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第二話『 泥 』 - 06 /07

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 そのやりとりを後ろで見ていた禰琥壱は、その一言を聞き、目を伏せるようにして小さな溜め息を吐いた。
 警察官が、視覚的にショックがあるかもしれないが、と前置きをして、可能であれば牧村にも床下の中を確認してもらうよう頼むと、牧村は深呼吸をしてからその中を覗き込んだ。
 そしてその直後に、呻くような小さな悲鳴を上げた。
 その床下の空間は、警察官が言ったように、大量の真っ黒な毛髪で埋め尽くされていた。それはあまりにも異様な光景だった。まるで蛇のように波打ったその真っ黒な長毛の群れは、ただ見ているだけでも恐怖心を煽る。
「な、なんですかこれは……」
「我々も、見ただけでは何とも言えませんが。以前、ここに女性が住んでいたとか、あるいは、長髪の男性が住んでいたというような事はありますか」
「いえ、これまでこの部屋を契約されたのは男性ばかりで、こんな長い髪の方もいませんでしたし……こんな古いアパートですから、女性の契約者も少ないんで――……あっ、でも、そういえば」
 牧村は、何か思い当たる事があったらしく、顎に手を当てつつ記憶の引き出しを漁り始めたようだった。
「何か、思い当たることが?」
「はい。実は……四年前の事なんですけどね、その時に住んでた男の人が、その当時の恋人さんをよく部屋に泊めていたもんで――」
 牧村の話によれば、今から四年前のとある時期から、隣人の騒音が酷いという連絡を度々受けていたのだという。
 そして、その恋人をよく泊めていたという男が住んでいたのがこの203号室で、騒音で迷惑していると大家の牧村に連絡をしていたのは、その隣の202号室の住人だったそうだ。
 その騒音の内容というのは、男女の喧嘩するような怒鳴り声と、もう一つは深夜に響く女の喘ぐような声。これらの騒音が日に日に頻度を増しているからどうにかしてほしい、というのが202号室の住人の申し出であった。
 牧村は、その連絡を受けるなりすぐに203号室の男に連絡を取り、状況の確認を取った。
 すると、その男はすぐに丁寧な謝罪をした後に、気を付けますと言い、牧村からの注意を真摯に受け止めたのだそうだ。
 だが、少ししてから再び牧村のもとへ騒音被害の連絡が入った。
 今度は202号室だけでなく、その階下、現在綺刀の友人が住んでいる103号室の住人からも、同じような内容の騒音被害の連絡が入ったのだった。
 牧村は語る。
「なんと言いますか、そのぉ、本当に好青年って感じの人だったんですよ……こっちが注意をすればちゃんと謝ってくれますし、反抗的な態度もなけりゃ、他の住人に対して連絡された仕返しもしないし……。そんで、注意すりゃあ一時は静かになるらしいんですが……どぉにも戻っちまうみたいでねぇ……」
 そして、その騒音騒ぎが始まったその年、とうとう事は警察沙汰となった。
 2014年12月。
 年末という事で、世間では師走の忙しさの絶頂といった時期に、牧村のもとに警察から連絡が入った。
 警察によれば、アパートの住人から通報が入り、先刻、アパートを調査させて貰ったとの事だった。
 その連絡を受け、牧村もいい加減にしてくれと思いながら急いで寒空の下アパートの方へ出向くと、通報したのは202号室の住人だとわかった。
 いつも以上に異常な怒鳴り声とその他にも食器の割れる音など、どう考えても普通ではない物音が聞こえた為、事件性も考えて先に警察に通報したとの事だった。
 牧村はその話を聞いた後、警察と話をしているらしい203号室の男のもとへ行くと、男は心底申し訳なさそうな顔で牧村に深く頭を下げたのだという。
 その様子に返す言葉を見つけられずにいた牧村だったが、その男は、牧村の言葉を待たずに頭を下げながら言った。
「本当に、度々すみませんでした……あの、近いうちに出ていきます……ここまでの騒ぎになってしまったからには、僕もこれ以上ここには居られませんので……。あの、ちゃんとお金は払って出ていきますので。本当に、本当にすみませんでした……」
「あ、あぁ……そうですね……その方が、お互いにいいかもしれません」
 牧村がなんとかそれだけ言うと、男は苦笑しながらもう一度謝罪し、
「最近、全然彼女とうまくいかなくて……更にこんなにご迷惑までおかけして……だめですね、ほんと……」
 と零した。
 牧村はただ、運が回らない時は誰にでもありますと言った。
 すると男は、その言葉にひとつ礼を述べてから悲しそうに笑った。
 その笑顔を受け、本当は悪い人間ではないのだろうがと思い、牧村は胸が痛んだという。
 そんな事があった十二月中に、男は宣告通りアパートから引っ越していった。
 その後は、特に騒音被害もなく、穏やかな年越しを経て、牧村も体の弱い母の面倒を見ながら親子で正月の時間を楽しんでいたのだという。
 だがある日、牧村は正月番組の合間に放送されたニュース番組で、見覚えのある名前を見かけた。
 その名前は、とある事件の犯人として取り上げられていた。
「まさか、と思いましたけど……顔写真まで出てきちゃったらもう、ね。あん時ゃ一気に鳥肌がたちましたよ」
 その犯人の名前は、確かにあの203号室に住んでいた男の名前だった。同時に映し出されていた顔写真も、あの男のものに間違いなかった。
 そして、その報道によれば、その男は、犯行当時交際中であったとされる女性を殺害し、数日後、森の中に遺棄いきしたとの事だった。更には、その男もまた、その遺棄現場で首を吊って自殺したのだという。
 一応の事、事件発覚当時は、男女ともに他殺され、男性の犯行に見せかけた第三者の犯行の可能性も疑われていたらしいが、捜査が進む中で、その他殺説は薄れていったそうだ。
不謹慎ふきんしんな話ですけど……そのニュースを見て、あの時出て行ってくれて良かったと心底思いました。もしここで殺しなんてされたらたまったもんじゃないですからね……。ほんとに人当たりの良い人だったんですが、あん時ゃ、ニュースで犯人に対してこういう感想を漏らす人の気持ちがなんだかわかった気がしましたよ……」
「なるほど……」
 一通り牧村の話を聞いていた警察官たちだったが、そんな彼らの視線の先にはあの毛髪の海があった。
 その視線に気づいた牧村は、はたと気づいたようにした後に青ざめ、恐る恐る警察官たちに尋ねた。
「あ、あの……まさかそこにある髪が、その恋人さんの髪だなんて言いませんよね……」
「……わかりません。ただ、分析してみればわかると思いますので、こちらは警察で回収させて頂きます。また、少しの間、こちらの部屋には誰も立ち入らないようにして頂けますか。やむを得ぬ場合も、事前に警察に連絡をして頂きたいのですが」
「あぁ、はい、わかりました。その、何かわかったらご連絡頂けるんでしょうか」
「はい、勿論です。いずれにしてもご連絡は差し上げる事になると思いますので」
「わかりました……お願いします……」
「はい。それと、満月みつきさん」
「はい」
 事の成り行きを見守っていた禰琥壱に向き直り、警察官が伺いを立てる。
「確か、満月さんは、こちらの一つ前の住人とご友人関係にあるという事でしたが」
「えぇ、名前は確かに一緒でした。ですが、幼い頃に一度縁が切れてしまったので、現状では判断がつけられないんですが」
「わかりました。ではその点の確認と、今回こちらにご一緒頂いた事もありますので、一度署でお話を伺っても宜しいでしょうか」
「はい、わかりました。構いません」
 警察署への同行を快諾した事で、禰琥壱と牧村は、その足で警察官たちと共に警察署へ移動する事となった。
 その話を聞き、外で待機していた綺刀の友人は血相を変えた。彼は、すっかり禰琥壱が何かの容疑者扱いを受けていると勘違いしたようだった。
「大丈夫だよ、事情を話しに行くだけだから。ね」
 禰琥壱はそう言って、彼の友人と同じように不安そうにしている綺刀にも微笑みかける。
「二人は先に帰ってて。終わったらまた連絡するよ」
 そう言うと、綺刀は何度か緩く頷き、禰琥壱を見送った。
 
 
 
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