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 〜嘘に塗れた世界で、偽りを謳う

第零話、前置き

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 もうもうと立ち込める煙。
 皇宮から宮女や小間使いが、逃げ出してきた。宮女の一人が泣き出しながら、夏雲上の裾に縋りつく。

「ーーどうか、お許しを……寵妃さまを、夏妃さまを殺さないで、どうか、お願いします!」

 泣きながら、主の命乞いをする。
 濡れる瞳は潤んで、今にも大きな滴が零れ落ちそうだった。
 切実な思いが言葉から如実に伝わる。
 ーー縋りつく手は震えている。
 都は既に落ちた。
 取り囲まれ、逃げ場はない。 
 この状況ならば、寵妃に仕えた宮女は斬り捨てられても、おかしくはない。
 決死の覚悟で訴えているのは、雲上にも分かっていた。
 だからこそ伝わる宮女の忠誠心が、雲上の剣の柄にかけた手を鈍らせていた。
 柄を雲上は強く握り締め、立ち尽くしていた。
 慶紫銀が柄に手を伸ばしたのが、見えた。
 彼が何をしようとしているのか、その瞬間に雲上には分かった。
 剣を抜いて、彼の剣を弾けば宮女を救うことは出来る。
 だか、迷いは雲上の動きを止めさせた。
 冷たい眼差しを浮かべて、紫銀は躊躇なく宮女は切り捨てた。
 灰銀の髪と頬に返り血が飛び散っていた。
 それを拭いもせずに、紫銀は剣の血だけを布で拭っていた。

「……甘さは捨てるべきです。これから大業を成さねばならない、というのに。その体たらくで、どうすると?」

「ーー済まなかった」

 言葉少なに視線を伏せたまま、雲上は答えていた。
 風に雲上の髪が攫われた。
 雲上の目の端に自身の揺れる長い黒髪が映った。
 激しく風に揺れる自身の髪を見て、雲上はふと思った。
 まるで自身の心の迷いを映しているようだ。
 そう自嘲気味に雲上は思っていた。
 雲上の視線の先の宮女の亡骸に紫銀は顔を歪めた。
 宮女への哀れみを抱く雲上を不快に思っているのが、見て取れた。
 雲上は一瞬俯いた。

「ーーーー行くぞ」

 二人のやり取りを見ていた飛龍は雲上の迷いには触れずに先を急ぐ、と外套を翻した。
 そんな飛龍を雲上は追った。
 開かれた扉から、中へ入ると怯える宮女と雲上は目が合った。
 震える手には短剣が握られている。
 自決を迫られながらも、死への恐怖からか。その瞳には涙が浮かんでいた。
 
「ひっ……」

 他の女たちは皆倒れている。
 一人だけ、死ねずに足掻いているのだろう。
 戦争に負けた側の女の末路は悲惨だ。
 褒賞として、兵士に与えられる場合も多い、と聞く。
 彼女たちが何を考えて行動をしたのか、一目瞭然だった。
 飛龍はそれは禁ずるだろう。
 他の並ぶ面子も、そう言ったことには嫌悪を示す。
 ここに集まった者たちは国を憂い、国を正すために行動したのだ。
 意味のない犠牲は望むところではない。
 脳裏に浮かぶ、卑しい貴族たちの顔。
 浮かんだ、その者らは別だろうが。
 表立っては、飛龍に逆らいはしないだろう。
 そこまで考えて、雲上は前を見た。
 そして、雲上は止めていた足を進ませた。
 
「ーー甘さは捨てるべきだな」

 雲上の口から漏れた呟きには沈痛な響きが合った。
 それを自覚して、雲上は額を少し押さえた。
 むせ返るような血の臭い。
 飛び散るのは生命そのもの。
 赤い滴が、一つ一つ。
 ゆっくりと飛び散っていく。
 世界はひどく緩慢に動いていた。
 その中を雲上は進む。 
 ある者は、切り捨てられた者を見ては泣き叫び、助けを求めては逃げ惑う。
 絶えず止まれない、悲鳴と喧騒。
 人々は倒れるように事切れて、折り重なっていく。
 出来上がっていくのは、積み上げられる死体の山。
 流れ、川のように繋がる赤い血だまり。
 全てが、彼、彼女らの生きた証で、いずれ歴史に刻まれる。
 通り過ぎ終わった瞬間に雲上は一瞬目を閉じた。
 ーー地獄があるのなら、こういう場所を言うのだろう。

「……私は、全ての罪を受け入れよう」

 振り返ることなく、雲上はその身に重い罪を背負った。
 その言葉には雲上の覚悟が滲んでいた。
 言葉を発した瞬間に雲上は肩に鉛を置かれた気がした。
 錯覚に呼吸が止まる。
 開いた目を閉じ、雲上は苦痛に耐えた。

「ーー私はこの国を変えてみせる。犠牲は無駄にしない」

 ーー犠牲の上で成り立つ、この世界を変えてみせる。
 誓いを雲上は口にした。
 そして、目を開くと雲上は一歩を踏み出した。
 前を進んでいたはずの飛龍は雲上を見て、足を止めていた。
 そして飛龍は視線を前に戻した。
 向けられた雲上の安否を確認するような視線に見えないものが、また見えているのか、と思いながら、雲上も足を止めた。
 そして飛龍の視線の先を追った。
 玉座に一人の女が座っていた。
 ーー夏紅蘭。
 皇帝の寵妃だった。
 天窓から、日の光を浴びて、長い漆黒の髪が煌めいていた。

「……遅かったな。道草でも、していたのか?」

 鈴を転がすような声が、凛と響く。
 張り上げたわけでもないのに、よく声が通っていた。
 濃い紅が笑みを形作る。
 浮かべられた笑みは美しく、彼女の本心を悟らせることはなかった。
 その絶世の美貌と賢さゆえに、皇帝から寵愛された妃の美しさは今も健在だった。
 それを雲上は見つめていた。

「ーー皇帝の死を隠し、圧政を敷いた。国を混乱に陥れ、数多の民の命を奪った。その事実に間違いはないな?」

 突きつけられた剣を見て、彼女は笑う。
 指で、すっと刀身をなぞり、笑う姿は妖艶な悪女にしか見えなかった。

「ならば、どうする?」

「ーーその命、もらうまでだ」

 面白がるような眼差しに飛龍は低く簡潔に答えた。

「……賢妃と呼ばれた貴女も堕ちたものだな」

 吐き捨てた紫銀を彼女は無言で見つめ、口を開いた。

「……こんなことならば、お前を見逃すのではなかった。判断を誤った。あの時、あの女を逃がさなければ。宮女を哀れまなければ……。そうしたら、お前はここにいることはなかったのに……」

 寵妃はそう静かに呟いた。

「ーー何を言っている、この期に及んで、惑わす気か?」

「慶家の坊やは、どうやら知らないと見える。教えていないのか、そなたが誰の血を引いているか?」

「……」

 沈黙を守る飛龍を彼女は鼻で笑った。
 
「……まさか、皇帝の血筋に殺されることになるとは、夢にも思わなかった」

 彼女は飛龍を睨み据えた。
 気圧された飛龍は居心地が悪そうに動きを止めた。

「っ……!」

 驚きに紫銀が息を呑んだ。
 彼女は何も嘘は言っていなかった。
 皇宮の奥深くに幽閉されていた皇子がいた。
 先帝の弟は心を病んで、閉じ込められていた。薬を飲まされ、正気を失う皇子を哀れみ慕った宮女は懐妊した。
 そして、それに気づいた夏妃はそのまま処刑されるはずだった宮女を逃がした。
 冷たく残酷な一面を持つ彼女がなぜそんなことをしたのか。
 近しい者に慕われているのは、縋りついた宮女を思い出せば容易い。
 が、皇宮の決まりを破ってまで、助けたのは、と考え、雲上は目を伏せた。
 ーー同時期に気づいたからだろう。
 腹に宿ったばかりの新しい命に。
 同じような子を思う気持ちを知ったからに他ならない。
 自身と重ねて同情したのだろう。
 雲上は俯きながら、そう思っていた。
 
「……夏家の者よ。夏家は私を見限ったか。あれほど、私の恩恵を受けながら、手のひらを返すとは、恩知らずなものだ」

 貴女が見限らせたのだろう、と喉まで出かかった言葉を雲上は飲み込んだ。

「……言いたいことはそれだけか?」

 飛龍が静かに問いかけた。

「最後の言葉でも、聞き出したいのか。そうだな……子がいたならば、私の分まで精一杯生きよ、抗い、困難に立ち向かえ、何度でも……お前を心から愛している、くらいは残すだろうが。生憎私にそんなものはいない。殺すが良い。後腐れなく、な」

「そうか……」

 その言葉と共に首が飛んだ。
 ーー呆気なく、彼女は死んだ。
 雲上はかすかに震える拳を隠していた。
 胸の内で、荒れ狂う激情に耐えていた。

「……顔色が悪いですよ……雲上殿は夏妃と面識があったのですね。心中お察しします。お気に止まないでください。これも大義のためのです。彼女の犠牲によって、国は再生するでしょう……女人が政治に関わると本当に、ろくなことがない」

 雲上の顔色を見て、李文海は指摘した後に先ほどの会話を思い出したのか、察したように慰めの言葉を口にした。
 そして温厚の彼には珍しく毒を吐いた。

「……そうだな」

 雲上はそう答えながら、胸の内を明かすことはなかった。
 ーー飛龍と雲上は共犯だ。
 いや、夏妃の手のひらの上の駒に過ぎなかった。
 飛龍は雲上のために手を汚した。
 雲上に夏妃を殺すことは出来ない、と知っているからだ。
 それでも彼はその手を止めはしなかった。迷いなく、その首を切り捨てた。
 飛龍は早くに母親を亡くし、夏妃に隠され、夏州で育てられた。
 だから、本当は雲上が物心つく頃には隣に飛龍がいた。
 それなのに些細な喧嘩で、飛龍は夏州を飛び出した。
 やっと戻ってきた、と雲上が思ったら、国を変えたい、と夏妃に迫り、どうすればいいか、と鬼気迫る様子で問いかけた。
 夏妃を母のように飛龍が思っているのを雲上は知っていた。
 そして夏妃は答えた。
 ーー自身を殺せ、と。
 そうすれば、国は変わる。
 眉一つ動かさずに夏妃は飛龍に伝えた。
 雲上は二人の会話に口を挟めなかった。
 国の未来という、前だけを見据えた二人の様子に雲上の声は届かない、と知っていた。気付いていた。
 だから、打つ手がなかった。
 そして、ここまで来てしまった。
 それがお前の実母でも、そうしたか、と雲上は本当は問いかけてしまいそうだった。
 だが、雲上は口を閉じていた。
 飛龍が何も言わずに雲上を見ていた。
 一瞬視線がかすった。
 思わず、雲上は目を逸らした。
 ーー己の感情を悟られたくなかった。
 飛龍は雲上を見たが、声をかけずに通り過ぎた。
 しばらく具合が悪い、と雲上は伝えて、その場に残っていた。
 心の踏ん切りがつくまで、目を閉じ、呼吸を整え、心を落ち着かせる。
 その努力を雲上はしていた。
 しばらくしてから、雲上は来た道を戻った。
 皇宮から出た雲上は去る時に誰かに呼ばれた気がした。
 鈴を転がすような声が雲上、と名を呼ぶのが聞こえた。

「ーー母上」

 ぽつりと零れた呟きは誰の耳にも届かない。
 後ろ髪を引かれたように、背に母を感じて雲上は振り返った。
 映ったのは、焼けて壊れた皇宮があるだけだった。
 風がさあー、と音を立てて、通り過ぎていく。
 透き通るような澄んだ濃い青空が、何も変わらずに見上げれば、そこに在る。
 ーー世界は何も変わらない。
 何が失われても。
 何も、変わりはしない。
 無性に憤りを感じて、雲上は唇を噛んでいた。
 そして踵を返し、足早に去ろうとした。
 前を向くと声が、先に聞こえた。
 
「……旦那さま。お帰りなさい」

 黄金が煌めいて、輝く。
 風に吹かれて、揺れる波打つ髪。
 濃く青い目は雲上への想いに満ちていた。
 自身しか、映していないその瞳に雲上は泣きそうになった。
 笑みを浮かべかけて、表情が崩れた。
 頬が引きつった。
 きっと泣いているように見えている。
 雲上はそう思いながら、彼女を見つめていた。
 浮かべられたその感情を、彼女はただ雲上ごと、抱き締めた。
 そんな彼女の両手から、雲上は逃れなかった。
 
「ーーお帰りなさいませ、私の愛しい旦那さま」

 そう微笑む彼女に雲上は視界が涙で、少しぼやけていた。
 雲上はその事実を隠した。
 
「……エディアナ。私は、貴女の夫になったつもりはない」

 何度目か、繰り返されたその指摘の言葉には最初ほどの拒絶の意思は込められていない。
 それに雲上は自身でも気付いていた。

「あら、そうでしたか。私はずっと貴女の妻のつもりでおりました。これからも、ずっとそれは変わりませんわ。旦那さま。私が、ずっと貴女のお側で、この命がある限り、お側に……私の愛しい旦那さま」

 風の音が絶えず、鳴り止まない。
 ーー嫉妬だ、と知っている。
 彼女は化身イレースの愛し子で、皇族の血を引いている。
 大国イレースと同じ名を持つ彼は風を操る、と有名だった。
 姿は見せないが、彼が何を考えているかは雲上は大部分は分かっていた。
 娘か、孫娘か、恋人か、どちらと思っているか、知らないが、彼女を盗られることを快く思っていなかった。
 ーー雲上はそれを分かっていた。
 母の側に纏わりつく紫の目をした黒髪の男は、あまり雲上に興味を持っているようには見えなかったが、お祖父さまか、父上と呼べ、と煩かったから。
 砂流で平民の証とされる長さの髪でありながら、態度は誰よりも尊大で傲慢な物言いと立ち居振る舞いをしていた。
 砂流で、一番偉いのは自身と思っているようだった。
 幼い頃はなんて痛い人なんだ、と雲上は思っていた。
 それが間違いだ、と後から雲上は知った。
 たまに雲上と飛龍を見に来る女性はじっと声をかけたそうに、うろちょろしては、紫の目の男に不審者か、お前は、と呆れられていた。
 その度に年頃の男の子に、どう話しかけて良いのか、分からないのよ、と赤い目に涙をためて、彼女は叫んでいた。
 
 『ーー母、いえ、姉のように慕ってくれていいのよ』

 と、ふんわりと笑う彼女を雲上は覚えていた。
 深い愛に彼女の瞳は満ちていた。
 彼、彼女らは肉親に情を抱き過ぎている。
 それは執着に見えた。
 だが、それが今の雲上には、その心が、よく分かった。
 大事な者を失った心を埋めるには希望が必要だ。
 新しい家族が欲しくなり、出来た家族は誰よりも、大事になる。
 彼、彼女らにとって、雲上は家族だった。

「ーー君には負けたよ」

 自身でも驚くほど柔らかで優しい声が、雲上の口から零れ出た。
 それは彼女の耳に届いたようだった。
 そして、満面の笑みを彼女は浮かべた。


 二人は結婚し、子が生まれた。
 その子供を化身、と呼ばれる存在がじっと見つめていた。
 父になった雲上は生まれた息子に砂流名を翡翠、と名付けた。
 母となったエディアナは、イレースの名をヴィユリオンと名付け、息子をヴィー、と愛称で呼んでいた。
 その子は母であるエディアナの面影を色濃く映していた。
 そして、その子の人生の幕が上がる。
 
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