トライアルズアンドエラーズ

中谷干

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Vol.01 - 復活

01-030 躊躇

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「おやつタイムとは余裕ですね」
 ナオの右耳のすぐ側で、そんな声がした。
 同時に、博士の右手がナオの視界を覆っている。

 ――速い。
 人間離れした速度。博士の本来の肉体のポテンシャルでは、到底できないはずの動き。
 強化外骨格の力を借りた、圧倒的な速度の瞬動。
 ナオがキャンディを咥えようとするその一瞬を狙い、動き出していたのだろう。
 圧倒的なスピードによる一手。

 だが、それは所詮速いにすぎない。
 思考を加速したナオにとっては――遅い。

 スローモーションになった世界の中で、ナオは分析する。
 眼前に迫る博士の手。
 手の状態や角度からみて、ナオの頭をアイアンクローよろしく掴もうとしているようだ。
 そこに過去の対峙の時に使われた、電脳破壊用のデバイスは見当たらない。
 代わりに、その手を覆う黒い革手袋に、過去にはなかったテクノロジーの気配がある。
 指先の金属的な光沢と、そこから手首にある小さな箱へと繋がるケーブルのような膨らみ。
 ――なるほど。
 恐らく、この手袋があの電脳破壊のためのデバイスと同じように機能する、と思って間違いないだろう。
 この右手に捕まれるのは危険。
 ナオの脳がアラートを発する。

 なら――
 ナオは自身が纏う強化外骨格に指令を出し、素早く左に身を躱した。
 ナオだって当然、何の準備もせずにここに来たわけではない。
 博士が強化外骨格を使うのは、過去にもあった事だ。それに対抗するため、自身も強化外骨格を纏うくらいの準備はしてきている。
 「ほう……?」
 右手をすかされ、勢い余ってつんのめりそうになった博士が、ナオの右後方で体制を立て直しながら、小さく驚きの声を発する。

「ボクだって準備はするさ」
 ナオはさも余裕ありげに言い放つ――が、内心では少しばかり焦っていた。
 何せナオが強化外骨格をこういった事に使うのは初めてな上、ナオの体は運動神経がお粗末で、柔軟性にも難があるときている。今のほんの僅かな動きですら、無理矢理動かされた体が小さな悲鳴を上げていた。
 どうやらこの強化外骨格に頼るのは、最小限にする必要がありそうだ。
 としたら――あれも使う必要があるか。

 ナオは両耳にかかるARデバイスから後頭部のほうに伸びて繋がる一本の金属ワイヤに起動の指令を出した。
 このワイヤは光や熱、圧力など様々な変化を捉えるセンサで、ナオの視野を360度全方位に広げ、さらに可視光外の電磁波や温度、空気圧など、全方位の様々な空間の変化を報せてくれる。
電脳のリソース消費が大きくなるので使う事を躊躇っていたが、背に腹はかえられない。
 強化外骨格を使う事で生じる体への負荷を減らすためには、博士の行動を精密に観察し、予測し、最小限の動きで安全を確保する必要がある。人体に備わった貧弱なセンサ類のみでそれをやるのは到底不可能だ。

 デバイスを起動するまでにコンマ1秒。センサから流れ込む情報に思考回路を順応させるのにさらにコンマ1秒。一気に広がった視野で、ナオは博士をあらためて観察する。

 ナオの背後で、博士はすぐに体を反転させ、間髪入れずにナオの頭に掴みかからんと手を伸ばしてきていた。
 先程と相変わらず右手を前に出し、右手でナオの頭を掴もうと――いや、角度が少しおかしいか。よく見れば左手に動きがある。

 恐らく右手はナオの行動を縛るフェイクであり、本命は左手。
 ナオは左に少し大きく動き、背後から遅れて伸びてきた博士の左手を躱した。
 再び体が小さな悲鳴を上げる。
 脳がいくら早く動き、どれほど高い精度で予測ができるとしても、鈍いナオの運動神経のみで超人的な動作をする博士の手から逃れるのは難しい。強化外骨格の力を借りてその魔の手から逃れるので精一杯だ。
 ナオは額にじわりと嫌な汗を滲ませる。

 ――このままじゃ、ジリ貧だ。
 体にかかる負荷を考えると、避け続けるのにも限界がある。
 それに何より、博士の攻撃を躱し続ければいい、というわけではないのだ。
 博士を無力化しないといけない。
 逃避や防御ではなく、攻撃が必要なのだ。

 攻撃――
 それは、ナオにとっては非常に難しいタスクだ。
 電脳は、人を害する事を極端に嫌う。
 博士を拘束するために使えそうなものはいくつか持ってきているが、それを使う事を考えるだけで脳が拒否反応を示す。

 それに――博士は、ナオの電脳の事を、ともすればナオ以上によく知る電脳の専門家だ。
 攻撃の最中に、ナオに何か命令をする事で、ナオの行動を乱しにくる可能性もある。
 仮に攻撃が成功し、うまく拘束できたとしても、博士が拘束を解くように命令するだけで、ナオが拘束を解く可能性があることも当然知っている。
 いや、それ以前に「停止しろ」「頭を差し出せ」のような命令をすれば、容易く電脳を破壊できる可能性がある事だって分かっているはずなのだ。

 今のところ博士がそれをしてこないのは、恐らく博士にとってこれが全て「余興」であり、スリルを楽しむための「遊び」に過ぎないものだからだ。
 博士の気が変われば状況は一変してしまう、そんな綱渡りのような状況。

 だが――それも含めて全て、想定内。
 ブーストした時にそんな事は全て考え終わっている。
 唯一想定をはみ出た事があるとすれば、それは自分のフィジカルな能力が想像以上にポンコツだった事だけ。
 やるべき事は、分かっている。
 どう動けばいいか。どうやって博士を無力化すればいいか。
 すべて、分かっている。準備もできている。

 なのに――
 ――動けない。
 動いていいのか、わからない。
 迷いがある。
 本当にやっていいのか。
 本当にやるべきなのか。

 ――ボクは一体、何を迷っている?
 ナオは自問する。
 それは、やはり――
「電脳の醜さって、何」
 博士の止めどない攻撃をできる限りの最小限の動きで身を躱しながら、ナオは尋ねたかった一番の疑問を博士にぶつけた。
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