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第三者、燕の視点。

第四話、月明かりの晩。

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 少年が村通いに慣れてきた頃。
 ある村で、村人たちの困りごとを君子が手伝っていると一人の女が駆けてきた。

 「…………君子さま」

 縋るように女は君子の胸に寄りかかる。
 君子は目を伏せていた。
 そして君子は早足に女について行く。
 それを少年が、少し意外そうな顔で、じっと見ていた。
 君子の後に続いて、燕が民家に入ると寝かされている少女が目に入った。
 窓から差し込む光が、その幼い少女の青白い顔を照らしている。
 
「ーー君子さま、ごめんなさい。私、もう、無理みたい……」

 か細い声が、そう囁いていた。
 皆が息を殺す室内で、かすかな彼女の声だけが響いていた。
 燕と同じように皆が思っていた。
 ーー救いが、ない。
 それでも、皆が奇跡を望んでいた。
 燕は無力さに目を一度伏せた。
 潤む瞳を少女は君子に向け、小さな手を伸ばした。
 君子はその手を、しっかりと握り締めていた。

「……よく頑張りましたね」

 淡い日の光のような、穏やかな空気を纏い、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを君子は浮かべた。
 君子が浮かべた温かな笑みに少女は目を見開いて、かすかに嬉しそうに笑う。

「ーー頑張ったでしょう? だから、もう、いいよね。眠っても……」

 誇らしげに言った後に、目蓋が何度も落ちそうになる。
 目を開いているのも辛いのだろう、と皆が察し、周りから嗚咽を堪える声がしていた。

「ええ、おやすみなさい。良い夢を」

 その言葉にふわりと微笑んで、少女は目を閉じた。
 そのまま少女は息を引き取った。
 音が消えた室内で、徐々に泣き声が満ちていった。
 君子だけが涙を見せなかった。
 ただ穏やかな顔をしていた。
 薄く湛えられた、曇りのない柔らかな笑みを少女を見送ろうとしているか、のように燕には見えた。
 君子は民家を後にすると、先ほどの姿が嘘のように、人気のない場所で崩れ落ちて、声を上げて泣いていた。
 小刻みに身体が震えている。
 君子を心配して、手を伸ばし、近づこうとする少年の肩に燕は手を置いた。
 ーー今はそっとして置きましょう。
 仕草で燕はその言葉を伝えた。
 無言で首を振った燕に少年は立ち止まって、心配そうに君子を見ていた。

「私が、もっと……」

 顔を覆いながら、無力さを嘆く言葉が聞こえた。

「まだ、フリだ、と思いますか?」

 燕は静かに少年に問いかけた。
 そして、君子を見ていた少年は燕を振り返った。

「ーーやっぱり、このまま、あんなところで、泣いていたら、風邪引くし、声、声かけるよ」

 そう言ってから、少年は君子に声をかけ、手を貸していた。
 
「……大丈夫? そろそろ帰ろう。暗くなるよ」

「……もう少しだけ……ここに居させてください」

 寄りかかられ、少年は嫌がりはせずに君子の背を宥めるように撫でていた。

「……うん、分かった……我慢しないで、涙を引っ込めなくていいよ」

 少年の言葉に君子は顔を上げた。
 
「ですが……私は……」

「ーーいつもの貴方に戻らなくて、いい。泣けばいいよ。好きなだけ。俺が貴女の涙を隠してあげるから」 

「……うっ…………」

 その言葉に我慢出来ずに、君子は少年に縋りついた。

「たくさん泣けばいいよ。悲しみを全部吐き出してしまえばいい……」

 ひどく優しい声音で、少年は君子に語りかけていた。
 燕からは少年の表情は見えなかった。
 君子はその少年の言葉に縋り、子供のように激しくむせび泣いていた。

 数時間後。
 
「……私はあの子に何もしてあげられなかった……きっと本当は、私のことを恨んで……」

 少女を救えなかった後悔を君子は吐き出した。
 そして恨まれているかもしれない。
 それが怖い、と肩を震わせていた。
 
「ーー大丈夫だよ。あの子も、貴女に感謝してる。恨んでなんていない。きっと、貴女は、貴女に出来ることをしたんだろう?」

「それでも、きっと……何か……」

 まだ出来た、と口にしようとする君子の涙を少年はその指で拭った。
 
「悲しんで、たくさん泣いただろ? 精一杯尽くしたのなら、もう、そんなに泣くなよ、あの子が貴女を心配して、逝けなくなってしまうから」

「…………」

 君子の頭上辺りを一瞬少年は見つめていた。
 まるで、そこに少女がいるかのような口調だった。
 燕は考え過ぎだろうか、と思いながら、二人を黙って見ていた。
 
「ほら、そろそろ、いつもの貴女に戻らないと……」

 そう優しく少年は背を擦りながら、君子を促していた。

「……本当は分かっているんです。あの子は私を慕ってくれました。でも、私はもっと……何か……」

 まだ後悔を口にする君子を少年は遮った。

「ーー人は、化身にはなれない。どんなに願っても、自分に出来ることは限られている。救えないものは、救えないよ。人の身には出来ないことがある」

 創造神が作ったとされる五柱。
 その化身の名を少年は口にした。
 創造神が深い眠りについた後、化身がこの世界の神として、崇められている。
 静かな、けれども深い悲しみ混じりの声だった。

「…………」

 実感のこもった言葉に君子は顔を少年の衣に押しつけていた。
 
「ーーだから、貴女はあの子のためにも、今は笑顔を浮かべて、あの子を見送ってあげないと、今からずっとその調子じゃ、明日は……本番で、笑顔を浮かべることが出来ないよ」

 明日、彼女の遺体は焼かれて、埋葬される。
 その言葉にまた君子は涙を潤ませ、ぎゅっと少年に縋りついた。

「……まだ、いいでしょう? まだ……今日は……好きなだけ……泣いていい、と……君は……言ってくれたのだから。まだ、いつもの私には……」

 戻らなくても、と君子は泣き過ぎてかすれた声で頬を寄せて縋っていた。

「…………うん。もう少しだけ……」

 そう君子の髪や背を優しくあやすように、少年は擦っていた。
 だが、それから何時間が経っても、中々放してくれない君子に困って、少年は燕をちらりと見て、助けを求めていた。
 燕が近寄ると非難めいた瞳を一瞬君子から向けれた気がした。
 きっと、身間違いに違いない。
 燕はそう思うことにした。
 まるで邪魔をするな、と言わんばかりの瞳だった。
 そんな瞳を燕は見た気がしていた。
 
 
 それから数週間後。
 薬をり分けている君子の手元を少年は覗き込んでいた。

「ーー興味があるのなら、教えましょうか?」

「……実物を見たのは初めてだ」

 そう言って、じっと乾燥させた薬草を少年は見つめていた。
 燕はその場を離れた。
 忘れ物を取りに燕が戻ったら、二人は寄り添って、薬草を見ていた。

「ーーこっちの効能は?」

「ああ……これは……」

 穏やかな会話に燕は微笑んで、その場を後にした。
 前から頼まれていた仕事を片付けて、燕は邸に戻ってきた。
 戸を開けると温かな光景があった。

「……ライ、風邪を引いてしまいますよ。そんなところで寝ていると……」

 うたた寝をしている少年に君子は柔らかな声を投げかけ、背を優しく揺すっている。
 寝ぼけているのか。
 目を擦りながら、むにゃむにゃ、と少年は甘えるように呟く。

「もう少し、寝かせて……」

「仕方ないですね……」

 そう言って、君子は薄い毛布を少年にかけていた。
 最初に比べたら、少年は随分とこちらに心を開いているように見えていた。
 それが嬉しいのか、とても優しい笑みを君子は浮かべていた。
 燕も、少しずつ、少年とは打ち解けていた。
 同じ屋根の下で、一緒に暮らしているのだから、当然と言えた。
 そして未だに、なぜか少年は燕の部屋で寝起きしていた。
 あんな風に甘えても、君子とは二人きりになりたがらない。
 君子の部屋で眠るのを、顔色が変わるほどに極端に嫌がっていた。
 燕はその理由が全く分からなかった。
 よく考えてみると最初は君子に対し、近づくな、と少年は口を押さえながら、威嚇をしていた。
 後ろから覗き込まれ、君子の髪が顔にかかった時は鳥肌を立てていた。
 凄まじい形相で君子から後退っていた。
 それを見て、君子は少し寂しそうに苦笑を浮かべていた。
 そして、なせが少年は燕を盾にしていた気がする。
 気付くと、少年は燕の後ろにいることが多かった。

 
 少年はじっと座って、何か考えているようだった。
 そこに幼い少女が駆け寄った。

「ライお兄ちゃん、遊ぼう?」

 君子に懐いている幼い少女は少年を揺さぶって、ねだっていた。
 感情の見えない目で、幼い少女を見てから少年は柔らかな微笑みを浮かべた。
 
「…………うん、いいよ。桃花。何して遊ぶ?」

 微笑みはあまりに優しかった。
 纏う空気が違った。
 声音が、泣いていた君子に語りかけた時と同じくらい、ひどく優しかった。
 ーー育ちの良さが滲んていた。
 そんな顔を少年は燕たちの前では見せなかった。
 君子の前では、少年は最初態度があまりに悪かった。
 燕と二人きりの時は、なせが静かだった。
 燕のことを空気と見なしているのだろう。 
 興味もないに違いない。
 燕はそう思っていた。
 が、燕が頼みごとをすると文句も言わずに、少年は素直に手伝ってくれていた。
 燕には懐いているような素振りすら見せていた。
 よほど君子が気に入らないのだろうか。
 君子に対してだけは、少年は特に反抗的な態度を取っていた。
 君子が一緒の際は誰に対しても、態度が悪かった。
 そして今は、燕にも君子にも、態度を軟化させた。
 汚い言葉も、小馬鹿にするような眼差しも、君子に当てつけるような、乱暴な物の扱いもしない。
 前は壊れ物ですら、乱暴に扱っていた。
 今はそっと壊れないように運ぶようになっていた。
 無視もしなくなった。
 けれども、あんな微笑みを見せてくれたことはなかった。
 
「……んーとね……じゃあね、かくれんぼ!」

 悩んでから、少女は明るく笑った。
 
「かくれんぼって、何?」

 きょとん、と困った顔で、少年は幼い少女を見た。
 幼い少女は驚愕を浮かべて、少年を見た。
 
「ーーかくれんぼも、忘れちゃったの?」

「え、ああ、君たちの村では流行っているかのかな? ごめんね。うん、それも忘れちゃったんだ。教えて、くれるかな?」

 目線を合わせるように幼い少女の目を見ていた。
 ーー別人だった。
 纏う空気は柔らかく、ただ優しい。
 笑みは眩しくて、純粋だった。
 君子よりも、聖人、という言葉が似合っていた。
 君子には感じない純粋さと眩しさを感じた。
 圧倒的な違いに燕は戸惑っていた。
 ーー本物、と偽りは違う。
 ふと浮かんだ言葉に燕は足を止めた。
 少年の普段からの本当の姿だ、と燕は何となく感じていた。
 きっと、と燕はその瞬間に気付いた。
 燕は足元の地面を見た。
 この場所は、彼にとっては大きな隔たりがあることにもう燕は気付いていた。
 ーー遠い世界だ。
 住む場所が、世界が違う。
 それを悟っていた。

「…………っ」

 それでも、同じ目線に立っている。
 慈愛に満ちた瞳を向けている。
 その瞳の輝きが違った。
 守るべき存在だ、と幼い少女を見ていた。
 ーー本当にそれを信じていた。
 信じ切っていた。
 それが当然だ、と思っているのが、見ているだけで燕に伝わってきていた。
 綺麗な真っさらな瞳だった。
 ーー薄汚れてはいなかった。
 誰と一瞬比べてしまったのか、燕は目を伏せた。
 年齢が違うのだから、当たり前だ。
 歳を取れば、嫌な経験くらい、何度も経験する。幾らでも嫌なことはある。
 それでも、少年はあまりに輝いて見えていた。綺麗に見えた。
 住む世界が違うなら、なぜここにいるのか。
 燕は考えを巡らせた。
 世界が違う彼と君子の接点。
 一つだけ、燕の頭にそれが浮かんだ。
 ーー君子は選定官だ。
 高位貴族、または名門十二家の子息たちは、官吏を目指し、学び舎卒業を前に選定官の票を欲しがっている。

(ーー君子はなぜ、気付かないフリをしている?)

 もし、そうなら、と浮かぶ疑問と不安に燕は立ち尽くしていた。
 気付くと、いつの間にか、少年が燕の前に立っていた。

「……燕は俺のこと、嫌いかもしれないけど、俺は、燕のこと……嫌いじゃないよ」

 照れくさそうに目線を逸らしながら、嫌いじゃないよ、と少年は言っていた。

「…………」

 燕は黙っていた。

「ーーちゃんと尊敬出来るから。官吏で、真っ当な人って、珍しいから……俺も、なれるなら、燕みたいな、貴女みたいな人に、

 燕はをしっかりと見つめ、尊敬出来るから、と素直な声音で、少年はそう言った。
 が、なりたかった、という少年の最後の言葉に燕は含みを感じた。
 何とか、燕は言葉を絞り出した。
 
「何ですか、それ……気色悪いですよ。君のような生意気な子が、そんなことを言うと、何か企んでいる、と思うでしょう……」

 そう言いながら、燕は分かっていた。
 きっと企みですら、嘘ですらない。
 
「……あのさ……ありがとう。燕には凄く世話になった。燕がいてくれたから、俺は助かったし、色々と救われたよ……えっと、本当に色々ありがとう」

「何ですか……本当に、大雨でも降りそうですよ。こんな快晴なのに……」

 そう俯きながら別れを告げているように見える少年を、それでも燕は目にしながら、目に映さなかった。
 映そうとはしなかった。
 もし、映してまえば……。
 ーー全てが覆る、と燕は分かっていたから。
 それに全ての真実に目を通す勇気が燕にはなかった。

 それから、気が付くと少年の姿が見えなくている。
 
「……ライを見ませんでしたか?」

 君子の言葉に燕は答えた。

「ーーいえ、見ていませんが。姿が見えないのですか?」

 先ほどの件を燕は伏せた。
 少なくとも、今は見ていなかった。
 燕と別れた少年は君子の側にいたはずだった。
 それから燕は見てはいない。

「先ほどまでは……そこにいたはずなのに……」

 君子はそう呟いた。

「きっと、どこか散歩でもしているのでは……。そう深刻に捉えずとも、すぐに戻ってきますよ」

 そう燕は気休めを言ったが、少年は戻ってこなかった。
 それから少年が消えてから、数日後。

「……木簡がない」

 そう君子は呟いた。
 棚の中を覗き込み、呆然、と呟く君子の様子は普通には見えなかった。
 
「ーー木簡?」

「……いえ、何でもありません」

 君子は動揺を隠すようにそう言った。
 燕は気になって、覗き込むと木の板がずれていることに気付いた。
 どうやら、この棚には燕の知らない秘密があったようだ。
 板の裏に空間があるのだろう。
 その場所に何を置いていたかかは知らないが、先ほどの発言から考えると、何か大事な物を木簡に記していたのだろう。
 
「……もしや、失くなっているのですか。まさか、あの少年が……」

「そんなはずは……」

 思案げに君子の瞳は揺れている。
 動揺を抑えようとする姿に燕は同情を禁じ得なかった。
 君子は随分とあの少年に目をかけているように見えた。
 裏切られたのだとしたら、あまりにも君子が気の毒だ、と燕は思っていた。
 そう思おうとしていた。
 全てから、燕は目を逸らしていた。
 
 それから数日後。
 ガマガエルーーあの呂と呼ばれた高官が首を吊った状態で発見された。
 殺された、と噂された高官の部屋から、木簡が見つかった。
 その木簡には高官の不正が記されていた。
 その話を耳にした燕は君子の探している木簡について、考えた。

「……まさか、あの少年が呂を殺したのだろうか?」

 呟いた声音はしんとした場所に溶けるように消えた。
 けれども、燕の中ではその疑いは消えない染みとなった。
 冷たく心地よい風が頰を撫でる。
 澄んだ空気が辺りを満たしていた。
 紺碧の夜空に大きな黄色い月が淡い光を放ち、頭上に現れていた。
 月を見上げ、燕は終わらない仕事量に眉間を押さえた。
 夜も遅いのに君子はまだ仕事をしているのだろうか、と君子の執務室を見た。
 蝋燭の灯りが揺れている。
 君子が仕事をしているのに自身だけ、仕事を終えて自室に帰るのは忍びなかった。
 移動する時間すらも、惜しく燕は狭い室内で一心不乱に仕事をこなしていた。
 そろそろ休憩を終えて、部屋に戻らなければ、と燕が立ち上がった時にかすかに砂利の音がした。
 君子の本邸の庭に影が差した。
 動く影に気付いた燕は曲者か、と慌てかけて、もう一つの黒い影が動いたことによって、誰かが庭に潜んでいたことに気付いた。
 潜んでいた影が、その影に問う。

「ーー動けば、切り捨てます。貴女が呂を殺し、木簡を置いたのですか?」

 影は君子だった。
 言葉通りに剣を突きつけている君子の姿を燕は見た。

「……それは貴女がご存知でしょう? ーーそれと、出来るものなら、どうぞ」

 ふっと少年は笑う。
 妖しげに笑う少年がいた。
 誰だ、これは……、と燕は別人のような少年に驚いた。
 君子は剣を突き出した。
 突き出された剣を下げていた剣で、少年は弾き飛ばし、くるり、と身を翻すと君子の素早い突きに即座に反応して、剣を払い、後ろに下がった。
 一瞬の出来事に燕はつばを飲み込む。
 伊達に護衛兼補佐官など長く勤めてはいない。
 君子の実力も知っている。
 十代半ばにしか見えない少年が、あれほどの技量を身につけていることに燕は驚きを隠せなかった。
 例え、高位貴族出身でも、君子の剣は用意に捌けない。
 にこりと少年は笑うと追ってきた君子の剣を躱す。
 月が隠れた夜闇の中で、火花が幾つも瞬時に出来ていく。
 燕が目で追えなくなった頃に少年は距離を詰め、君子の耳元で囁いた。

「ーーサリア、貴女が恋したかったです。この鈍色に光る、柔らかな髪も、どれほど夢に、見たことでしょうか。ずっとこうして、触れてみたかった」

 君子の一房の髪に少年は口付けた。
 固まった君子は顔色を赤くし、剣を大きく振りかぶった。
 
「よくも、そんなことを……ふざけるのも、大概にしなさい!」

 それを柔軟に躱した少年はまた彼に囁く。
 
「ーー素直になれない貴女も、可愛らしい。もっと俺に夢中になってもらえるように頑張ります。貴女の心が完全に俺だけのものになるように」

 君子の頰に少年は口付けて、去っていった。
 それを一部始終、燕は見て聞いていた。
 足元の砂利が音を立てた。
 君子と目が合った。
 だが、何も言わず、彼を今まで見たことがない笑みを浮かべて見せた。
 そして邸に入っていった。

 それから燕は今の職場は退職せざるを得なくなった。
 君子本人から言い渡されたわけではないが、理由は言うまでもない。
 上から、言われた理由はあくまでも、君の力が別の場所で必要になったからの一点張りだ。
 ーー所謂いわゆる左遷だった。
 それに対し、燕はとぼとぼとした足取りで、皇都より離れた道を歩いていた。
 辺りはのどかな田園風景で、人の姿はどこにも見えない。
 そんな田舎道で、馬車がこちらへ向かってくるのが見えた。
 燕が端に寄ると馬車が、なぜか立ち止まった。
 立ち止まった馬車から、声がした。

「ーー頼んでいた件は、どうなりましたか?」

 そう聞く声に初めて、燕は自身が本当に首になった理由を気付いた。
 何週間か、前に、その人物は君子から薬を受け取っていた。
 冷えた氷のような瞳が、燕に向けらていた。
 何となく見てはいけない場面を見てしまったのだ、と燕は気付いた。
 燕のことは消したがっている、と気付いてはいた。
 そんな時に、その人物は声をかけてきた。
 ーー危険だ、と分かっていた。
 それでも、どうしても、金が必要だった。
 病に倒れた妹と老いた母親を医療に優れた睡蓮に運ぶためには金が必要だった。
 頼まれた内容は君子の部屋から、ある毒の解毒薬の製造法を紙に写して、渡すことだった。
 しかし、何も見つからなかった。
 それを彼に報告した。
 それでも彼は金をくれた。
 青ざめる燕の顔を黒曜石が見つめていた。
 
「君が、まさか、木簡を……君子さまを陥れ……」

 言いかけた燕を彼は笑った。
 
「どこに証拠が。その首を繋げていたいならば、黙っていることです。憶測を口にするのは、いけないことですよね?」

 人差し指を立てて、シー、と言うように燕に見せていた。
 冷たい目が、燕を見ていた。
 燕は忠告を破り、問いを発した。
 そして返された相手の言葉に燕は声を荒げた。

「ーー正気じゃないっ、許されない、大罪だ。狂ってるっ!!」



 そして数日後に燕の死体が見つかった。


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