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最終話『 想 』 - 01 /04

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《まったく困ったものよ……》
(それは災難でしたね)
 相変わらず嫌な気の絶えないそのアパートは、禰琥壱ねこいちが様子を見に来るたびに負の香りを強めていた。
 とある山中にある、例のほこらでの鎮魂の儀を終えた後日も、それは変わらずであった。
 禰琥壱は、このアパートで大量の髪を発見して以来、散歩がてら定期的にこのアパートの前を通るようにしていた。
 ただ、アパートの敷地内に立ち入ることはしなかった。
 流石に住人でもない禰琥壱が敷地内に入るのは、人間のとる行動としては得策ではないと判断したからだ。
 それゆえ、周辺まで様子を見に来る事はあっても、敷地内には入らないようにしていた。
 そんな禰琥壱は先日、知り合いの刑事から、とある呪物となっていた髪が誰のものであるか分かったという連絡を受けた。
 だが、その連絡を受けた後もまだ、禰琥壱はそのアパートに立ち入り、更に今回の事に深く関わるべきなのかを考えあぐねていた。
 そんな日の事。
 禰琥壱はまた、そのアパート前から踵を返そうとしていた。
 だがその直後、彼は結局アパートの敷地内へと立ち入ることとなったのだった。
 なぜそうしたのかといえば、とある者に声をかけられたからだ
 そのアパートは塀に囲まれるようにして建てられているのだが、そのアパート自体と、その裏手を囲うコンクリート塀の間には、ある程度の隙間があった。
 そして、その隙間にあったのは小さな祠だった。
 禰琥壱は今、そんな小さな祠の前に居る。
 大量の毛髪が発見された203号室から、最も離れた場所にある101号室の窓側。
 その窓に一番近い位置にその祠はある。
 また、その祠の後ろには大きな桜の木があり、祠の主はその桜の木と共に在る小さな地主神じぬしのかみであった。
 そしてその日。
 いつものようにそのアパート前から立ち去ろうとした際、禰琥壱はその地主神に語り掛けられたのだった。
 またそれは、助けを乞われたと言っても良いかもしれない。
 そんな地主神は、酷く困ったような様子で禰琥壱に言う。
《おぬしは何度かこの地を訪れているようだが、あれをなんとかできんか……。ここ最近でよりけがれが酷くなってかなわん。――今でこそわしの力でなんとかなっておるが、このままではこの桜すらも穢れてしまう》
 その地主神が言うには、負の気を帯びた思念がこのアパートに棲み憑いてから、この地の穢れが始まったとの事だった。
 恐らくだが、その穢れは、あの女の霊が203号室に現れ始めたのと時を同じくして始まったのだろう。
 だが、その程度であれば地主神の力だけでこの地を守る事はできていたそうなのだが、ここ最近のとある日をきっかけに、突然負の気が増えたらしいのだ。
 そして今となっては、彼だけではそこから拡がる穢れを浄化しきれなくなってきたとの事だった。
(わかりました。今の俺にどれくらいの事ができるかはわかりませんが、この身でもできる限りの事をしてみます)
《助かる。――しかしお主も物好きだな。そのような事をして楽しむ者などなかなか見んぞ》
(確かに酔狂だとよく言われますが、慣れてしまうとなかなか楽しいものですよ)
 禰琥壱は、その言葉を受け、理解できないとばかりに唸る地主神に微笑む。
 そしてその後、禰琥壱は、話に区切りがついたところで彼に一礼をしてその場を離れた。
 馴染み深い神の頼みとあっては、禰琥壱も外面そとづらを気にかけている場合ではない。
 禰琥壱はその足で、203号室へと向かう事にした。
 アパートの玄関前にある階段を上がり、二階へと進む。
 すると、そこには既に人影があった。
 今現在、そのアパートに住むのは203号室の住人だけと聞いている。――であればそれは、203号室の住人であろうと思った。
 だが違った。
 203号室の前に佇んでいるのは、一人の少年だった。
 禰琥壱はその少年の顔に見覚えがあった。
 その少年は、一方的にではあるが、禰琥壱が確かに一度会った事のある少年だった。
 だが、彼の方は禰琥壱の事を知らない。
 その事もまた確かだった。
 何せ、禰琥壱と彼が出会った時、彼は気を失っていたのだ。
 そして彼は、禰琥壱と初めて対面した際も、意識を取り戻す前に病院へと搬送され、禰琥壱とはそれ以降会っていない。
 だからこそ彼は、禰琥壱の顔も名前も知るはずがないのだった。
 その為、禰琥壱は敢えて見ず知らずの他人として彼に声を掛ける事にした。
「そんなところでどうしたんだい?」
 禰琥壱が穏やかな声でそう言うと、足音にも気付かなかったらしいその少年はmびくりと肩を跳ねさせ禰琥壱を見た。
 そして禰琥壱はそこで、その少年が宮下みやした夏向かなたである事を改めて確認した。
「あ、あの……」
「このアパートに住んでる子かな?」
「い、いえ、違います。すいません」
 禰琥壱の質問に上手く答えられそうになかったのか、宮下は慌てた様子でそう言い、足早にその場を立ち去ろうとする。
 だが禰琥壱は、やんわりと彼の進路を塞ぐようにして続けた。
 そんな禰琥壱は、宮下ではなく203号室を見据える。
「じゃあ君は、そこの、203号室に住んでる人の知り合いとかかな?――実は、俺もそこの人に用があったんだ」
「えっ?」
 そんな禰琥壱の言葉に、宮下ははじかれたように顔をあげた。
 進路を塞がれ怯えるようにしていた宮下だったが、禰琥壱の穏やかな声や表情を受け、少しだけ警戒を緩めたようだった。
 禰琥壱は更に続ける。
「信じて貰えるかわからないけど、実はそこ、以前に俺の知り合いが自殺して亡くなった部屋でね」
 そんな禰琥壱の告白に、宮下はしばし言葉を失う。
 禰琥壱は、203号室からそんな彼に視線を戻し、また言葉を紡ぐ。
「でもその知り合いが死ぬ前に妙な事を言っていたんだ。――だから、新しい人が住んだら気を付けてくださいって言おうと思っていたんだけど。……なんか、深夜に女の人の声が聞こえるとかでね……」
 禰琥壱はそこで苦笑してみせた。
 禰琥壱は本来、例えそのような部屋に新しい住人が入ったとしても、警告をしにいくような事はしない。
 だがこの場合、この程度の嘘は、宮下の気を引く為の必要悪だと禰琥壱は判断した。
 恐らく、宮下の手伝いがあれば、203号室への介入はよりスムーズなものになるはずだ。
 それに、一刻も早く動かなければ、203号室の住人もどうなってしまうかわからない。
 救える人命、救える思念が眼前になるのなら、お綺麗な手段だけに努めている場合ではないのだ。
 すると、そんな禰琥壱の言葉を最後まで聞いた宮下は、その幽霊話を怖がるよりも先に、必死の表情で禰琥壱に縋るように言った。
「た、助けてください……っ」
「どういう事だい?」
 禰琥壱は、宮下を落ち着かせるようにその肩に手を置いた。
 そして、視線を合わせるようにして片膝をつき、宮下に問う。
 宮下は今にも泣きそうな顔で、必死にこれまでの事を説明した。
「あの部屋に住んでるのは、俺の知り合いです――最近、ずっと連絡が取れなくて……――だから心配で、部屋まで来てみたんです。でもチャイムを鳴らしても、ノックしても返事がなくて。電話も通じないから手紙を入れてみたりしたんですけど……全然反応無くて……なのに家の中からは変な音がずっとしてるんです……」
 説明するうちに、宮下の目からは涙が伝い始める。
「でも……大声とか出したら怒られそうで……それで俺、もうどうしていいかわからなくて……あの人が死んでしまったら俺……っ――お、お願い、お願いです……どうか、どうかあの人を助けてください……っ」
 そうして禰琥壱に縋り、全てを伝えた宮下は、静かに嗚咽おえつを漏らす。
 そんな宮下の頭をやんわりと撫で、禰琥壱は言った。
「分かった。――その人とは、ずっと連絡もとれない状態なんだね」
 宮下は、そんな禰琥壱の問いに必死に頷いて答える。
 今の彼に、言葉を紡ぐ余裕はないようだった。
 禰琥壱は、そんな彼を宥めるようにして言った。
「じゃあ、警察に連絡してみよう。君がその人の知り合いなら、ちゃんと捜査してくれるはずだから」
「けい、さつ……」
「そう」
 警察という言葉を聞いて宮下が不安げにするので、禰琥壱は安心させるように言った。
「大丈夫。俺も一緒に居てあげるから。――ね」
 宮下はまた顔を伏せてしまっていたが、禰琥壱の言葉にはしっかりと頷いた。
「うん。じゃあ警察には俺が連絡するから。――はい」
 そんな彼に、禰琥壱はハンカチを手渡した。
 宮下はそれを受け取り、涙を拭いながら礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
「うん。一人でよく頑張ったね。もう大丈夫だから」
「はい……」
 そんな宮下を優しく労い、今一度撫でてやりながら、禰琥壱はスマートフォンを取り出した。
 
 
 
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