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終章
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ステファーヌの遺体を旅籠から運び出したクロイゼルが、ここに辿り着くまでの間、なにを考えていたかはわからない。
ただ彼は、ほんの一時でも自分の主人になるかもしれなかったステファーヌに敬意を払ってくれていたことは確かだ。
「この教会を選んだのはクロイゼルだから、文句はすべて彼に言ってよね。彼がいつ戻ってくるかは知らないけれど」
「いつか、必ず戻ってくるはずよ。約束したもの」
拳銃で撃たれて負った傷は酷いものだった。あの怪我のまま、ギーレンの死体を処分するため屋敷に火を放ったのであれば、生還する可能性は低い。
それでも、ジェルメーヌは待つことにした。
クロイゼルがプラハに戻ってくるか、死んだという知らせが届くまで。
「君は、もうしばらくここで暮らすつもり?」
白い息を吐きながらフランソワが尋ねる。
「えぇ、できれば。リュネヴィル城に戻っても、もうわたしの居場所はないもの」
「母上はいつでも君を歓迎すると言っていたよ。もっとも、もうすぐリュネヴィル城は僕の持ち物ではなくなるけど」
「どういうこと?」
眉を顰めてジェルメーヌが尋ねると、フランソワは鉛色の雪雲で覆われた空に目を遣った。
「結婚を機に、ロレーヌを手放さなければならなくなると思う」
「なぜ?」
「僕が大公女と結婚することの代償だよ。ロレーヌがハプスブルク家の所領になることが気に入らない国があるらしい」
「――そう」
「母上はなんとしてでも阻止するって息巻いているけど、まず無理だろうね」
過去の歴史の中で、ロレーヌは幾度となくフランスの占領に耐え抜いてきた。
それも間もなく終わってしまうのだと考えると、奇妙な感慨を覚える。
「プラハに飽きたら、いつでもウィーンにおいで。歓迎するよ」
「ありがとう。いつか、またウィーンに行くわ」
フランソワがオーストリア大公女と結婚するために失うものは領地だけではない。
きっとこれからも、様々なものを手放していかなければならないはずだ。
彼とて、自分が捨てたものや犠牲にしてきたものがあることに、痛みを感じていないはずがない。
だからこそ、今日までこの教会に寄進をし続けてきたのだろう。
「大公女にお会いできる日を楽しみにしているわ」
ロレーヌ公家の嫡出子ではないため、フランソワの結婚式に出席することは叶わない。異母弟の花婿姿をじかに見られないことだけが多少残念ではあるが、仕方ないと諦めた。
「あなたは長生きしてね、フランソワ」
ステファーヌの墓石に視線を戻し、ジェルメーヌは呟く。
「生きていれば、きっとロレーヌも取り戻せるわ。いまは無理でも、いずれ」
「そうだね」
空から降ってくる綿帽子のような雪を顔に受けながら、フランソワは頷いた。
「そのときは、君にも手伝ってもらうからね」
「もちろん、めいいっぱい手伝うわ」
フランソワが神聖ローマ帝国皇帝の娘婿になれば、ロレーヌ公家は絶大な権力の庇護下に入ることができる。
いずれフランソワの息子はハプスブルク家の当主となれば、フランソワも恩恵は得られるはずだ。
「楽しみね」
明日は町中の花屋から花を買ってこの墓に供えなければ。
まずは目の前のことを考えながら、ジェルメーヌは微笑んだ。
*
翌朝、雪は降り止んでいた。
足首まで埋もれるほど降り積もった雪は、薄い雲間から差し込む陽の光を浴びてきらきらと雪面が輝いている。
多忙な身のフランソワは教会に多額の献金をすると、昨日の午後のうちにプラハを出発し、ウィーンへと戻っていった。本当に寄進と墓参りだけが目的だったらしい。
彼もロレーヌ公家の犠牲となったステファーヌの死にはいまだ責任を感じているのだ。
ミネットを連れて新市街の屋敷を出たジェルメーヌは、途中の花屋で薔薇を買った。時期が時期だけに数えるほどしか薔薇はなかったが、すべて買い占めた。
(春になったら、庭に四季咲きの薔薇を植えよう。いつでも、ステファーヌの墓に持って行けるように)
ただ彼は、ほんの一時でも自分の主人になるかもしれなかったステファーヌに敬意を払ってくれていたことは確かだ。
「この教会を選んだのはクロイゼルだから、文句はすべて彼に言ってよね。彼がいつ戻ってくるかは知らないけれど」
「いつか、必ず戻ってくるはずよ。約束したもの」
拳銃で撃たれて負った傷は酷いものだった。あの怪我のまま、ギーレンの死体を処分するため屋敷に火を放ったのであれば、生還する可能性は低い。
それでも、ジェルメーヌは待つことにした。
クロイゼルがプラハに戻ってくるか、死んだという知らせが届くまで。
「君は、もうしばらくここで暮らすつもり?」
白い息を吐きながらフランソワが尋ねる。
「えぇ、できれば。リュネヴィル城に戻っても、もうわたしの居場所はないもの」
「母上はいつでも君を歓迎すると言っていたよ。もっとも、もうすぐリュネヴィル城は僕の持ち物ではなくなるけど」
「どういうこと?」
眉を顰めてジェルメーヌが尋ねると、フランソワは鉛色の雪雲で覆われた空に目を遣った。
「結婚を機に、ロレーヌを手放さなければならなくなると思う」
「なぜ?」
「僕が大公女と結婚することの代償だよ。ロレーヌがハプスブルク家の所領になることが気に入らない国があるらしい」
「――そう」
「母上はなんとしてでも阻止するって息巻いているけど、まず無理だろうね」
過去の歴史の中で、ロレーヌは幾度となくフランスの占領に耐え抜いてきた。
それも間もなく終わってしまうのだと考えると、奇妙な感慨を覚える。
「プラハに飽きたら、いつでもウィーンにおいで。歓迎するよ」
「ありがとう。いつか、またウィーンに行くわ」
フランソワがオーストリア大公女と結婚するために失うものは領地だけではない。
きっとこれからも、様々なものを手放していかなければならないはずだ。
彼とて、自分が捨てたものや犠牲にしてきたものがあることに、痛みを感じていないはずがない。
だからこそ、今日までこの教会に寄進をし続けてきたのだろう。
「大公女にお会いできる日を楽しみにしているわ」
ロレーヌ公家の嫡出子ではないため、フランソワの結婚式に出席することは叶わない。異母弟の花婿姿をじかに見られないことだけが多少残念ではあるが、仕方ないと諦めた。
「あなたは長生きしてね、フランソワ」
ステファーヌの墓石に視線を戻し、ジェルメーヌは呟く。
「生きていれば、きっとロレーヌも取り戻せるわ。いまは無理でも、いずれ」
「そうだね」
空から降ってくる綿帽子のような雪を顔に受けながら、フランソワは頷いた。
「そのときは、君にも手伝ってもらうからね」
「もちろん、めいいっぱい手伝うわ」
フランソワが神聖ローマ帝国皇帝の娘婿になれば、ロレーヌ公家は絶大な権力の庇護下に入ることができる。
いずれフランソワの息子はハプスブルク家の当主となれば、フランソワも恩恵は得られるはずだ。
「楽しみね」
明日は町中の花屋から花を買ってこの墓に供えなければ。
まずは目の前のことを考えながら、ジェルメーヌは微笑んだ。
*
翌朝、雪は降り止んでいた。
足首まで埋もれるほど降り積もった雪は、薄い雲間から差し込む陽の光を浴びてきらきらと雪面が輝いている。
多忙な身のフランソワは教会に多額の献金をすると、昨日の午後のうちにプラハを出発し、ウィーンへと戻っていった。本当に寄進と墓参りだけが目的だったらしい。
彼もロレーヌ公家の犠牲となったステファーヌの死にはいまだ責任を感じているのだ。
ミネットを連れて新市街の屋敷を出たジェルメーヌは、途中の花屋で薔薇を買った。時期が時期だけに数えるほどしか薔薇はなかったが、すべて買い占めた。
(春になったら、庭に四季咲きの薔薇を植えよう。いつでも、ステファーヌの墓に持って行けるように)
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