相性って大事

茜菫

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婚約までの道のり

フェリクスの憂鬱(5)

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 フェリクスが目を覚ますと、ずいぶん低い天井が映った。記憶を掘り返すが、治療を受けて医師と話をし、自分の現状を知って、それからのことが記憶にない。

(ここは……)

 フェリクスは顔を動かして辺りをうかがった。部屋と呼ぶにはあまりにも狭く、耳に届く車輪の音と揺れる自分の体から、馬車かなにかで運ばれていることに気づく。

「……ヘンリク?」

 フェリクスが目を閉じて座っているヘンリクを掠れた声で呼ぶと、彼はかっと目を見開いた。その迫力にフェリクスは驚く。

「おまえ……っ」

 ヘンリクはフェリクスを凝視しながら両手を伸ばし、彼に触れる既のところで動きを止めた。わなわなと手を震わせ、こらえるようにぐっと拳を握りしめると、行き場のなくなった両腕をゆっくりと下ろした。

「っ……フェリクス……目、覚めたんだな……」

「ヘンリク……この、状況……は……」

「あぁ、説明する」

 ヘンリクは片手で目元を抑えながら深く息を吸って吐いた。

「西区の診療所で治療を受けて、ひとまずおまえは持ち直したんだ。で、先生と話している間にまた意識を失って……あれから一週間たっている。ミハウ殿下の計らいで療養のための無期限休暇になって、ルーシ伯爵領……てか、おまえの実家に輸送している最中だ。俺は、その護衛」

「……ヘン、リク……すみま……、こんな役目……を……」

「俺が願い出たんだ。……これくらい、させてくれ」

 フェリクスとヘンリクは同じ時期に騎士になり、よく組んでいるうちに親しくなり、いままで仲良くしてきた。そんなフェリクスの今回の惨状は、ヘンリクには相当こたえたのだろう。

「そう、か……」

 フェリクスは休暇という扱いで済んでいることに驚いた。

「医師も治療師も、殿下が手配している。だから……早く治して、もどってこいよ」

 ヘンリクはそうは言ったものの、フェリクスの状態からみてもどれない可能性のほうが高いことは、おそらくわかっている。フェリクス自身も正直なところ、もう騎士として剣を振るうことは難しいと思っていた。

(……普通の生活も、できるかどうか)

 そもそも自分の意思ではほとんど動かせない四肢からして、先は暗い。命が拾えただけよかったとも、いまのフェリクスには思えなかった。気持ちが沈んでいると、待って、諦めないでと、声が聞こえたような気がした。
 
「ニーナ……」

「……フェリクス?」

 フェリクスはニーナのことを思い出す。感謝を伝えたときの伝えた彼女のほほ笑みに、フェリクスの胸が高鳴った。

「あの、治療師の子がどうしたんだ?」

「女神、……私の……」

「女神」

 フェリクスにとって、間違いなくニーナは女神だった。地獄から引き上げてくれた、唯一の女性。ニーナと会話することができないまま、こうして遠く離れてしまうことがつらい。

(もう一度、会いたい……いや、一度と言わず、何度でも会いたい)

 あのときの笑顔を、フェリクスは何度でも見たくなった。しかし、いまは遠ざかっていくばかり。

(この姿では、笑うどころか……泣かせててしまいそうですね……)

 フェリクスは鏡に映った自分の姿を思い出してため息をついた。

『諦めなければ、きみは治るよ』

 脳裏に響いた男の声にフェリクスは驚いて顔を動かし辺りを見回したが、馬車の中には彼とヘンリクの姿しかない。

「……ヘンリク」

「ん?」

「私、は……治……もど、る……かならず……」

 フェリクスはニーナが泣いてしまわないように、この体を治さなければならない。そしていつか王都にもどり、彼女に伝えたい。フェリクスは強く決意し、その意志を込めて宣言した。




 それから半年ほどで、フェリクスの爛れた肌は左半身に所々跡を残すものの、ほぼ完治した。そのころには自分で身を起こすことができるようになり、四肢も自分の意思で動かせるようになっていた。原因が呪いであっただけに回復は絶望的と言われていたが、驚異の回復力だと医師や治療師らは評した。

 その半年後には自分の足で歩き回れるほどには回復し、さらにその半年後には運動ができるほどに回復した。早く治して王都へもどりたい、その気持ちから懸命に治療を続けていたとはいえ、フェリクスは自分でもその回復力には違和感があった。しかし結果として治っているのなら都合がいいと、深くは考えなかった。

 あの呪われた日から、一年と十ヶ月。フェリクスはまだ剣を存分に振るうことは難しいが、王都にもどることを決めた。上官に連絡すると、だれもやりたがらない机仕事がたんまりあるからいつでももどってこいと返事をもらった。面倒なことを押しつけられるだろうなと思いつつも、まだ満足に剣を振るえそうにない自分の身や、休暇に留めてくれた王子、なんとか都合を調整してくれた上官への恩に、フェリクスは感謝していた。

「お兄さま、そんなに王都にもどりたいの?」

 フェリクスの目の前で、十二歳になる妹、イレナは少しいたずらっぽく笑っていた。ジェヴィエツキ家本邸の中庭のガゼボで、フェリクスとイレナ、そして彼らの母が優雅にお茶をしている。母はイレナと同じ疑問を持っているのか、フェリクスをじっと見つめて答えを待っている。

「……そうですね。少しでも早く、もどりたい」

「ふふ。お兄さまは、会いたい人がいるんでしょう?」

「イレナ、なにを」

「ニーナって人。お兄さま、頻繁にその名前をつぶやいているのよ。自覚がなかったの?」

「……っ」

 フェリクスは指摘を受けて目を見開いた。まったく自覚がなかったが、途端に恥ずかしくなって顔を赤くする。

「お兄さまったら……ふふ、耳まで赤いわ」

「っ、からかわないでくれませんか」

「お兄さま。そのニーナって人のことが好きなんでしょう?」

 フェリクスはこの二年近くもの間、ニーナのことを何度も思い出していた。たった数分程度のやり取りしかなく、おびえたような顔、かなしそうな顔ばかりで、ほほ笑んだ顔は一度しか見たことがない。まともに会話をしたことすらない上に、フェリクスにとってはいままでの人生の中で最悪な醜さと情けない面だけしか見せていなかった。

 もう一度、会って話がしたい。もうおびえたような、かなしそうな顔をさせたくない。またあのほほ笑みを向けてくれたら。フェリクスの胸にはそんな想いばかりが浮かんでいる。

「そうか、これが恋……」

「まあ!」

 フェリクスがぽつりとつぶやくと、突然母が声を上げた。もう五十近くだというのに華やかで輝かしい美貌を持つ母は、極限までその目を見開いていて息子を凝視している。

「フェリクス、あぁ……フェリクスが、ついにあの、フェリクスが……!」

「あの、……母上?」

「あぁ……」

 母は気を遠くにやったようで、虚ろな目でぼんやりとしている。フェリクスは少し頭が痛くなった。

「なにに対しても興味が薄いお兄さまが恋なんて口にするから、感動しすぎただけでしょう」

「……」

 フェリクスは妹にまでそのように見られていたのかと思うと少し複雑だが、言い返せもしない。兄たちに比べれば、なにに対しても興味が薄いと言われるとその通りだと自覚があるからだ。

「ねえ、そんなことより! そのニーナさん、どんな人なの? 恋人なの? 王都でお兄さまのことを待ってくれているの?」

 興味津々といったように目を輝かせるイレナに、フェリクスは満足させられるような答えを持ち合わせていなかった。いつの間にか復活している母まで、フェリクスをじっと見ている。

「イレナ、その……彼女は恋人ではないし、そもそも……まともに話したこともなくて」

「えぇ!? お兄さま、なにもしていないの!?」

「いや、なにかするもなにも、私は……」

「お兄さま、ばかなの!? もう二年よ、二年! 二年もたっていたら、その人にほかにいい人ができていたっておかしくないわ。どうして声くらいかけておかなかったの。待っていて……くらい、言っておきなさいよ!」

 フェリクスは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。彼女にいい人ができる、そんなことを考えたことがなかった。面と向き合えるように、とにかく体を治さなければ。そのことしか考えていなかった。

(そんなこと、考えたことも……)

 怒った様子で身を乗り出している妹と、あきれた目で見てくる母に、フェリクスはいたたまれなさしかなかった。
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