」
ジョーイはいったん話をとめて、紅茶のカップを口に運んだ。これから、まだ長い話になる。辛い話になる。マイケルのあどけない顔がまぶたに浮かんだ。彼と同じグレーの瞳。でも顔立ちは母親似だった、愛するマイケルの幼い顔が。
■
「お茶のお代わりは如何ですか? 奥様には温かいミルクの方がよろしいでしょうか。すぐにお持ち致しましょう」
そう言って、朱里がいったん部屋を出て行った。ジョーイは妻のカップを見る。口もつけられないままにすっかり覚めてしまった紅い液体。
「国を捨てたいと願っていたのは私達だけではありませんでした。亡命を手助けしている地下組織が私達を導いてくれましたが、輸出用の積荷に紛れて潜り込んだ船の倉庫には、私達以外にも5人の密航者が乗っていました。男が2人。そのうちの1人は父親で、妻と二人の子どもがいっしょでした。小学生くらいの男の子と女の子で、不安そうに母親に寄り添って座っていました」
ジョーイは目を閉じた。あの時の様子が思い出される。暗く冷たく濁った空気のよどむ船底。そう。あの時も、やはり季節は冬だった。
「俺はエリックだ。よろしく頼む」
男がジョーイに握手を求めてきた。
「この船の船員は、すごく怠慢な奴らなんだ。仕事なんざマトモにやらねぇ。だから何度もこうやって俺達みたいな密航者に利用されてるって話だ。こんな船底の倉庫なんか滅多なことでは点検にも来ない。船は3日で港につく。それまでの食料や水は充分に用意してあるから安心してくれ」
もう1人の男も近寄ってくる。
「わしはバートンという者だよ。あっちは妻と子ども達だ。おや? なんだ。赤ん坊がいるんだな。おい、泣かれたら困るんじゃないか?」
心配そうにエリックに問う。赤ん坊が見つかれば、全員が一蓮托生で捕まってしまう。彼の心配は尤もだった。赤ん坊を疎んじるような目つきで見ることも仕方のない事だ。彼にも守るべき家族がいるのだから。
「ここは船底で、船室からは随分離れているし、鉄板も厚いから大丈夫だ。エンジン音の唸りもあるし……多少の物音では上まで響かねぇよ。でもまあ、なるだけ静かにさせておいてくれよ、奥さん。何事も用心に越した事はねぇからな」
エリックが笑いながらバートンを取り成してくれた。
口調や顔立ちは荒くれ風だが、このエリックという男。道理の分った好人物らしかった。
「分りました。気をつけます」
アンナが小さくそう言った。マイケルを抱く指先が震えていた。まだ生後1年にも満たない赤ん坊なのだ。「泣かせないように」 という言葉は、彼女をひどく緊張させたようだった。
私はアンナの震える肩に手をかけた。不安気に私を見つめる瞳に微笑んで頷いてやった。
3日。3日の辛抱だ。大丈夫。きっとうまく行く。アンナも薄く微笑んだ。
「わぁ、赤ちゃんだ。かわいいねぇ~ママ」
子ども達が赤ん坊を覗き込む。子どもたちにあやされて、マイケルもきゃっきゃと笑っていた。
大丈夫。きっとうまく行く。私は呪文のようにその言葉を胸の奥で繰り返す。
■■4
2日間は何事もなく無事に過ぎた。
明日この船は港に入る。そこはもう新天地だ。
ずっと男3人、交代で寝ずの番をした。明りは極力落としておく。
暗い船内に息が詰まりそうな気がするが、マイケルはこの状況を察してくれているのだろうか? 低くむずかる程度で、大きな声を上げて泣き出すことはほとんどなかった。
最初は少し泣き出しても、上の様子に聞き耳を立てて緊張する私達だったが、エリックの言った<この船の船員の怠慢>は本物のようで、船底に下りてこようとする足音などはただの一度も聞く事がなかった。
排泄物の臭いが漂う。私たちは積荷の影で用を足すことにしていた。船底なので空気もほとんど流れない為、それがかなり辛い。そのためか皆、一様に食欲もないようだった。バートンの子どもたちも疲れた様子で床板の上に転がっている。
あと1日。エリックと交代して私は少し眠る事にした。
マイケルとアンナと私。3人で幸せに暮す夢を見た。その幸福まであと1日。
唐突に。私は強く肩を揺すられて目を覚ました。暗闇に慣れた目にエリックの緊張した顔が映る。
「誰か……降りてくる」
『シイー(静かに)』というジェスチャーをしながら、エリックがそう言った。険しい目つきで上を伺う。私も同じく階上の音に耳をそばだてた。
……確かに聴こえる。エンジン音に混じるかすかな足音。それが……降りてくる。話し声も聴こえた。二人だ。男。
「ママァ~……」
女の子が今にも泣きべそをかきそうな顔で母親の胸にしがみ付く。
「しいぃぃー!」
娘を胸に抱き寄せながら母親が低く叱った。
無意識にアンナを捜す。彼女はマイケルと壁際に居た。マイケルは眠っているらしい。アンナの顔に恐怖が見えた。多分、私も含めた全員の顔が恐怖に強張っているのだろう。
コツ……コツ……コツ……
降りてくる……近づいてくる……
足音と共に声も近づいてきていた。とぎれとぎれに会話の内容が聞き取れる。
「……だからさぁ……と思うワケよ……」
「船長は…………だからなぁ~。積荷に勝手に手を………………どやされるぞ」
「なぁに……1本くらい……には分るもんか……だからな」
近づいてくる……近づいてくる……
船員2人組はどうやら積荷の中の酒を失敬しようとしているらしい。これまでは船員の怠慢に助けらていたが、それが裏目に回ってしまった。
見つかったら、全て終わりだ。私たちに明日は来ない。緊張の糸が張り詰める。
その時。今まで静かに眠っていた筈のマイケルが、むずかり出してしまったのだ。
■
ウェ……ウェ……ヒック……ヒック……ヒック……
船底に潜む私達全員の目という目が、一斉にマイケルに向けられた。
アンナの表情に絶望が浮かぶ。
「しぃぃ~っ。静かにするんだ。赤ん坊を泣かせるな!」
「ママァ~ ママァ~。怖いよぉ~」
「黙れ! 声を立てるんじゃない!!」
ウェ……ウェ……ヒック……ヒック……ヒック……
アンナはマイケルを懸命にあやすが、泣き声は止みそうにない。
「赤ん坊の口を塞げ! 早く、早く!!」
「お願い! 赤ちゃんを黙らせて!!」
アンナの白い手が、マイケルの小さな口の上に当てられる。
ウウー……ウゥー……ゥム……
泣かないでくれ! マイケル……頼む! 泣くな!!
見つかってしまう。私達全員が捕らえられてしまう……
ああ……神様……
■
「アンナは必死で死でマイケルの口を塞いでいました。自分の胸にマイケルの顔を押し付けて、マイケルの声の漏れることを防ごうとしていました……。見つかれば……私達全員に待っているものは<死>だけです。コツコツと近づいてくる足音の響く船底で、私たちは死神がカマを振り上げてそこに立っているのを確かに見ました。あの恐怖は……忘れられません」
もうダメだと観念した時、男達を別の船員が呼んだのだ。
「おい! 何をしているんだ? 早く部署に戻れ!」 と。
「死の足音が少しずつ遠ざかって……私たちはやっとお互いの顔を見合わせました」
時間にすれば、ほんの数分の出来事だったでしょう。でも、私たちにとってあの時間は、数時間のように感じられました。息もつけないほどの緊張に、私も周りの皆も脂汗が滲んでいました。安堵のあまりそのまま気を失ってしまうかと思えたほどです。
「ああ~」
「助かった……」
「神様、感謝します」
「良かったよ。赤ん坊が泣き止んでくれて」
皆が、安堵の笑みを浮かべていました。
「アンナ、よくやってくれたね」
「私はアンナを振り返りました。ああ……アンナ……。彼女は何も答えることが出来ないでいました。身体が離れた所からでもそうと分るほどにぶるぶる震えていて、顔は血の気を失って蒼白でした」
辛い過去の記憶に、ジョーイの顔が悲しみに歪む。
隣に座るアンナはやはり無表情に虚空を見つめているだけだ。多分夫の声など耳に届いてはいないのだろう。
彼女の時間は<あの時>止まった。
「マイケルは死んでいました。
アンナはマイケルを泣かすまいとして……声を漏らさせるまいとして赤ん坊の口を塞ぎ、必死で胸に押さえ付け……そうして小さなマイケルは母親の腕の中で窒息死していたのです!!」
■■5
こらえきれない哀しみが胸の中に込み上げて、ジョーイは顔を両手で覆った。
ああ、あの時。他に誰も居なかったなら……私達3人だけだったなら……。
多分、マイケルは泣き声を上げる事が出来ただろう。そして親子3人で揃って処刑されたことだろう。私は例えそうなっても悔いなどなかった。自分の保身の為にマイケルを黙らせた訳では決してない。それはきっとアンナもそうだ。
しかし、私達は私達だけではなかった。
他に5人もの自由を求める者達がいた。彼らは生きることを夢見て危険な旅に赴いた同士だった。私達の為に死なせる訳にはいかなかった。
仕方がなかった。仕方がなかった。
でも、それでも!
ならば、マイケルは何のために死んだのだ?
あの日からアンナの心は凍りついたままだ。あの冬なお寒い北の国に心を奪い去られたままだ。そして、それは私も同じ……。私達の心には今も3年前と同じ、あの冷たい雪が降っている。凍てついた雪が絶えることなく降り積もっている。
「大丈夫……」
今まで、ただじっと話を聞いていた白野がそう言った。
「雪は冷たいものだけど、沢山沢山折り重なって、いつか全てを白く塗り替えてくれるんだよ。雪は全てを浄化する為に、空から永い旅をしてこの地上までやって来るんだ」
白野が後ろに控える朱里を振り返る。万事を心得た執事が主人にスケッチブックを手渡した。
気が付けば、いつの間にかテーブルの上のお茶は新しいものに入れ替えられている。細く立ち上る湯気の向こうで白野は絵筆を動かし始めるのだった。
■
そうして。どのくらいの時間が過ぎたのだろう。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
静かだった。
ただ、白野が紙の上に走らせる絵筆の音がシュッ……シュッ……と聴こえるだけだ。
「ふぅー……」
白野の深い吐息と共に筆が置かれた。スケッチブックを朱里に押し付けるように手渡し、2・3言何かをつぶやくと、そのまま部屋を出て行ってしまう。朱里が渡されたスケッチに目を落とす。しばし見つめて、それをジョーイに差し出した。
「この絵を、奥様に」
スケッチブックに描かれているのは、画面一杯の赤ん坊の顔だった。幸せいっぱいに笑う赤ん坊の顔。どことなくアンナに似ている。いや、目の辺りはジョーイにも……。
「奥様の体内には、今、この子が宿っています」
「え!?」
驚いてジョーイが妻を振り返る。
そっとアンナの目の前にスケッチブックを広げてやる。アンナの表情にほんの僅かな感情が揺らいだようにジョーイには見えた。
「貴方方は尊い者を失った。ですが、その子は貴方方に命を賭して贈り物をくれました。赤ん坊は泣くのが当たり前です。子どもが泣く事も出来ない社会など、本来あってはならないことです。でも、今貴方がたが立っているこの場所には、その自由が許されていますよ。子どもが……いえ、子どもだけではなく、大人だって大きな声で泣くことの自由が」
朱里の低い、静かな声が確信に満ちて続けられた。
「自由に泣く事の出来る場所では、心から笑う事もきっと出来ます。貴方方なら必ず出来ます」
「おお…………おおう……おおう……」
アンナだった。スケッチブックを握り締め、しゃくりあげる。次第にそれは激しくなり、大きな慟哭に代わった。
「アンナが……泣いている……」
もう2度と息をする事のない小さな亡骸を胸に抱いたまま……ただ絶望に瞳を見開いたままで涙を流す事さえ忘れていた妻。
そのアンナが……泣いている。
「貴女は自分の自由さえ、悲しみの中で坊やといっしょに埋葬してしまったのですね。<泣くことの自由>を坊やから奪ってしまった自分自身をそうして罰していらっしゃったのですか?」
「おお……おおう……おおう……」
全てを押し流すように、3年間その自由を奪われていた涙は、塞きを切ったようにアンナの目から溢れ出し、とどまる事を知らなかった。
腕の中に抱く子は笑っている。幸せそうに微笑っている。
1枚の絵の中。そこにいつか夢見た幸福があった。そしてアンナのおなかの中にも……そう。幸福が育まれている。
■■6
「本当に、先程の額でいいんでしょうか? あの……この画廊の絵はかなり値が張ると聴いていたのですが。あ、勿論今の持ち合わせで足りないようでしたら、後日必ず工面しますが」
もう辞そうという玄関先まで来てしまってからも、ジョーイは絵の値段の事を気にしていた。金で全てが補える訳ではないのだが……他にこの感謝の念を表現できる手段を思いつくことが出来そうにない。
「いえ。ご心配には及びません。主人からこの額を頂戴するようにと、そう申し付けられておりますので」
「では、せめてあの少年……ご主人に、もう1度お会い出来ませんか? 私達は満足にお礼も言っていなかった」
「申し訳ありませんが」
朱里は丁寧に断った。
「主人はもう、休んでおります。疲れてしまったのですよ。【幸福画廊】の絵を描くことは精神の集中をとても必要とする作業なのです」
「ああ……そうですね。これが【幸福画廊】の魔法なのですね」
ジョーイは納得したように横に立つ妻を見つめる。
アンナがそっと見つめ返した。長く泣き濡れていた瞳は赤く熱をおびているが、それでもここへ来た時とは異なり、そこには確かに光があった。
「ありがとう」
「丈夫な赤ちゃんを授かりますように」
「ええ。元気いっぱい、思う存分泣かせてやります。そしてそれ以上に笑わせてやりたいんです。きっと……」
「ええ。きっと」
二つの影は雪の中からまたお辞儀をした。何度も振り返っては頭を下げる。そのうちに雪の中に溶け込んで見えなくなった。朱里は二つの影がすっかり見えなくなってしまうまで、しばらく玄関口にたたずんでいた。
■■エピローグ
ベットの中は<もぬけの殻>だったのだ。
つまりは絶対アトリエに居る筈の、その主の姿が見当たらない。朱里は迷わずテラスに向かった。
「白野様?」
朱里の大切な主は、一人空を見上げていた。空から休むことなく降り続く雪をその手の平に受け止めて遊んでいる。空からの永い旅を終えて、白野の手の平にたどり着いた雪たちは、その手の温もりに包まれて静かに溶けて消えていく。
白い白い美しい雪。
全てを浄化する為に空から舞い降りてくる小さな天使のカケラ。
テラスから見える屋敷の前庭に降る雪は、既に今日の来客の足跡さえも消し去っている。
ただなだらかな白銀の世界が広がるだけだ。
「美しいですね、白野さ……」
朱里がそう言いかけたその時。
「くしゅん!」
白野が小さなくしゃみをした。途端に朱里が慌て出す。
「白野様! ああ~よく見ればこんな薄着で……。お風邪を召したらどうします。さあ、早く部屋にお戻り下さい」
多少……。いや、かなり強引に、小柄な主人の身体を半ば抱えるようにして、さっさと室内に引き上げていく。
「温かいココアをお持ちしましょう。ああ、玉子酒の方がよろしいでしょうか? いや、それとも……」
パタンとテラスの扉が閉じられた。カーテンが引かれる。
テラスの上には二組の足跡が残された。
その上にも、後から後から。
雪は空から降り積もる……。
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
【幸福画廊】
そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。
館にはどの壁にも多数の絵画が飾られていたが、この部屋はまた特別だった。多いというよりも、散乱していると形容した方が正しいだろう。濃い絵の具の臭いが鼻を突く。
ここは、この館の主・白野のアトリエだった。
大きく窓の取られた白い壁。そこから続くテラスにはうっすらと雪が積もっている。
外の冷えた空気が開かれた窓から入り込んでいて……。
朱里は思わずため息をついた。
暖房装置の乾燥した熱気が絵の具のノリに影響する事は重々承知しているが、これでは外気温と大差がない。
「お風邪を召しますよ。白野様」
部屋の中央でカンバスに向かう少年に、そう声をかけてみる。
応えを期待しての言葉ではなかった。彼の主人である歳若いこの館の主は、大変寡黙な少年であったから。案の定、少年は黙々とカンバスに向かったままで、朱里もそれ以上は何も言わず、ただ薄いカーテンを揺らめかせている窓を閉じた。
「おや? お客様のようですね……」
階下から低く呼び鈴を鳴らす音が聞こえる。
「今日の予約は入っていなかった筈なのですが……」
白野は絵筆を動かす手を止めて、窓を見遣った。暦上はもう春だと言うのに、今年の冬はよく冷える。
「こんな雪の中をやってくるなんて……きっと哀しい人達だね」
雪がしんしんと降り積もる。
まるで全てを包み込もうとするかのように、雪はしんしんと降り積もる。
■■1
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
この不思議な話を聞かされて以来、ジョーイは画廊の場所を必死で捜し求めた。この話にすがりついた。
こちら側で暮すようになって、既に3年の月日が流れている。それなのに、妻のアンナの時間はあの時以来凍りついてしまっているのだ。あの恐ろしい逃避行から、もうずっと……。
どんな名医の治療も、療養も、アンナの哀しみを癒す事は出来なかった。アンナはあの日以来、笑わない。怒らない。泣く事さえも、もうしない。
全ての感情を無くしてしまった。妻はあの日から不幸せなままだった。
ジョーイは優しくアンナの手を取って、椅子に腰掛けさせてやる。自分も隣り合った席に腰を落ち着け、そして周囲を見回した。
広く、重厚な家具の揃えられた室内。壁には沢山の絵画が飾られている。
大きな暖炉では薪がパチパチと音をたてながら火の中ではぜていて、室内は心地よく暖かかった。
「【幸福画廊】へようこそ」
先程、玄関口で自分達を招き入れた、この館の執事だという男が飲み物を運んで来た。確か朱里という名前だったか。
オリエンタルにしては長身の男だった。決して自国でも低い方ではない自分と同じ位の上背がある。長身の身体の上に載る顔は、執事という職業を持つにはかなり歳若いようにジョーイには思えた。黒い長い髪を肩の辺りで縛っている。表情は穏やかだったが、顔立ちはどちらかというと精悍で、黒の上物のスーツがよく似合っている。
「ダージリン・ティでございます。よろしければこちらのブランディーを一垂らしお入れ下さい。外は寒うございましたでしょう。身体が温まりますよ」
落ち着いた物腰で茶を勧めてくる。声は低く、静かで落ち着いた響きがあり、ジョーイはほっと緊張を解いた。
伸ばした指に触れるカップの温かさが、何故だかひどく嬉しかった。
■■2
カチャリと奥の扉が開いて、入室してくる人影がある。
「当屋の主、白野様です」
そう朱里に紹介された男の風貌に、ジョーイはかなり戸惑いを覚えた。
線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛がまだ愛らしいとさえ思われる少年だ。着ているものは、細身で丈の長い白の中国服にズボン。
東洋人は年齢よりも若く見えると聞いたことがあるが……。それにしても、とても成人しているとは思えない。彼がこの館の主ということは、この少年が絵を描くということなのか? 見る者の全てを幸福にするという不可思議の魔法をこの少年が見せてくれるというのだろうか?
向かい合った席に腰を落とす少年の前にも湯気のたつカップがそっと置かれる。
白野の青く大きな瞳が先ず、ジョーイに注がれ、そして横のアンナに移された。ぶしつけと思えるほど、じっと自分を見つめてくる青い瞳に対しても、アンナは全く反応を示さなかった。ただ、無表情に中空を見つめている。
「妻は……」
ジョーイは言った。
「妻はとても不幸せなのです。深い悲しみから立ち直ることが出来ないのです」
「今の彼女は<抜け殻>だね」
澄んだ声が響いた。白野だった。瞳と同様に青く澄んだ泉を思わせるような声だった。
「どこか遠い所に心を置いてきてしまってる。戻って来たくないんだね。この世界に……」
少し小首をかしげて、自身も悲しそうにそう話す白野の声は優しかった。
その声には歳若い少年とは思えない、<全てを知る者>の響きがあった。この世界の苦しみも悲しみも憤りも喜びも……きっとこの少年は全てをその青い瞳で見ているのだ。
【幸福画廊】。その不可思議の魔法をジョーイは信じたいと思った。この白野という名の少年の青い瞳を信じたいと。
■
「そうです。あの日から妻は抜け殻になってしまいました。どうか妻を助けて下さい! 私に妻を返して下さい!! どうか……【幸福画廊】の絵を売って下さい。お願いします」
そう言って、深く頭を下げる男に、白野は何があったのかを知りたい、と言った。
少し躊躇するジョーイに、後ろに控える執事の朱里が付け加える。
「白野様の絵は、全てご依頼のあった方に合わせて描かれます。奥様のこと、貴方様のことを深く理解した上で、これから描き出されるのです。それがこの画廊の絵です」
既存の絵では奥様を救うことは出来ません。貴方方お二人の為だけに描かれる絵が必要なのです。
「私たち二人の為だけに描かれる絵……?」
「はい」
「あの日の事を話すのは……あの時の事を思い出すのは、私にとってもとても辛い事です。……どうしても必要なのですか?」
「左様で」
「それで、本当に妻を救う事が出来ますか?」
ジョーイの言葉に朱里は微笑んでこう答えた。
「ご安心ください。ここは【幸福画廊】です」
窓の外はまだ雪が舞っている。だが、この館は別だった。別世界のように暖かく、そして穏やかだった。暖炉の火がパチパチと小さな音をたてながら燃えていた。
■■3
「今日は寒い雪の日ですね。しかし、私たちが生まれた国の冬はもっともっと冷たかった……」
ジョーイはポツリポツリと話し始めた。横に座る妻はやはり無表情に宙を見つめたままだ。ジョーイはそんな妻の手をそっと握りしめている。
「私たちは北からの亡命者なのです。私たちの母国は……母国とは呼びたくありませんがね。あの国には自由がありませんでした。独裁政権が全てを管理し、そして国の全てを支配していた。国に有害とされる書物も宗教も学問も……その全てが禁止されていました。それに異を唱える者は全て逮捕され、拘留されてしまうのです」
ジョーイは話しながら白野の表情を伺った。青い瞳が静かに彼を見つめている。
「私はそんな母国に愛想が尽きていました。あの国には本当に何もなかった。学ぶ権利も、話す権利も、想う相手と婚姻する権利すらも……。私とアンナは出会い、互いに惹かれあい、そして恋をしました。しかし、それは国の唱える<階級差>故に決して許されない恋だったのです」
アンナの手を握る指に力がこもる。
母国の唱え続ける<階級>とは何なのだろう? 皆、同じ国の国民なのに。皆、同じ人間なのに。
「アンナに子どもが出来た時、私は国を捨てる決心をしました。幸い……というとヘンですが、私達には親も兄弟もおりませんでしたので、その点は身軽なものでした。お互いの天涯孤独な身の上故に、私達は惹かれあったのかもしれませんね」
なぜ同じ人間に上下の優劣を付けなければならないのか。それを良しとするあの国の全てが私には分らなかった。アンナを、ただ生まれた場所のみで蔑む人々が許せなかった。
「アンナは私に付いて来ると言ってくれました。私は<その日>の為の準備を始め、そしてアンナはこっそりと周囲に内緒で赤ん坊を産み落としたのです。私と同じ目の色をしたかわいい男の子でした。マイケルと名付けました」
ジョーイはいったん話をとめて、紅茶のカップを口に運んだ。これから、まだ長い話になる。辛い話になる。マイケルのあどけない顔がまぶたに浮かんだ。彼と同じグレーの瞳。でも顔立ちは母親似だった、愛するマイケルの幼い顔が。
■
「お茶のお代わりは如何ですか? 奥様には温かいミルクの方がよろしいでしょうか。すぐにお持ち致しましょう」
そう言って、朱里がいったん部屋を出て行った。ジョーイは妻のカップを見る。口もつけられないままにすっかり覚めてしまった紅い液体。
「国を捨てたいと願っていたのは私達だけではありませんでした。亡命を手助けしている地下組織が私達を導いてくれましたが、輸出用の積荷に紛れて潜り込んだ船の倉庫には、私達以外にも5人の密航者が乗っていました。男が2人。そのうちの1人は父親で、妻と二人の子どもがいっしょでした。小学生くらいの男の子と女の子で、不安そうに母親に寄り添って座っていました」
ジョーイは目を閉じた。あの時の様子が思い出される。暗く冷たく濁った空気のよどむ船底。そう。あの時も、やはり季節は冬だった。
「俺はエリックだ。よろしく頼む」
男がジョーイに握手を求めてきた。
「この船の船員は、すごく怠慢な奴らなんだ。仕事なんざマトモにやらねぇ。だから何度もこうやって俺達みたいな密航者に利用されてるって話だ。こんな船底の倉庫なんか滅多なことでは点検にも来ない。船は3日で港につく。それまでの食料や水は充分に用意してあるから安心してくれ」
もう1人の男も近寄ってくる。
「わしはバートンという者だよ。あっちは妻と子ども達だ。おや? なんだ。赤ん坊がいるんだな。おい、泣かれたら困るんじゃないか?」
心配そうにエリックに問う。赤ん坊が見つかれば、全員が一蓮托生で捕まってしまう。彼の心配は尤もだった。赤ん坊を疎んじるような目つきで見ることも仕方のない事だ。彼にも守るべき家族がいるのだから。
「ここは船底で、船室からは随分離れているし、鉄板も厚いから大丈夫だ。エンジン音の唸りもあるし……多少の物音では上まで響かねぇよ。でもまあ、なるだけ静かにさせておいてくれよ、奥さん。何事も用心に越した事はねぇからな」
エリックが笑いながらバートンを取り成してくれた。
口調や顔立ちは荒くれ風だが、このエリックという男。道理の分った好人物らしかった。
「分りました。気をつけます」
アンナが小さくそう言った。マイケルを抱く指先が震えていた。まだ生後1年にも満たない赤ん坊なのだ。「泣かせないように」 という言葉は、彼女をひどく緊張させたようだった。
私はアンナの震える肩に手をかけた。不安気に私を見つめる瞳に微笑んで頷いてやった。
3日。3日の辛抱だ。大丈夫。きっとうまく行く。アンナも薄く微笑んだ。
「わぁ、赤ちゃんだ。かわいいねぇ~ママ」
子ども達が赤ん坊を覗き込む。子どもたちにあやされて、マイケルもきゃっきゃと笑っていた。
大丈夫。きっとうまく行く。私は呪文のようにその言葉を胸の奥で繰り返す。
■■4
2日間は何事もなく無事に過ぎた。
明日この船は港に入る。そこはもう新天地だ。
ずっと男3人、交代で寝ずの番をした。明りは極力落としておく。
暗い船内に息が詰まりそうな気がするが、マイケルはこの状況を察してくれているのだろうか? 低くむずかる程度で、大きな声を上げて泣き出すことはほとんどなかった。
最初は少し泣き出しても、上の様子に聞き耳を立てて緊張する私達だったが、エリックの言った<この船の船員の怠慢>は本物のようで、船底に下りてこようとする足音などはただの一度も聞く事がなかった。
排泄物の臭いが漂う。私たちは積荷の影で用を足すことにしていた。船底なので空気もほとんど流れない為、それがかなり辛い。そのためか皆、一様に食欲もないようだった。バートンの子どもたちも疲れた様子で床板の上に転がっている。
あと1日。エリックと交代して私は少し眠る事にした。
マイケルとアンナと私。3人で幸せに暮す夢を見た。その幸福まであと1日。
唐突に。私は強く肩を揺すられて目を覚ました。暗闇に慣れた目にエリックの緊張した顔が映る。
「誰か……降りてくる」
『シイー(静かに)』というジェスチャーをしながら、エリックがそう言った。険しい目つきで上を伺う。私も同じく階上の音に耳をそばだてた。
……確かに聴こえる。エンジン音に混じるかすかな足音。それが……降りてくる。話し声も聴こえた。二人だ。男。
「ママァ~……」
女の子が今にも泣きべそをかきそうな顔で母親の胸にしがみ付く。
「しいぃぃー!」
娘を胸に抱き寄せながら母親が低く叱った。
無意識にアンナを捜す。彼女はマイケルと壁際に居た。マイケルは眠っているらしい。アンナの顔に恐怖が見えた。多分、私も含めた全員の顔が恐怖に強張っているのだろう。
コツ……コツ……コツ……
降りてくる……近づいてくる……
足音と共に声も近づいてきていた。とぎれとぎれに会話の内容が聞き取れる。
「……だからさぁ……と思うワケよ……」
「船長は…………だからなぁ~。積荷に勝手に手を………………どやされるぞ」
「なぁに……1本くらい……には分るもんか……だからな」
近づいてくる……近づいてくる……
船員2人組はどうやら積荷の中の酒を失敬しようとしているらしい。これまでは船員の怠慢に助けらていたが、それが裏目に回ってしまった。
見つかったら、全て終わりだ。私たちに明日は来ない。緊張の糸が張り詰める。
その時。今まで静かに眠っていた筈のマイケルが、むずかり出してしまったのだ。
■
ウェ……ウェ……ヒック……ヒック……ヒック……
船底に潜む私達全員の目という目が、一斉にマイケルに向けられた。
アンナの表情に絶望が浮かぶ。
「しぃぃ~っ。静かにするんだ。赤ん坊を泣かせるな!」
「ママァ~ ママァ~。怖いよぉ~」
「黙れ! 声を立てるんじゃない!!」
ウェ……ウェ……ヒック……ヒック……ヒック……
アンナはマイケルを懸命にあやすが、泣き声は止みそうにない。
「赤ん坊の口を塞げ! 早く、早く!!」
「お願い! 赤ちゃんを黙らせて!!」
アンナの白い手が、マイケルの小さな口の上に当てられる。
ウウー……ウゥー……ゥム……
泣かないでくれ! マイケル……頼む! 泣くな!!
見つかってしまう。私達全員が捕らえられてしまう……
ああ……神様……
■
「アンナは必死で死でマイケルの口を塞いでいました。自分の胸にマイケルの顔を押し付けて、マイケルの声の漏れることを防ごうとしていました……。見つかれば……私達全員に待っているものは<死>だけです。コツコツと近づいてくる足音の響く船底で、私たちは死神がカマを振り上げてそこに立っているのを確かに見ました。あの恐怖は……忘れられません」
もうダメだと観念した時、男達を別の船員が呼んだのだ。
「おい! 何をしているんだ? 早く部署に戻れ!」 と。
「死の足音が少しずつ遠ざかって……私たちはやっとお互いの顔を見合わせました」
時間にすれば、ほんの数分の出来事だったでしょう。でも、私たちにとってあの時間は、数時間のように感じられました。息もつけないほどの緊張に、私も周りの皆も脂汗が滲んでいました。安堵のあまりそのまま気を失ってしまうかと思えたほどです。
「ああ~」
「助かった……」
「神様、感謝します」
「良かったよ。赤ん坊が泣き止んでくれて」
皆が、安堵の笑みを浮かべていました。
「アンナ、よくやってくれたね」
「私はアンナを振り返りました。ああ……アンナ……。彼女は何も答えることが出来ないでいました。身体が離れた所からでもそうと分るほどにぶるぶる震えていて、顔は血の気を失って蒼白でした」
辛い過去の記憶に、ジョーイの顔が悲しみに歪む。
隣に座るアンナはやはり無表情に虚空を見つめているだけだ。多分夫の声など耳に届いてはいないのだろう。
彼女の時間は<あの時>止まった。
「マイケルは死んでいました。
アンナはマイケルを泣かすまいとして……声を漏らさせるまいとして赤ん坊の口を塞ぎ、必死で胸に押さえ付け……そうして小さなマイケルは母親の腕の中で窒息死していたのです!!」
■■5
こらえきれない哀しみが胸の中に込み上げて、ジョーイは顔を両手で覆った。
ああ、あの時。他に誰も居なかったなら……私達3人だけだったなら……。
多分、マイケルは泣き声を上げる事が出来ただろう。そして親子3人で揃って処刑されたことだろう。私は例えそうなっても悔いなどなかった。自分の保身の為にマイケルを黙らせた訳では決してない。それはきっとアンナもそうだ。
しかし、私達は私達だけではなかった。
他に5人もの自由を求める者達がいた。彼らは生きることを夢見て危険な旅に赴いた同士だった。私達の為に死なせる訳にはいかなかった。
仕方がなかった。仕方がなかった。
でも、それでも!
ならば、マイケルは何のために死んだのだ?
あの日からアンナの心は凍りついたままだ。あの冬なお寒い北の国に心を奪い去られたままだ。そして、それは私も同じ……。私達の心には今も3年前と同じ、あの冷たい雪が降っている。凍てついた雪が絶えることなく降り積もっている。
「大丈夫……」
今まで、ただじっと話を聞いていた白野がそう言った。
「雪は冷たいものだけど、沢山沢山折り重なって、いつか全てを白く塗り替えてくれるんだよ。雪は全てを浄化する為に、空から永い旅をしてこの地上までやって来るんだ」
白野が後ろに控える朱里を振り返る。万事を心得た執事が主人にスケッチブックを手渡した。
気が付けば、いつの間にかテーブルの上のお茶は新しいものに入れ替えられている。細く立ち上る湯気の向こうで白野は絵筆を動かし始めるのだった。
■
そうして。どのくらいの時間が過ぎたのだろう。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
静かだった。
ただ、白野が紙の上に走らせる絵筆の音がシュッ……シュッ……と聴こえるだけだ。
「ふぅー……」
白野の深い吐息と共に筆が置かれた。スケッチブックを朱里に押し付けるように手渡し、2・3言何かをつぶやくと、そのまま部屋を出て行ってしまう。朱里が渡されたスケッチに目を落とす。しばし見つめて、それをジョーイに差し出した。
「この絵を、奥様に」
スケッチブックに描かれているのは、画面一杯の赤ん坊の顔だった。幸せいっぱいに笑う赤ん坊の顔。どことなくアンナに似ている。いや、目の辺りはジョーイにも……。
「奥様の体内には、今、この子が宿っています」
「え!?」
驚いてジョーイが妻を振り返る。
そっとアンナの目の前にスケッチブックを広げてやる。アンナの表情にほんの僅かな感情が揺らいだようにジョーイには見えた。
「貴方方は尊い者を失った。ですが、その子は貴方方に命を賭して贈り物をくれました。赤ん坊は泣くのが当たり前です。子どもが泣く事も出来ない社会など、本来あってはならないことです。でも、今貴方がたが立っているこの場所には、その自由が許されていますよ。子どもが……いえ、子どもだけではなく、大人だって大きな声で泣くことの自由が」
朱里の低い、静かな声が確信に満ちて続けられた。
「自由に泣く事の出来る場所では、心から笑う事もきっと出来ます。貴方方なら必ず出来ます」
「おお…………おおう……おおう……」
アンナだった。スケッチブックを握り締め、しゃくりあげる。次第にそれは激しくなり、大きな慟哭に代わった。
「アンナが……泣いている……」
もう2度と息をする事のない小さな亡骸を胸に抱いたまま……ただ絶望に瞳を見開いたままで涙を流す事さえ忘れていた妻。
そのアンナが……泣いている。
「貴女は自分の自由さえ、悲しみの中で坊やといっしょに埋葬してしまったのですね。<泣くことの自由>を坊やから奪ってしまった自分自身をそうして罰していらっしゃったのですか?」
「おお……おおう……おおう……」
全てを押し流すように、3年間その自由を奪われていた涙は、塞きを切ったようにアンナの目から溢れ出し、とどまる事を知らなかった。
腕の中に抱く子は笑っている。幸せそうに微笑っている。
1枚の絵の中。そこにいつか夢見た幸福があった。そしてアンナのおなかの中にも……そう。幸福が育まれている。
■■6
「本当に、先程の額でいいんでしょうか? あの……この画廊の絵はかなり値が張ると聴いていたのですが。あ、勿論今の持ち合わせで足りないようでしたら、後日必ず工面しますが」
もう辞そうという玄関先まで来てしまってからも、ジョーイは絵の値段の事を気にしていた。金で全てが補える訳ではないのだが……他にこの感謝の念を表現できる手段を思いつくことが出来そうにない。
「いえ。ご心配には及びません。主人からこの額を頂戴するようにと、そう申し付けられておりますので」
「では、せめてあの少年……ご主人に、もう1度お会い出来ませんか? 私達は満足にお礼も言っていなかった」
「申し訳ありませんが」
朱里は丁寧に断った。
「主人はもう、休んでおります。疲れてしまったのですよ。【幸福画廊】の絵を描くことは精神の集中をとても必要とする作業なのです」
「ああ……そうですね。これが【幸福画廊】の魔法なのですね」
ジョーイは納得したように横に立つ妻を見つめる。
アンナがそっと見つめ返した。長く泣き濡れていた瞳は赤く熱をおびているが、それでもここへ来た時とは異なり、そこには確かに光があった。
「ありがとう」
「丈夫な赤ちゃんを授かりますように」
「ええ。元気いっぱい、思う存分泣かせてやります。そしてそれ以上に笑わせてやりたいんです。きっと……」
「ええ。きっと」
二つの影は雪の中からまたお辞儀をした。何度も振り返っては頭を下げる。そのうちに雪の中に溶け込んで見えなくなった。朱里は二つの影がすっかり見えなくなってしまうまで、しばらく玄関口にたたずんでいた。
■■エピローグ
ベットの中は<もぬけの殻>だったのだ。
つまりは絶対アトリエに居る筈の、その主の姿が見当たらない。朱里は迷わずテラスに向かった。
「白野様?」
朱里の大切な主は、一人空を見上げていた。空から休むことなく降り続く雪をその手の平に受け止めて遊んでいる。空からの永い旅を終えて、白野の手の平にたどり着いた雪たちは、その手の温もりに包まれて静かに溶けて消えていく。
白い白い美しい雪。
全てを浄化する為に空から舞い降りてくる小さな天使のカケラ。
テラスから見える屋敷の前庭に降る雪は、既に今日の来客の足跡さえも消し去っている。
ただなだらかな白銀の世界が広がるだけだ。
「美しいですね、白野さ……」
朱里がそう言いかけたその時。
「くしゅん!」
白野が小さなくしゃみをした。途端に朱里が慌て出す。
「白野様! ああ~よく見ればこんな薄着で……。お風邪を召したらどうします。さあ、早く部屋にお戻り下さい」
多少……。いや、かなり強引に、小柄な主人の身体を半ば抱えるようにして、さっさと室内に引き上げていく。
「温かいココアをお持ちしましょう。ああ、玉子酒の方がよろしいでしょうか? いや、それとも……」
パタンとテラスの扉が閉じられた。カーテンが引かれる。
テラスの上には二組の足跡が残された。
その上にも、後から後から。
雪は空から降り積もる……。
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
【幸福画廊】
そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。
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