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🍀本章🍀 完全版
第一章『 先生と僕 』
しおりを挟む――2019年4月。
その春、特に問題もなく無事に大学を卒業した僕は、とうとう学生という肩書も卒業することとなった。
そうして新たに得た肩書は、“社会人”。
これは、そんな僕が社会人となって初めて迎えた、とある春の御話――。
― 第一章『先生と僕』―
その春、僕はとある勤め先に就職をした。
その勤め先は、僕が心から望んでいた就職先であり、去年の夏には既に内定が確定していた所でもあった。
つまり僕は、周りよりも早く就活を終える事が出来たのだ。
そしてそれは、本来なら喜ぶべき事である。
しかし僕は、その内定が決まってからの一年間、“心安らか”などとは程遠い日々を過ごした。
では、僕がなぜ心安らかな一年間を過ごせなかったかというと、僕はその当時、とある強敵と戦っていたからだ。
因みにその強敵が何者だったかというと、端的に言えばそう、――胸の高鳴り――である。
そして、その胸の高鳴りを更に別の言葉で表現するならばこうだ。
――悪く言えば緊張と焦燥。
――良く言えば喜びと期待。
つまり僕は、そんな常に気持ちが落ち着かないような状態で卒業論文を仕上げなければならず、更には日々激しくなってゆくその胸の高鳴りと戦いながら、日々を過ごさねばならなかったのだ。
あれは酷く辛い戦いだった。
だが、結果としては卒業論文も無事に提出する事ができ、単位も十二分を取得した上で、僕はその戦いで無事に卒業という勝利を収める事ができたのだった。
そして、その一年間の努力のおかげで僕は今、この職場のデスクに腰を下ろしている――というわけだ。
――と、僕はまるで物語の主人公かのように、これまでの事を独白調に思い返すなり、先ほど自分で淹れた珈琲をひと口味わい、ゆっくり息を吐いた。
「疲れたかい?」
すると、そんな僕の右手前側にあるデスクから、案じるように優しげな声が聞こえた。
そうして僕に声を掛けてきたのは、学生時代の恩師でもある僕の現上司だった。
「あっ、いえ、全然!」
僕は、声色同様に優しげな微笑みを向けてくるその人に、慌てるようにそう言葉を返した。
未だにその人とは上手く目が合わせられないながら、声を掛けてもらった事に嬉しくもなりつつ、僕は自分の頬が熱くなるのを感じる。
するとその人は、僕の頬のほてりを知ってか知らずか、先ほどと変わらぬ声色で穏やかに続けた。
「そうかい? 今日は予約もないし、疲れたら無理せず休憩してくれていいからね」
そしてそう言われた僕は、声を聴くだけでもこんな様子ではいつか本当に死ぬのではないかと思いながらも、なんとかその人に感謝の言葉を返した。
そんな僕がこの職場で働き始めてからはまだ半月ほどだが、現在はこの会社で二番目に偉い地位に就いている。――と言うとまるでエリート街道を進んでいるように聞こえるが、実のところ、ここは社員数全二名から成る会社だ。
それゆえに、僕がこの会社で二番目に偉い地位に就くのは至極当然の事だったりする。
もちろん、社長はとえいば、僕の右手前のデスクに座る恩師その人だ。
そんな恩師と僕の全二名から成るこの会社だが、正しく言うと会社というよりは研究所、あるいは相談所と言った方が正しい。
そして、この相談所が専門としている分野は何かといえば、それは法律でも占いでも探偵でもなく、“怪異”と呼ばれるものだ。
因みにその“怪異”とは何か――。
これを簡単に説明すると、――非現実的な事物・現象――といったところだ。
そんな怪異をもう少し具体的に説明するならば、古くから様々な物語に登場する妖怪や神、仙人、幻獣、または夏にはよく話題にあげられる幽霊や怪奇現象やらもまた怪異に分類される。
また、僕らはそれを“怪”と呼ぶ事も多いのだが、そんな――現実的には信じがたいもの――を相談依頼の専門分野としているのが僕の勤務先なのである。
だが、ほとんどの人が神や妖怪を空想上の存在とする現代の日本で、“怪異専門”と大きく掲げて事務所をおくには少々肩身が狭い。
その為、表向きには“個人による民俗学研究所”としてここを構えているというわけだ。
また、なぜ民俗学研究所なのかといえば、この学問はいわゆる“怪異”とされるような事物、事象をも研究対象にしている学問だからだ。
ただ民俗学の定義には個人差があり、単に民俗学といっても様々な様相がある上、怪異が学問の中心にあるというわけでもない。
だが一応のこと、怪異とは何かと密接な学問ではあるのは事実だ。
それゆえ、民俗学研究所という姿をとる方が、現代社会にも溶け込みやすかったのだ。
また、研究所というだけあり、社長でもある僕の現上司は、実際に教授の資格を持っており、大学でも教授として民俗学の講義を行っている。
その為、民俗学研究所というのも、決して偽りの姿というわけではない。
更には社員であるこの僕も、現に民俗学科の卒業生だ。
それゆえに業務内容もその名に偽りなく、民俗学研究所としての業務も行っている。
また、そんな職場での僕の役職名はといえば、“助手”である事から、大学生時代と変わらず、僕は今も現上司の事を“先生”と呼んでいたりする。
「そうだ、瑞尊君」
そうして僕が何気なくこれまでの事を振り返りながら仕事をしていると、同じく仕事をしていた先生がゆったりと僕の名を呼んだ。
僕はその呼びかけで跳ねた心臓を宥めながら、平静を装い先生に問いの意を返す。
「は、はい。なんでしょう」
だが平静を装えただけで、僕の心臓は未だに痛いほど高鳴っている。
まったく勘弁してほしい。
だが幸運にも先生はそんな僕の内心には気付いていない様子で言葉を並べてゆく。
僕はその様子に安心しつつ、先生の言葉に耳を傾ける。
「明日の講義なんだけど、向こうでの準備に時間が要るから、いつもより少し早目に出られるようにしておいてくれるかな」
「あ、はい!」
僕はそうして先生の言葉を受けるなり、高鳴る鼓動と戦いながら、微かに震える手でスマートフォンにもメモを残した。
そんな先生は、僕の母校でもある白狐大学で、週に三回の講義を行っている。
その為、講義がある日はその時間に合わせ、先生の愛車で大学へと移動するのが常だ。
そしてもちろん、それには僕も同行し、講義では助手として先生の手伝いをしている。
そんな事もあり、大学を無事卒業した僕だが、当分は母校に懐かしさを覚える事はないだろうと思っている。
ただそんな僕が、既に“懐かしい”と感じている場所がひとつある。
それは、大きな桜の木が佇むとある広場だ。
その広場は大学構内にあるものの、なぜか他の広場と比べて静かで、常に穏やかさを感じる場所だった。
そんな不思議な広場を見つけたのは、僕が大学へ入学したばかりの頃の事だ。
そこは今でも忘れられない思い出の場所。
僕はそこで初めて先生と出会い、そして、そこで先生に恋をしたのだ――。
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