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「ワインを、なんでもいいので」

 アメリはカウンターに座ると、一番にワインを頼んだ。出てきたグラスを手に取った彼女はそれを目の前に掲げ、中に注がれたワインを眺めながら今までのことを思い返す。

「…馬鹿みたい」

 アメリがはじめてエドガールと食事をしたのは十七歳の頃。お礼だからと上等な店に連れられ、まだ酒が飲めなかった彼女は、ワイングラスを揺らす五つ歳上の彼の姿が大人に思えて、とても格好良く見えていた。

 交際するようになってから酒を飲み始め、ワインが好きなエドガールにあわせてアメリもワインを嗜むようになった。本心ではワインが好きではなかったが、彼に釣り合う女性になりたい、そう思ったアメリは必死に好きでもないワインを飲んで覚えた。給料を貯めていいワインを手に入れ、一緒に飲んで楽しい時間を過ごした。

(…もう、終わり)

 そんな頃の思い出とともに、アメリはグラスを傾けて一気にワインを飲み干す。好きになろうと頑張ってきたが、最後までワインは好きになれなかった。

「っはあ…、次、エールをおねがい」

 アメリはグラスをさげ、次の一杯を頼む。もう、無理をして好きでもないワインを飲む必要がなくなったのだ。かといってビールが好きというわけでもなかったが、アメリにとっては酔える酒であれば、ワイン以外であればなんでもよかった。

 店主が木製のジョッキを出すと、アメリはそれを両手で抱えて再び一気に飲み干す。全てを飲み終え、ジョッキをカウンターに置いたところで、アメリは両目から涙を流しはじめた。

「ふっ…う、うぅ…っ」

 一度流れてしまえばもう止められず、涙は両目から溢れ出し、頬を濡らしていく。

「うっ、…うぅぅ…もう、いっぱいおねがいぃ…」

 小さな嗚咽とともにもう一杯を要求するアメリに、店の主は何も言わずに二杯目を出した。一緒に手ぬぐいを差し出され、それを受け取ったアメリは店主のさりげない優しさに余計に涙が溢れる。

「あぁ…うぅ…っ」

 拭っても間に合わないくらい、とめどなく涙は流れていく。今日一日で目にしたものが全て夢だった、そう思いたいくらいに現実が受け入れがたく、アメリは悲しさと苦しさが溢れていた。

「どうしてよぉ…私…っ」

 二股をかけられていたと現場を目撃するまで一切気づかなかった自分の愚かさ。レイラは婚約者という立場を得ており、エドガールがすがりついたのも彼女が先、自分は二番目でしかない惨めさ。レイラが魔法使いであることも、魔法使いに憧れていたアメリの劣等感を煽った。

 唯一にも、一番目にもなれなかった。アメリは悲しくて、悔しくて、惨めで、けれどもそれを知ってもまだエドガールを想う気持ちが自分の中に残っていることが辛かった。

 アメリは十六歳の頃、唯一の家族であった父を亡くして一人王都に出てきた。幼い頃から魔法使いに憧れていた彼女は懸命に魔法を学んだが、魔力量は一般的な人々に比べれば多いものの、魔法使いと呼べるほどではなかった。

 個体の持つ魔力量は持って生まれた才能であり、多少は高められるものの、それも持って生まれた才能によるところが大きい。故に、才能を持たないアメリは魔法使いとなる夢を諦めざるを得なかった。

 それでも好きな魔法に関わりたい、そう思ったアメリは魔導具師を目指した。魔導具師は魔導具とよばれる道具を開発、製造、管理する者の敬称だ。魔導具は魔法を使えずとも魔法と同じ効果を導く道具を指す。師を仰ぎ、今では魔導具師と呼ばれるほどに成長したアメリだが、王都に出てきたばかりの見習いの頃は自信がなく、知り合いも少なく不安で心細い思いをしていた。

 そんな頃に知り合ったエドガールは、アメリの心の拠り所でもあった。彼女の不安を慰め、成長していく彼女を褒めて認めて自信を与え、傍に寄り添って寂しさを埋めた。アメリはエドガールを信頼して心を預け、心から愛していた。

「…本当に」

 アメリがここまで頑張ってこられたのは、エドガールの存在があったからだ。だからこそ最初から裏切られていたと知っても、アメリは彼への想いをそう簡単に断ち切れなかった。

「馬鹿で…」

 アメリは左の掌を涙に濡れた目で眺める。ここで終わり、そう言って初めて人に振り上げた手は腫れ上がっていた。

「無様ね…」

 掌から伝わる痛みが、夢だと思いたいアメリを現実に引きもどしている。裏切られ、終わりだと宣っても、まだ彼女の心には想いが残っていた。

(…復縁なんて、絶対にないわ)

 けれども、復縁は考えられなかった。アメリは最も嫌悪する浮気という行為、それを行った男を許すことはできない。

(…許さない。絶対に、嫌)

 アメリが浮気を人一倍嫌悪するのには理由がある。それは彼女が幼い頃に家を出ていった母親にあった。

 アメリの母親は倫理観に欠けた女性だった。元は商家の末娘で、父親に命じられて革職人であったアメリの父に嫁いだ。彼女には愛はなかったのだろうが、アメリの父は彼女を愛していた。自身が身を粉にして働いている間に、彼女が若い男と浮気をしていたことなど全く知らずに。

(…私も、お父さんと一緒なのね…)

 アメリの父は彼女を愛していた。若い男とともに紙切れ一枚とアメリを残して去っても、まだ彼女を愛していた。当時の紙切れを眺める父の背中と自分の姿を重ねたアメリは、ただ力なく笑う。

(…ううん。結婚する前でよかったって…思わなきゃ)

 エドガールには結婚する気がなかっただろうが、父のように結婚したあとに浮気され、自分との子供を置き去りにされるような事態にならなかっただけましだとアメリは自分に言い聞かせる。不思議なもので、言い聞かせようとすればするほど心は反して美しい思い出にすがり、想いを強くさせていた。

「うっ、…うぅ…っ」

 嗚咽しながらアメリは酒を飲み続ける。泣きながら酒を呷っても何も解決しないが、一時の慰めにはなるだろう。

 必死に声を押し殺しながら涙を流すアメリの前に、店主が小さな皿を差し出した。そこにはたっぷりのシロップがかかったベリーが乗っていて、アメリは顔をあげる。

「おまけさ」

 アメリより一回りは歳上だろう眼帯をした店主は、厳しい顔とは裏腹に茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。漸く周りが見えるようになったアメリは、先程受け取った手ぬぐいて慌てて涙を拭いて頭を下げる。

「っ、ご、めんなさい…私っ、こんな、泣いて、迷惑、を…」

「悲しい時は泣くもんだ。涙が悲しい気持ちを流してくれるといいな」

 店主はアメリを問い詰めることはなく、それ以上何かを言うでもなく、ただ受け入れた。恋人のどうしようもない裏切りを受けて傷ついたアメリは、名も知らぬ人の優しさに慰められる。

「あ…ありがとう…」

 声を押し殺しながら、アメリは涙を流した。その涙が悲しみを流し、彼への想いをも流してしまってくれればいいのにと願いながら。

 そのままさんざ泣いて少しだけ落ちつきを取り戻したアメリは、ベリーを一つ摘む。口の中いっぱいにひろがる甘酸っぱさに目を細め、僅かに唇を笑みの形に描いた。

「…甘い」

「口にあったかね?」

「とても。…何か、お礼がしたい」

「そりゃああんた、うちに来てお金をおとしてくれることが一番のお礼さ」

「…ふふ」

 店主のおどけた声に、アメリは小さく笑った。ジョッキに残ったエールを飲み干すと、もう一杯とエールを頼む。悲しみは流れきっていないし、エドガールへの想いが消えたわけではないが、ほんの少しだけ心が軽くなっていた。

「まあどうしてもって言うなら、次はあんたが泣いている誰かに優しくしてやってくれ」

「…素敵ね」

「はは、どーも」

 店主と少し話をしながら最後の一杯を飲み干したアメリは、また来ようと思いながら店を出た。酒に弱いわけではないが強くもないアメリは大分酔っている。このまま家路につくべきだが、まだ帰りたくないアメリは次の店を探して夜の街を歩きだした。
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