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番外編

ルシアン視点:移り香

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名実共に婚約者となったリディとの生活は穏やかなものだった。

最初は戸惑いを見せていたリディもすっかりバークレー邸での生活にも慣れたようだ。

ルシアンは相変わらず忙しい毎日を過ごしており、リディと過ごす時間が少ないものの、家に帰ればリディが常にいて笑顔でルシアンの帰りを迎えてくれる。

その笑顔を見るとルシアンの疲れも癒される。

リディと婚約出来たことも、こうして一つ屋根の下で暮らせるのも幸せだ。

「ただいま帰った」
「おかえりなさいませ」

そう言って出迎えたのは執事だった。
いつものようにリディが出迎えてくれると思ったルシアンは、今日は執事しかいないことを不思議に思った。

リディは毎日ルシアンの帰りを待って出迎えるというわけではないが、それでもエントランスでルシアンの声がすれば駆けつけてくれるのが常だ。

その疑問が顔に出ていたのだろう。
執事がルシアンの様子に気づいて答えた。

「リディ様はまだお戻りになられておりません」

そう言われれば、確かソフィアナとマルシェに行くと言っていた。

きっとリディの事だから、マルシェで見慣れない商品一つ一つに興味を持って、楽しんでいるのだろう。

もしかしたら律義なリディは家族への土産を一人ずつ悩んで買っているのかもしれない。

まだそこまで遅くはなっていないが、もう少し暗くなって帰宅しないなら迎えに行こうかとルシアンは思った。
暗くなれば変な輩も多くなる。
可愛いリディの魅力に惹かれて、変な男が声を掛けてナンパをする可能性だってあるのだ。

(あと1時間して戻らなかったら迎えに行くか)

そう考えていると、ドアが開き明るい声と共にリディが入って来た。

「ただいま帰りました!」
「お帰り、リディ」

いつもはリディが迎えてくれるが、今日は逆に迎えることになったことが新鮮に感じる。
笑みを浮かべて迎えると、リディはルシアンを見て目を輝かせながら足早に駆け寄ってくれた。

「あ、ルシアン様。ただいま帰りました。今日は早かったのですね」
「ああ。仕事が一区切りついたんだ」

リディはよほどマルシェが楽しかったのか、いつもより高揚した様子であった。
いつもニコニコとしているが、今日はそれに輪をかけて楽しそうだ。

その笑顔を見たルシアンもまた、嬉しい気持ちになる。
この後、談話室でお茶をしながらマルシェでの話を聞くことにしようか。
きっと、今日あったことを熱弁してくれるだろう。

「リディ、この後…」

そう口にしたルシアンは男物のコロンの香りがして思わず口を閉じた。

一瞬、どこからこのコロンの香りがするのか分からず、疑問に思いながら口を噤んで元を辿ろうとした。
だが、それはリディの体から香って来る。
決して強い匂いではない。
仄かに香るだけ。

(これは…移り香か?)

それは移り香がするほどリディの近くに男性がいたことを示す。

長時間一緒にいたのか。あるいは抱き合うなどの接触があったか。

その考えに至り、顔が強張るのが自分でも分かった。
突然口を噤んだルシアンを不思議に思ったようで、リディが首を傾げて尋ねて来た。

「どうしたんですか?」
「…香りが」
「香り?」

リディはいまいちピンと来ていないようで、困惑した表情を浮かべている。

(男と一緒にいた?まさかリディが男と逢引している…なんてことはないよな)

不安から思わず尋ねてしまう。

「リディ、今日はソフィアナと一緒だったんじゃなかったのか?」
「はい、そうですよ」

リディの様子は至って普通だ。
何かを隠しているようには見えない。
硬い表情のルシアンに気づかないのか、自慢げに土産に買ってきたジャムの話をしている。

ルシアンは何故男のコロンの香りがするのかリディに尋ねようとした。
尋ねたいが…そうなるとリディを責めるようになってしまう。

(好きな男が出来たのか?)

ソフィアナと出かけるとは方便で、実際には好きな男と逢引していたのだろうか。
だがルシアンにはリディが誰を好きになっても止める権利はないのだ。

「ルシアン様、大丈夫ですか?ぼーっとされていますが」
「あ、いや。何でもない」
「そうですか?ではルシアン様、着替えてきますね。また後で」
「…分かった」

何とかそれだけを答えることが出来た。
リディの後ろ姿を見送るルシアンだったが、その心中は穏やかではなかった。

嫌だ。絶対に渡したくない。

リディを脅して部屋に閉じ込めて、この屋敷から出れなくすれば、その男の元には行かないだろう。
どろりとしたどす黒い気持ちが芽生えて、ルシアンはハッと我に返った。

(いや、駄目だ。リディの尊厳を損なうような真似はできない)

どうすればリディは自分を好きになってくれるのか。
伝わらない想いと伝えられない想い。

ルシアンは動くことができず、どうすればいいのか闇の中にいるような錯覚を覚えた。
そしてただただ途方に暮れるのであった。



移り香の件を聞けないまま数日が過ぎた。

聞けないというのもあるし、リディが自分で「好きな男性がいる」と言うのを待っているというのもある。
自分から問い詰めるのは筋違いだと思ったからだ。

ロッテンハイム侯爵家の夜会ではひっきりなしに知り合いに挨拶され、ようやく落ち着いて息を付くと、ソフィアナに声を掛けられた。

「あら、ルシアン!」
「ソフィアナ。今日は招待ありがとう。…どうしたんだ、顔が赤いが」

主催者として招待客に挨拶回りをしていたソフィアナは、アルコールのせいなのか顔がほんのりと色づいていることに気づいて、ルシアンはそう尋ねた。

それに対し、ソフィアナがびくりと肩を震わせて、少々上ずった声で答えた。

「え!?い、いえそんなことはないわ!」そ、それより、リディを放っておいていいの?」
「ちょっと人に捕まってしまったんだ。話も済んだし、これから迎えに行く。変な男に声を掛けられたら困る」
「ふふふ、本当にルシアンはリディが好きなのね。あのルシアンがこんな風に恋に狂うとは思わなかったわ」
「あぁ、俺も自分で驚いてるよ」
「羨ましい…」

今までは「私も恋がしたいわ!白馬の王子様と出会うにはどうすればいいのかしら?」と無邪気な表情で言っていたソフィアナだったのだが、今日は何か含みのある表情でそう言うのでルシアンは少しだけ違和感を覚えた。

恋に恋しているというより、誰かを想っているような…。
そう思ってソフィアナを見ていたのだが、それは一瞬の事で、気づけば普通の顔に戻っていた。

「じゃあ、私は行くわ。またね」
「あぁ」

ルシアンはリディの元へと向かおうとして、会場内をぐるりと見渡すと、直ぐにリディの群青のドレスが見えた。

生地にラメが入っているので夜空を凝縮したようなドレスであり、それを身に纏うリディはさながら夜の女神のようだった。

ルシアンはリディへと一直線に向かおうとした時、リディの横に男が立っていることに気づいた。

とても親密そうに体を寄せて、何か話してはくすくすと笑いあっている。
そして男は不意にリディに顔を近づけ、キスをするように互いの顔が重なるのが見えた。

それを見たルシアンはカッと頭に血が上り、場に似合わず厳しい声を上げていた。

「何をしてる!」
「ルシアン様!?」
「私の婚約者から離れろ!」

驚くリディが声を上げる。
一方、男はルシアンを睨んできた。
その目にはルシアンへの不信感と苛立ちが見えた。
この男はリディを単なる友人とは思っていない。
先程の2人の親密ぶりからも、男はリディに友人以上の気持ちを持っているのは明白だった。

(この香り…)

男からいつか嗅いだコロンの香りがしてきた。

リディへ香りを移したのはこの男であることが分かった途端、ルシアンはリディを男から奪うようにその腕を掴むとその場を後にした。

ルシアンの中で、再び制御できない怒りの感情が生まれる。
廊下に出て、気づけば戸惑いの声をあげるリディに向かって問い質すように強い口調で言っていた。

「彼が好きなのか?」
「は?…なんでそうなるんですか?彼は幼馴染ですよ」
「幼馴染だとしても好きではないという理由にはならないだろう。彼とは、会っていたことを隠すような、俺には言えない関係なのか?」

「えーと、隠す?とは?」
「この間会っていたのだろう?」
「あ、確かに会いましたよ。偶然街で再会して少し話しただけですけど」

「少し?移り香がするほど一緒にいたのにか?何もない関係だと言うのか?」
「そんな言い方って!なんか私が浮気してるような言い方じゃないですか!!」

リディにそう怒鳴られてルシアンはハッと我に返った。
衝動的にリディを非難するように詰問してしまったことに気づいた。

ルシアンは、自分が冷静な方であると思っていた。
周囲の状況を見極め、自分の感情を制御して、行動できる人間だと。
時には冷たく見えることもあり「完全無欠」と評される理由もそれが原因だ。

だがリディが絡むと自分の感情が制御できない。
どうしようもない衝動に駆られて、本能のままに行動してしまう。

自分は一体どうしてしまったのだろうか?

だからと言って冷静になってリディを手放せるかを考えても、それは不可能であるという結論になる。

(リディを手放せない…手放したくない)

例え自分勝手でも、これだけはどうしようもない。
もしリディが居なくなってしまったら、今度こそルシアンは生きることを諦めるだろう。

縋りつくようにリディを抱きしめる腕に力を込めた。
すると、リディがゆっくりと手を伸ばして、ルシアンを抱きしめてきた。

「!」

思わず息を呑んだ。
そしてルシアンを抱きしめながら宥めるようにリディはゆっくりと話した。

あの男―ダンテのことは異性として見ていないと。

その言葉を聞いて、ルシアンは安堵した。
嵐のような激しい感情が鎮まっていくのが分かる。

だがリディは最後に言った。

契約は続行できるので安心して欲しいと。

(そうだった…俺達の婚約は契約だ)

だから本来はリディが誰を好きになろうと止める権利はないのだ。
分かっている。
分かっているのだが、どうしてもそれは許容できなかった。

「…本当は分かってる。これは契約だから君を縛るのはおかしいって。俺があいつとの関係についてとやかくいう権利もないって。でも…できたら俺以外の男に近づいて欲しくない…触れて欲しくない…あんたのそばに俺以外の男がいると思うと気が狂いそうだ」

ルシアンは自分の想いを全て吐き出した。
そしてリディを抱きしめる腕に力を込めた。

「…俺は君のことが…」

ーー好きなんだ。

ルシアンは小さくそう言った。
掠れた声は多分リディに届くことはないだろう。
それでも、少しだけ想いを吐露していた。

リディの頬を包んで上向かせると、ボルドーの瞳には戸惑いが浮かんでいた。
だが今はその瞳に映るのは自分だけなのだ。

(このままリディの瞳には自分しか映らなければいいのに…)

そんなことを考えてしまう。
もしここで口づけをして、本当の気持ちを告げたらどんなに楽か。

「ルシアン様、探しました。少々トラブルがありました。お耳に入れたい方が」

突然ルシアンは名を呼ばれて我に返った。
そう言えばここは廊下で人の目があるのであった。

振り向けばそこには部下のダートが居た。
夜会にまで仕事の話を持ってくるということはよっぽどの話なのだろう。

ルシアンはリディに断りを入れてダートと話すためにその場を後にした。

「それで?何が起こった?」

ルシアンは仕事モードに頭を切り替えてダートに尋ねる。

「実は…この夜会にナルサス殿下が極秘に参加しているとの情報が入りました」
「は?」

ダートの言葉にルシアンは我が耳を疑った。

ナルサス。それは隣国ギルシースの王子―ナルサス・ギルシースのことだ。

そのナルサスがヴァンドールに入国し、そしてこの夜会に参加している?

「招待客を確認しろ。そして直ぐに城にお連れするんだ」

「はい。…ですが、私共はナルサス殿下の顔を存じ上げません。招待状も偽名で作られたものだと思われるので、どこにおられるかも検討がつかず…」

ルシアンは前世で妹に見せられた「セレントキス」のパッケージを思い出す。

「たしか、あのキャラは黒髪に金の瞳だったはずだ」
「キャラ?」
「いや、なんでもない。とにかく、ナルサス殿下は黒髪に金色の瞳だ。探してくれ」
「承知しました」

そう言ってルシアンの元を立ち去ったダートを見送りつつ、ルシアンは何か胸騒ぎを感じてならなかった。

(なにか良くない予感がする)

果たして、ナルサスの登場が更なる波乱を呼び、ルシアンの予感が的中するのは、翌日の事だった。
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