いまは亡き公国の謳

紫藤市

文字の大きさ
上 下
61 / 70
第十一章 ブラモント伯爵

しおりを挟む
 その日の深夜、ブラモント伯爵名義で借りている邸宅に来訪者があった。
 リーゼロッテと興行主のフェルケだ。
 フェルケは二年前からジェルメーヌが雇っている男で、リーゼロッテを座長とした一座の運営を任せてある。帝国内の各地で歌姫リーゼロッテを売り込み、興業を成功させているのは、フェルケの尽力の賜物だ。
 帝国内で様々な情報を集めるためには、旅芸人という隠れみのを使うのが一番手っ取り早い。評判が良ければ、諸侯の宮殿にも出入りができる。リュネヴィルからなかなか出ることができずにいたジェルメーヌに代わり、プロイセンで諜報活動をしていたのもフェルケだった。とにかく使い勝手が良く、報酬さえ契約通りに支払えば裏切ることもない。
 リーゼロッテをぞんざいに扱わないところも、ジェルメーヌは気に入っていた。
 普段のフェルケは、ブラモント伯爵との繋がりを周囲から隠す意味もあり、直接ジェルメーヌを訪ねてくることはなかった。ジェルメーヌも、あくまでも歌姫リーゼロッテの後援者のひとりという立場を装っている。歌姫に渡す後援金のほとんどが興行主の懐に入ることは珍しくない。なので、ジェルメーヌはフェルケの報酬も含めて、歌姫の後援金を出していた。
 ベルリン公演の支度金は、半年前にすでに支払い済みだ。
 ジェルメーヌがブラモント伯爵という偽名を手に入れた後、プロイセンに入る手筈を整え出してから、一座もベルリン公演の準備を始めた。歌姫の名にふさわしい劇場を借りることはできなかったが、いまのベルリンでは大きな劇場で歌劇を上演することすら難しい。たまには下町の劇場で初心に返って演じるのも悪くない、とリーゼロッテが快諾したため、なんとか上演に漕ぎ着けることができたが、ジェルメーヌたちの予想以上にベルリンでは歌劇が規制されていた。
 初夏だというのに野外劇場での演奏会もないベルリンで、市民はとにかく娯楽というものに飢えているらしい。
 リーゼロッテが主演を務める舞台の公演は初日から大盛況だった。
 今日も公演も大成功だった。観客たちは総立ちで歌姫へ喝采を送っている。
 この分なら公演は黒字だろう、と二階席で見ながらジェルメーヌは満足げにほくそ笑んでいたほどだ。
 なのに、公演二日目にして夜更けにフェルケが訪ねてきたということは、問題が起きたとしか考えられない。
 寝室で微睡み始めていたジェルメーヌは、寝惚け眼のままミネットに着替えさせられた後、クロイゼルを連れて応接間へと向かった。
「夜分遅くに大変申し訳ございません。少々、厄介なことがございまして」
 帽子を膝の上に載せたフェルケは、陰鬱な表情を浮かべてぼそぼそと話し始めた。
 その隣では化粧を落としたリーゼロッテが、悔しそうに顔を顰めている。
「実は午後七時頃、近衛隊の将校を名乗る数名の軍人が劇場に現れまして、我が一座がベルリンの風紀を乱しているため、明日以降の公演は中止せよと命令してきたのです」
「近衛隊が?」
 椅子の背もたれに寄り掛かって話を聞いていたジェルメーヌは、意外な話に目を丸くして身を乗り出した。
「しかも、明日の午前中に劇場を引き払いベルリンから出て行かなければ、退去命令に従わなかったとして逮捕するとまで脅してきたのです」
 黒い顎髭を撫でながら、フェルケは淡々と訴えた。
「――なるほど」
 腕組みをしたジェルメーヌは、すぐさま思考を巡らせた。
「王太子が劇場に行ったことが、国王の耳に入ったのだろう。歌劇嫌いの国王からすれば、息子が評判の女優に入れあげると困るので、早々にベルリンから追い出してしまえと考えたのだろうな」
 興行主の背後にブラモント伯爵とロレーヌ公国がいることまでは、気付いていないはずだ。国王はただ、息子に悪影響をおよぼす一座を排除したいだけに違いない。
 警告をしてきただけ、まだ温情があると見るべきだろう。
「仕方ない。皆の安全の方が大事だ。明日以降の公演は中止とし、ベルリンから出て行くしかなかろう」
「ありがとうございます」
 出資者であるジェルメーヌの許可が出たことで、安心したらしい。フェルケは胸を撫で下ろし、深々と頭を下げた。
「明日の朝一番に劇場を引き上げ、少し早いが次の公演先のライプツィヒに行くと良い。私も数日中にこの屋敷を引き払い、先にプラハへ行くことにする」
「そうですか。承知いたしました。では、プラハでお会いしましょう」
 話はこれで済んだとばかりに、フェルケは帽子を被った。
 たが、リーゼロッテは椅子に座ったまま、膝の上で拳を握り締めている。
「ロッテ? どうした?」
 怪訝そうにジェルメーヌが声を掛けると、リーゼロッテはすっと顔を上げた。
「実は、今日劇場に現れた近衛兵の中に、シュリュッセルに似た男を見かけましたの。以前伯爵様が絵師に描かせた似顔絵にかなり似ていましたわ。それに、髪の色や瞳の色も」
「まさか……シュリュッセルが近衛兵にいると?」
 ジェルメーヌが声を上擦らせると、クロイゼルも息を呑む。
「もちろん、似たような顔でしかない可能性はあります。シュリュッセルだって親類縁者はいるでしょうから、本人ではなく血縁者なのかもしれません」
「だとしても、シュリュッセルを探す手掛かりにはなる。その近衛兵の名前は?」
「他の近衛兵からは、ギーレン、と呼ばれていました。階級章は少尉のようでした」
「ギーレン少尉、か。すばらしい観察力だ」
 名前と階級さえわかれば、探し出すのは簡単だ。
 ギーレン少尉がシュリュッセルでなかったとしても、手掛かりにはなる。
「ベルリンでの公演は残念な結果にはなりましいたが、まったくの無駄ではなかった、と思っていただけるでしょうか」
 リーゼロッテを立ち上がらせながら、フェルケがジェルメーヌに尋ねる。興行が赤字となることを気にしているようだ。
「もちろんだとも」
 ジェルメーヌが頷くと、フェルケは曖昧な笑みを浮かべた。
「では、我々はこれで失礼いたします。伯爵様、くれぐれもご無理はなされませぬよう。我々はプラハでお会いできることを楽しみにしております」
「あぁ、もちろんだ。私もことを急ぐつもりはない。シュリュッセルの件も含めて、慎重に進めるつもりだ」
 自らも椅子から立ち上がり、ふたりを見送りながら、ジェルメーヌは答えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

三国志「街亭の戦い」

久保カズヤ
歴史・時代
後世にまでその名が轟く英傑「諸葛亮」 その英雄に見込まれ、後継者と選ばれていた男の名前を「馬謖(ばしょく)」といった。 彼が命を懸けて挑んだ戦が「街亭の戦い」と呼ばれる。 泣いて馬謖を斬る。 孔明の涙には、どのような意味が込められていたのだろうか。

処理中です...