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第十二章 逃亡
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「お前は、殿下を罠にかけるつもりか……!」
目を吊り上げたギーレンが、派手な音を立てて歯ぎしりをする。
「王太子がイングランドへ逃げる邪魔はしない。しかしその後、王妃の立場は悪くなるだろうな」
いまのところ、プロイセン王妃の失脚に利用できる材料といえば、フリードリヒのイングランド逃亡計画くらいだ。それで王妃にどのていどの打撃を与えられるかはわからないが、まずは手始めと考えていた。
「貴公の命であがなえるものではないが、生きていられると腹立たしいので、死んでもうらおう」
ジェルメーヌが宣言した途端、剣を構えたクロイゼルが無言でギーレンに突進する。
「誰がそうやすやすと殺されるかっ!」
クロイゼルの剣をほんの数ミリのところでかわしたギーレンは、腰に下げていた拳銃を構えた。
(武器を取り上げておくべきだったか)
最新式とおぼしき短銃を構えたギーレンに、クロイゼルは構え直した剣を振り上げる。
「そんな物で勝てるものか!」
激しく怒鳴りながら、クロイゼルの剣の切っ先はまっすぐにギーレンの喉を狙う。
「――王太子殿下に、神の御加護を」
拳銃の引き金に指を掛けると、ギーレンはジェルメーヌに銃口を向けた。
「伏せろっ!」
クロイゼルが叫ぶのと、甲高い銃声が響いたのはほぼ同時だった。
白い硝煙と火薬の臭いが室内に充満する。
床に倒れ込んだジェルメーヌは、耳の奥で銃声が反響している幻聴に顔をしかめつつ、そろそろと身体を起こした。
扉の前には、喉に剣が突き刺さったギーレンが、目を見開いたまま絶命している。鮮血が吹き出し、床には血だまりが広がっている。
ギーレンの上着の中をのろのろと探っていたクロイゼルが、フリードリヒからの手紙を探り当てた。
「公女殿。これを……」
緩慢な動きで、クロイゼルは血に染まった封筒をジェルメーヌに差し出す。
立ち上がり、クロイゼルの傍まで近寄ったジェルメーヌは、彼の脇腹が血に染まっていることに気付いた。明らかに返り血ではない。
「クロイゼル、お前……」
封筒を渡すクロイゼルの指は震えている。
真っ青になったジェルメーヌが傷口の止血をしようと手を伸ばしかけると、彼はそれを押し止めた。
「銃声を近所の者に聞かれたはずだ。警邏隊が乗り込んで来る前に、逃げろ」
「しかし……」
「私も、後から逃げる」
自分で腹の傷を押さえながら、クロイゼルはギーレンの死体を退けると、扉を開ける。
廊下では顔色をなくしたミネットが震えながら立っていた。
「先にプラハへ行け。私も後から向かう。こんな怪我人を連れていては、国境を越える際に怪しまれる」
「クロイゼル、その怪我ではひとりで逃げるなど……」
「必ず逃げ延びる。ブラモント伯爵の部下である私が捕まっては、公女殿に疑いが掛けられるからな。心配するな。この死体を始末したら、すぐベルリンを出る」
土気色の顔を歪ませながら、クロイゼルは囁いた。
「プラハで、待っていてくれ。公女殿に言わなければならないことがあるから……」
「絶対に……絶対に逃げてこい!」
腕を掴んだミネットに引き摺られながら、ジェルメーヌがクロイゼルに命じる。
「私の復讐は終わっていないのだから――お前には私を手伝う使命があることを忘れるな!」
「忘れたりするものか」
苦笑いを浮かべ、クロイゼルは手を振る。
「プラハに着いたら、治療費を請求するから、金を用意しておいてくれ」
廊下を裏口へと向かうジェルメールの背中に、クロイゼルは声を掛けた。
ジェルメーヌとミネットは、屋敷の裏口に待たせてあった辻馬車に飛び乗る。
御者が馬に鞭を当てると同時に、馬車は騒々しい車輪の音とともに走り出した。
*
その日、ベルリンの高級住宅街で火事が起きた。
ロレーヌ公国から来訪していたブラモント伯爵が借りていた屋敷で、伯爵が屋敷を引き払った直後の出来事だという。
応接室から出火し、炎は屋敷の半分を焼き尽くして消し止められた。
焼け跡から一体の焼け焦げた遺骸が発見されたが、損傷が激しく、身元不明のまま処理された。
近所の屋敷の使用人が、出火の十分ほど前に銃声を聞いたと証言したが、火事との関連は明らかにはならなかった。
二日ほど、この火事はベルリンで話題となったが、すぐに忘れ去られた。
王太子の近習である近衛隊のギーレン少尉が行方不明になったという話が宮廷で噂となるが、これも数日で語られなくなった。
八月五日、フリードリヒ王太子はアンスバッハのシュタインスフェルトを訪問中、イングランドへの亡命を図ったが、失敗。
王太子は父王の命令でキュストリンに幽閉された。
後にカール六世の取りなしで父王が自分を廃嫡しなかったことを知ったフリードリヒは、ブラモント伯爵とともにウィーンへ向かわなかったことを、酷く後悔したという。
目を吊り上げたギーレンが、派手な音を立てて歯ぎしりをする。
「王太子がイングランドへ逃げる邪魔はしない。しかしその後、王妃の立場は悪くなるだろうな」
いまのところ、プロイセン王妃の失脚に利用できる材料といえば、フリードリヒのイングランド逃亡計画くらいだ。それで王妃にどのていどの打撃を与えられるかはわからないが、まずは手始めと考えていた。
「貴公の命であがなえるものではないが、生きていられると腹立たしいので、死んでもうらおう」
ジェルメーヌが宣言した途端、剣を構えたクロイゼルが無言でギーレンに突進する。
「誰がそうやすやすと殺されるかっ!」
クロイゼルの剣をほんの数ミリのところでかわしたギーレンは、腰に下げていた拳銃を構えた。
(武器を取り上げておくべきだったか)
最新式とおぼしき短銃を構えたギーレンに、クロイゼルは構え直した剣を振り上げる。
「そんな物で勝てるものか!」
激しく怒鳴りながら、クロイゼルの剣の切っ先はまっすぐにギーレンの喉を狙う。
「――王太子殿下に、神の御加護を」
拳銃の引き金に指を掛けると、ギーレンはジェルメーヌに銃口を向けた。
「伏せろっ!」
クロイゼルが叫ぶのと、甲高い銃声が響いたのはほぼ同時だった。
白い硝煙と火薬の臭いが室内に充満する。
床に倒れ込んだジェルメーヌは、耳の奥で銃声が反響している幻聴に顔をしかめつつ、そろそろと身体を起こした。
扉の前には、喉に剣が突き刺さったギーレンが、目を見開いたまま絶命している。鮮血が吹き出し、床には血だまりが広がっている。
ギーレンの上着の中をのろのろと探っていたクロイゼルが、フリードリヒからの手紙を探り当てた。
「公女殿。これを……」
緩慢な動きで、クロイゼルは血に染まった封筒をジェルメーヌに差し出す。
立ち上がり、クロイゼルの傍まで近寄ったジェルメーヌは、彼の脇腹が血に染まっていることに気付いた。明らかに返り血ではない。
「クロイゼル、お前……」
封筒を渡すクロイゼルの指は震えている。
真っ青になったジェルメーヌが傷口の止血をしようと手を伸ばしかけると、彼はそれを押し止めた。
「銃声を近所の者に聞かれたはずだ。警邏隊が乗り込んで来る前に、逃げろ」
「しかし……」
「私も、後から逃げる」
自分で腹の傷を押さえながら、クロイゼルはギーレンの死体を退けると、扉を開ける。
廊下では顔色をなくしたミネットが震えながら立っていた。
「先にプラハへ行け。私も後から向かう。こんな怪我人を連れていては、国境を越える際に怪しまれる」
「クロイゼル、その怪我ではひとりで逃げるなど……」
「必ず逃げ延びる。ブラモント伯爵の部下である私が捕まっては、公女殿に疑いが掛けられるからな。心配するな。この死体を始末したら、すぐベルリンを出る」
土気色の顔を歪ませながら、クロイゼルは囁いた。
「プラハで、待っていてくれ。公女殿に言わなければならないことがあるから……」
「絶対に……絶対に逃げてこい!」
腕を掴んだミネットに引き摺られながら、ジェルメーヌがクロイゼルに命じる。
「私の復讐は終わっていないのだから――お前には私を手伝う使命があることを忘れるな!」
「忘れたりするものか」
苦笑いを浮かべ、クロイゼルは手を振る。
「プラハに着いたら、治療費を請求するから、金を用意しておいてくれ」
廊下を裏口へと向かうジェルメールの背中に、クロイゼルは声を掛けた。
ジェルメーヌとミネットは、屋敷の裏口に待たせてあった辻馬車に飛び乗る。
御者が馬に鞭を当てると同時に、馬車は騒々しい車輪の音とともに走り出した。
*
その日、ベルリンの高級住宅街で火事が起きた。
ロレーヌ公国から来訪していたブラモント伯爵が借りていた屋敷で、伯爵が屋敷を引き払った直後の出来事だという。
応接室から出火し、炎は屋敷の半分を焼き尽くして消し止められた。
焼け跡から一体の焼け焦げた遺骸が発見されたが、損傷が激しく、身元不明のまま処理された。
近所の屋敷の使用人が、出火の十分ほど前に銃声を聞いたと証言したが、火事との関連は明らかにはならなかった。
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