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嘘つきの宝物
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テレビに映る夕方のニュースが明日の天気を伝えるコーナーになった。明日のお天気は晴れ、お洗濯が捗りそうという思考を頭から追い出した。先日購入したドラム式洗濯乾燥機のおかげで日々の洗濯は随分と楽になったのだった。
「そろそろご飯の支度をしましょうか」
「ああ」
私の言葉にただ反射的に返事をする夫は今日何度目かの新聞をめくる。趣味のない夫の数少ない「家でやること」のひとつ。
医療機器メーカーに勤めていた夫が定年を迎えて早八年。子供のいない私たちは同年代の一般的な家庭のように孫を可愛がることもなく、夫婦二人だけの時間を過ごしている。
夫の定年を機に越してきたこの街に古い知り合いはいない。というのも敢えて知人のいない地域に越してきたからだ。
今の時代はさておき、私たちが結婚した当初は男が働き女は子を産み育てるというのが世間一般、大多数の夫婦の形だった。そしてそれは私たちの親世代からすれば最早一つの宗教観のように刷り込まれたもので、子のいない私たち、とくに義両親から私への態度はそれは酷いものだった。
だからだろうか。子がいないことは恥ずかしいことなのだと私は心のどこかで思うようになってしまったのだ。
そんな私は一から始めたご近所づきあいで嘘をつくことにした。
息子がいる、と。
近所との付き合いは最低限にするつもりだったので、バレることもないだろうと。
『…わかった。お前がそうしたいのならそうすればいい』
夫に口裏を合わせてもらわなければすぐに嘘だと露見してしまう。私は新しい土地では嘘をつきたいと夫へ願い出た。それを聞いて少しだけ考えた夫だったが、理由を聞くこともなく承諾してくれた。もう何十年も私に興味があるのかないのか、会話は最低限でまじまじと顔をみるようなことはなかったのに、あの時だけは私の瞳をじっくりと見つめていたのが印象的だった。
それから八年。私たちに本当は子供がいないという事実は誰にも知られることの無いままご近所づきあいは続いている。
私たちの後に越してきたお隣の新婚さんは出産・育児と私の経験できなかった俗に言う幸福と呼ばれる生活を営んでいた。育児に苦悩する若い母親を見ては自分が経験しなかったことをどこか安堵しつつ、そしてどこか羨ましくも思いつつ、時折自分が経験したことのように、テレビや本で得た知識を伝え良き隣人として付き合いを続けてきた。
そんな小さな嘘をつくたびに心に棘が刺さるような気持になることもあったけれど、子がいないという本当のことを言わなくてすむということにどこか安堵する自分もいた。
今となっては養子をとってでも育児というものを経験し、子のいる幸せや苦労を味わっておけばよかったかもしれない、なんて考えることはあるけれどすべては後の祭り。それに夫と二人きりの生活というのも悪くはなかった。
定年後、一日中夫が家にいる生活に不安はあったけれど、生活環境をこの機会にと改めたのが良かったのかもしれない。不慣れな土地での生活ではどうしても情報共有が必要になり、その結果夫婦間でのコミュニケーションも最低限とることはできた。
生来物静かな夫は読書か新聞を読むか、時たまパソコンやスマートフォンでインターネットをしているときに老眼鏡をかけて「うん」とか「うむ」とか何やら唸っている以外は静かなもの。
料理はからきしの夫ではあるけれど、掃除は好きなようで毎日掃除をするものだから私一人で家事をしていた頃と比べれば私も随分楽をさせてもらっている。
面白みのない生活と言えばそうなのかもしれないけれど、これが『私の幸せ』なんだと最近では感じるようになった。
ふと、そんな物静かな夫が唯一怒りを露わにした一件を思い出す。定期的に思い出す私の大切な思い出だ。
あれは結婚して七度目のお正月。毎回毎回、義両親からは孫はまだかと嫌味を言われるのはわかっていたので乗り気ではなかったけれど、覚悟を決めて夫の実家へ里帰りをした時だった。
「はぁ、お隣さんのところはもうお孫さんが小学生なんですって。なんで私達は孫を抱けないのかしらね。お嫁さんの仕事って何かしら? なんであなたなんかと結婚させてしまったのかしらね」
食後のお茶を支度していた私に向かって投げられた姑からのその心無い言葉。内心、またかと思いながらも苦笑いで「すみません」と返した私の心はもう限界だった。悔しくて情けなくて、それでも強く言い返せない自分が嫌になった。
でも。
「いい加減にしろよ! 俺は子供を産ませるためにこいつと一緒になったんじゃない! 顔を合わせれば毎回毎回、うんざりなんだよ! あんた達とはもう親子の縁を切る!」
夫が声を荒げたのを聞いたのは後にも先にもあの一度きり。
結婚当初から物静かで本心を語るようなことの無い夫は子供が生まれないことに本当は不満を抱いているのではないか、勘繰っていた私はこれには本当に驚いた。テーブルを思いっきり叩いた夫に腕を掴まれ「帰るぞ!」とそのまま義実家を後にしてからはあの家の敷居を私が跨ぐことはなかった。感情を露わにすることの少ない夫のその言葉に義両親はそれっきり私たちへの干渉をしてこなくなったからだ。
その一回、たった一回だけのその言葉は私にとっての宝物。
大恋愛をした、なんてこともない知人を経由しての出会いからの結婚。だから、子が出来ない私は夫から捨てられてしまうのではないかと考えることもあった。昔は今よりももっと女が生き辛い世の中だったから。
そんな私にとって夫がこれほどまでに、両親と縁を切ってまで私のことを大切に想ってくれているなんてことは意外だった。意外なんていったら怒られてしまうかもしれませんね。
ほうれん草のおひたしを器に盛りつけ、柚子の皮を削って散らす。そういえばあの日の食事にも同じものがあったわね。
「フフッ」
「どうかしたか?」
「いえね、昔、あなたの実家に最後に行ったときにも同じ料理があったと思い出してね」
「…ああ、あの時か」
当時のことを思い出したのか、眉を顰めた夫の耳は少しだけ赤く染まる。
「…嗅覚は脳の記憶を司る部分と強く結びついているからな、そのせいだろう」
尤もらしいことを言って話を逸らした夫。どれだけ続くかはわからないけれど、そんな彼と私のささやかな生活は続いていく。
「そろそろご飯の支度をしましょうか」
「ああ」
私の言葉にただ反射的に返事をする夫は今日何度目かの新聞をめくる。趣味のない夫の数少ない「家でやること」のひとつ。
医療機器メーカーに勤めていた夫が定年を迎えて早八年。子供のいない私たちは同年代の一般的な家庭のように孫を可愛がることもなく、夫婦二人だけの時間を過ごしている。
夫の定年を機に越してきたこの街に古い知り合いはいない。というのも敢えて知人のいない地域に越してきたからだ。
今の時代はさておき、私たちが結婚した当初は男が働き女は子を産み育てるというのが世間一般、大多数の夫婦の形だった。そしてそれは私たちの親世代からすれば最早一つの宗教観のように刷り込まれたもので、子のいない私たち、とくに義両親から私への態度はそれは酷いものだった。
だからだろうか。子がいないことは恥ずかしいことなのだと私は心のどこかで思うようになってしまったのだ。
そんな私は一から始めたご近所づきあいで嘘をつくことにした。
息子がいる、と。
近所との付き合いは最低限にするつもりだったので、バレることもないだろうと。
『…わかった。お前がそうしたいのならそうすればいい』
夫に口裏を合わせてもらわなければすぐに嘘だと露見してしまう。私は新しい土地では嘘をつきたいと夫へ願い出た。それを聞いて少しだけ考えた夫だったが、理由を聞くこともなく承諾してくれた。もう何十年も私に興味があるのかないのか、会話は最低限でまじまじと顔をみるようなことはなかったのに、あの時だけは私の瞳をじっくりと見つめていたのが印象的だった。
それから八年。私たちに本当は子供がいないという事実は誰にも知られることの無いままご近所づきあいは続いている。
私たちの後に越してきたお隣の新婚さんは出産・育児と私の経験できなかった俗に言う幸福と呼ばれる生活を営んでいた。育児に苦悩する若い母親を見ては自分が経験しなかったことをどこか安堵しつつ、そしてどこか羨ましくも思いつつ、時折自分が経験したことのように、テレビや本で得た知識を伝え良き隣人として付き合いを続けてきた。
そんな小さな嘘をつくたびに心に棘が刺さるような気持になることもあったけれど、子がいないという本当のことを言わなくてすむということにどこか安堵する自分もいた。
今となっては養子をとってでも育児というものを経験し、子のいる幸せや苦労を味わっておけばよかったかもしれない、なんて考えることはあるけれどすべては後の祭り。それに夫と二人きりの生活というのも悪くはなかった。
定年後、一日中夫が家にいる生活に不安はあったけれど、生活環境をこの機会にと改めたのが良かったのかもしれない。不慣れな土地での生活ではどうしても情報共有が必要になり、その結果夫婦間でのコミュニケーションも最低限とることはできた。
生来物静かな夫は読書か新聞を読むか、時たまパソコンやスマートフォンでインターネットをしているときに老眼鏡をかけて「うん」とか「うむ」とか何やら唸っている以外は静かなもの。
料理はからきしの夫ではあるけれど、掃除は好きなようで毎日掃除をするものだから私一人で家事をしていた頃と比べれば私も随分楽をさせてもらっている。
面白みのない生活と言えばそうなのかもしれないけれど、これが『私の幸せ』なんだと最近では感じるようになった。
ふと、そんな物静かな夫が唯一怒りを露わにした一件を思い出す。定期的に思い出す私の大切な思い出だ。
あれは結婚して七度目のお正月。毎回毎回、義両親からは孫はまだかと嫌味を言われるのはわかっていたので乗り気ではなかったけれど、覚悟を決めて夫の実家へ里帰りをした時だった。
「はぁ、お隣さんのところはもうお孫さんが小学生なんですって。なんで私達は孫を抱けないのかしらね。お嫁さんの仕事って何かしら? なんであなたなんかと結婚させてしまったのかしらね」
食後のお茶を支度していた私に向かって投げられた姑からのその心無い言葉。内心、またかと思いながらも苦笑いで「すみません」と返した私の心はもう限界だった。悔しくて情けなくて、それでも強く言い返せない自分が嫌になった。
でも。
「いい加減にしろよ! 俺は子供を産ませるためにこいつと一緒になったんじゃない! 顔を合わせれば毎回毎回、うんざりなんだよ! あんた達とはもう親子の縁を切る!」
夫が声を荒げたのを聞いたのは後にも先にもあの一度きり。
結婚当初から物静かで本心を語るようなことの無い夫は子供が生まれないことに本当は不満を抱いているのではないか、勘繰っていた私はこれには本当に驚いた。テーブルを思いっきり叩いた夫に腕を掴まれ「帰るぞ!」とそのまま義実家を後にしてからはあの家の敷居を私が跨ぐことはなかった。感情を露わにすることの少ない夫のその言葉に義両親はそれっきり私たちへの干渉をしてこなくなったからだ。
その一回、たった一回だけのその言葉は私にとっての宝物。
大恋愛をした、なんてこともない知人を経由しての出会いからの結婚。だから、子が出来ない私は夫から捨てられてしまうのではないかと考えることもあった。昔は今よりももっと女が生き辛い世の中だったから。
そんな私にとって夫がこれほどまでに、両親と縁を切ってまで私のことを大切に想ってくれているなんてことは意外だった。意外なんていったら怒られてしまうかもしれませんね。
ほうれん草のおひたしを器に盛りつけ、柚子の皮を削って散らす。そういえばあの日の食事にも同じものがあったわね。
「フフッ」
「どうかしたか?」
「いえね、昔、あなたの実家に最後に行ったときにも同じ料理があったと思い出してね」
「…ああ、あの時か」
当時のことを思い出したのか、眉を顰めた夫の耳は少しだけ赤く染まる。
「…嗅覚は脳の記憶を司る部分と強く結びついているからな、そのせいだろう」
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