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第六話『 人 』 - 05 /06

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 禰琥壱はそこで、一度結界外から祠の様子を見た。
 結界内では、青黒い思念の泥が弾け飛んではぶつかるようにして混ざり合い、更に負の力を強めていた。
 そのような様子から、刻斉が最初に足を踏み入れるのは危険と判じ、禰琥壱はまず、自分一人で先に結界内に入る事にした。
 刻斉と京弥を一度その場に待たせ、結界内へと足を踏み入れる。
 すると、それだけで恐れおののくような雄叫びが上がり、まだ日中だというのに周囲の光は失せ、木々が異様なほどざわめきだす。
 結界内に放されてしまった見えざる者たちの雄叫びは、結界外にいる刻斉たちの精神的聴覚をも刺激した。
 だが、その雄叫びは今、水の中にでも居るかのように、くぐもって聞こえている。
 もしも禰琥壱の守護を受けていなければ、耳を抑えたくなるほどの強い音が脳内を満たしていたことだろう。
 だがそのように遠く聞こえる雄叫びからでも、その悲しみ、怒り、憎しみの激しさを感じ取ることが出来た。ここに居る者たちの思念は、それほどに強いものなのだ。
「大丈夫。お前たちを喰いに来たわけじゃない」
 もし刻斉が最初にそこに足を踏み入れて入れば、あんなに平然としては居られなかっただろう。
 禰琥壱は思念の泥に喚かれ威嚇されながらも、彼らに穏やかな声色で語り掛ける。
 刻斉は、ゆったりとした足取りで祠まで進んでゆく禰琥壱の後ろ姿を見つめ、禰琥壱という存在が何者なのかを改めて考えずにはいられなかった。
 禰琥壱は祠までた辿り着くと、足を止め、再び彼らに語り掛ける。
「わかっているだろう。お前たちの居るべき場所はここではない。ほら、このような小さな棲み家で喧嘩をするんじゃないよ」
 禰琥壱のその言葉に抗議でもするかのように、祠の一角の木々だけが激しくざわめく。
「わかってる。もう大丈夫だから。お前たちはもうお休み。――そしてお前たちは大人しく帰るんだよ」
 禰琥壱を境にするように、これまで混ざり合っていた思念の泥が青と黒に分離し、いがみ合うように己の体を波打たせては弾ける。
 不完全な形でこの世に引きずり出されてしまった神々は、形を成す術ももたず、あのような思念の泥になってしまったのだろう。
 幼き神々の塊である青い泥は、禰琥壱に縋るように彼の足もとで波打つ。
 刻斉の目には、それがまるで母に縋る幼子のように見えた。
 対する黒い泥は、もはや元はなんだったのかわからないほどになってしまっている。
 恐らく、元々はこの世に何かしらの未練を持った思念と、棲み家を失った神々だったのだろう。
 それらが混ざり合った成れの果てがあの黒い泥だ。
 きっと、このような場所に中途半端に降霊などされなければ、混ざり合う事もなかっただろう。
「それぞれ元の場所に戻って、全てを忘れて眠るんだ。いいね」
 禰琥壱は、青と黒の思念達に念を押すようにそう言い、片方の手で何かを包むような緩やかな筒を作った。
 そして、その筒を通すようにふっと息を吹くと、これまで酷く騒がしかった木々のざわめきが徐々に静まってゆき、思念達の雄叫びも大人しくなる。
 その様子を確認した禰琥壱は祠と思念達を見やりながら後退し、刻斉たちのもとまで下がった。
 そして更に一歩下がり、刻斉の斜め後ろから見守るようにして言った。
「いいよ。もう大丈夫だから。――あちらに返してあげて」
「――はい」
 刻斉は禰琥壱に一つ返事をし、京弥と共に結界の中に足を踏み入れる。
 思念達はその二人に怯えるようにしていたが、攻撃をしようとはしていなかった。
 刻斉はそこで安心させるように、大丈夫だ、と彼らに告げる。
「俺はお前たちを安らかな眠りに誘うだけだ。痛くも辛くも苦しくもない。だから、安心して眠りな」
 刻斉のその言葉に安心したのか、思念達はただ大人しく自らを穏やかに波打たせ、刻斉が奏で始めた祝詞に身を委ねていた。
 そうして刻斉による鎮魂の儀式が完全に終わる頃には、結界内で波打っていた青と黒の思念は完全に消え去っていた。
 少し前まで周囲に満ちていた負の気配も消え、彼らの悲痛な雄叫びも、もう聞こえはしない。
 そんな今、そこにあるのは、穏やかな夏風と、それに揺らぐ木々の音だけとなった。
「お疲れ様」
 禰琥壱は安堵の溜め息をついた刻斉に労いの言葉を掛け、昨晩用意した封じのふだを渡した。
「これで当分は、穏やかに眠っていてくれるはずだから」
「はい」
 刻斉は禰琥壱と共に祠前まで進み、先ほど受け取った札を丁寧に祠に貼っていった。
 続いて綺刀たちが祠前に進み、小さな花々を祠前に添えた。
 花束などの大掛かりなものでは、その地に残ってしまい、人の気でその地を汚してしまうという事で、小さな花々を置くことにしたのだ。
 まとめられていないその小さな花たちは、風に乗り散ってゆくだろうが、こうしたのも、それと同じように彼らの悲しみも散るようにと思っての事でもあった。
「――ゆっくりおやすみ」
 禰琥壱が再び祠に触れそう言うと、その場に一度強い風が吹いた。
 すると、その風により先ほど丁寧に剥がした古い札が刻斉の手元から離れ、祠の向こう側へと飛んで行ってしまった。
「おいおい。悪戯っ子かよ」
 苦笑しながらそう言った恵夢がその札を取りに行こうとするが、禰琥壱がやんわりと制した。
「あぁ、大丈夫。俺が行くよ。恵夢君も皆と降りて待って――」
「ん、先生? どうしたんですか?」
 札を取りに行こうとした禰琥壱が途中で言葉を切ってしまったので、恵夢は不思議に思いそう尋ねた。
「恵夢君。至急、警察と救急車を呼んでくれる?」
「え?」
「見つけた」
「見つけたって、何を」
「――宮下みやした君」
 
 
 
 恵夢めぐむはその後すぐに警察に連絡をした。
 禰琥壱ねこいちはそのまま祠の裏側の傾斜を降り、気を失っているらしい少年を抱き起おし、その場で彼の安否を確認した。
 彼は、目は覚まさなかったが、問題なく呼吸もしており、小さな擦り傷以外は大きな外傷も見当たらなかった。
 また、頭を打った様子もなく、ただ疲れ果てて寝てしまった、といったような状態だった。
 そうして、最低限の安否を確認した上で、禰琥壱は宮下みやしたであろうその少年を抱え恵夢と共に車まで戻った。
 恵夢からスマートフォンを受け取った禰琥壱は、少年の状態を手際よく伝え、近場のパーキングエリアを指定し、そこで警察らと合流する事を提案した。
 祠に眠る幼子たちが、宮下の事を示そうとしてくれたのかは定かではないが、少なくとも、もしあのまま気付かずに帰っていれば、宮下は本当に死ぬまで発見されなかった可能性がある。
 救急車へと乗せられたやせ細った少年を見送りながら、綺刀あやとと恵夢はただ複雑な心境でいた。
 
「誰かに暴行されたわけでもなく、無理やり連れ去られた痕跡もない。擦り傷も山道を歩いて出来たようなものだけで、もみ合った痕跡とかもないみたい。あるとすれば、数日間飲まず食わずだった事による栄養失調くらいだって」
「そっか」
 一同は宮下を発見したものの、彼と一切関連がない事や、なぜあのような山に居たのかという点が不明瞭であった為、一度警察署で事情聴取を受ける事となった。
 禰琥壱らとしても、あのような状況では疑われても仕方がないという事で、聴取を快諾し、それぞれ事情を話した。
 実のところ、禰琥壱はこうなる事を見越していた為、聴取を受けた場合、あの場に居た理由はこう言おうというものを事前に用意しておいたのだった。
 そういった事もあり、無事に全員の疑いは晴れ、聴取は無事終了した。
 そしてその際に宮下の安否も確認した禰琥壱は、担当の刑事からそのような情報を得たのだった。
「でも、とりあえずこれでひと段落って感じか」
「そうだね。二人とも本当にお疲れ様。ゆっくり休んで」
「ありがとうございます」
「センセーも休んでな」
「うん、ありがとう」
 その日、事情聴取を終えた後、刻斉と京弥は身を清める為に一度本家に戻った。
 そして、その二人を本家に送り届けてから、綺刀と恵夢は禰琥壱のもとで簡単な清めを行い、食事をしてから今に至る。
 綺刀のみならば禰琥壱の寝室で眠るのだが、恵夢が居る時は、綺刀と恵夢は禰琥壱の寝室とは別の、客用の寝室で眠る事になっていた。
 そんな二人が潜り込んだベッドに腰掛け、禰琥壱は二人と話していたのだが、話を終えたところで二人に、お休み、と言って立ち上がった。
 綺刀と恵夢もまた、おやすみ、と返してきたので、禰琥壱はそれに微笑んだ。
 そしてその部屋の照明を落とし、彼らの部屋を後にした。
 
 
 
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