星降る夜に

さいころ

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1890/07/07/21:30 遊馬黎明

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「「う、ゲホ、オエッ…」
 死ぬに及んで体のものは全て外に出した。嘔吐しても出てくるものは飲み込んだ大量の薬と水と、胃液。意外と楽には死ねないものだ。吐き出した分の薬をまた飲もうと、水差しに手を伸ばし、その先に立っていたその男に、ひゅ、と血の気が引く。
「黎明」
 自分の名前が嫌になるほど、呼ばれたその声。私の目の前には、あの男が、先生が立っていた。
 もうとっくに治ったはずの傷跡が疼く。焼けるような痛みを左の脇腹に感じる。
 先生は死んだのだ。これは幻覚に幻聴。薬の過剰摂取による副作用だ。
「い、いやだ、やめてくれ」
 しかし、幻だと分かっていても、植え付けられた恐怖心は拭えない。ガタガタと体が震え呼吸の仕方が分からない。目の前が真っ暗になる。この期に及んでも、この男は私を苦しめるのか。
「くるな、わたしに、触るな!」
 喉が掠れるほど叫んでも誰も助けてくれない。泣いて助けを乞う度に男は嬉しそうに笑い、私の腹の中を掻き混ぜる。かつての記憶が頭を過り、胃液しか出ない胃を搾り上げる。
 きっとこれは私への罰なのだろう。
 先生を殺し、親友には自殺の協力をさせ、自分を慕う書生には何も告げずに死のうとする。彼らに何の恩も返せず、この数年彼らの温情を貪り続けた私への、天罰なのだ。
 歩み寄る男に、私はぎゅ、と目を閉じる。待っていれば終わる。じきに薬が効いて、思考も奪われれば恐怖心だって消え去る。もう少し、耐えるだけだ。
「落ち着いてください、先生!」
 聞き慣れた声がして思わず、瞼を開いた。目の前には、息を切らして、肩で呼吸をする實くんが私を見下ろしている。
「あ、はは、おかしいなぁ、ここに、實くんがいるはずないのに…」
 これは、夢か。今、實くんは啓修のところにいるはずなのだから。しかし、夢でも最後に思い出すのが、實くんでよかった。
「先生!實です!先生!」
 實くんは私に手を伸ばし、優しく肩を揺すった。
「しっかりしてください、先生!」
 肩に触れられる感触がある。あれ、どうして。この實くんは私の作り出した幻ではないのか。惚けていると、實くんは投げ出された私の手を強く握った。幻ではない。はっきりと分かる。夏でも少し冷たい、實くんの体温。
「小生はここにいます、先生」
「…實くん?」
「はい、先生」
 いつもの返事が帰ってくる。本物の實くんがここにいる。何故、どうして。實くんは今、啓修と一緒にいるはずなのに。
「ふ、はは、何やってるんだ、實くん、啓修はどうした」
「好きにしろと仰ったので」
 喜んではいけない。なのに、私の両目からは意図せずにぼろぼろと安堵の涙が溢れる。ああ、なんて無様なのだろう。實くんに負担がかかるからなんて言って、彼のいない間に死のうとして、その時になったら幻覚に喚く。自ら實くんを離したというのに彼が来たら安堵する。なんて愚かで滑稽なのだろう。
「どうして、言ってくださらなかったのですか」
 私を咎めるわけでもなく、實くんはただ優しく、少し悲しそうに私に問いかけた。
「…啓修には、小難しいことを言ったが、君に格好つけたいだけなんだ。君に話せば、きっと無念で泣いてしまうから…」
 もう、誰かに愛されることも、愛することもないかと思っていた。1人このまま、広い屋敷で死んでいくのだと思っていた矢先に、突然啓修が連れてきた青年にこうも絆されるなんて、思ってもいなかった。いくら冷たく接しようが変わらず笑って、楽しそうに私に話しかける。酷い言葉を投げかけても、私を嫌うことなく、熱でうなされる夜には寝ずに一晩中そばにいてくれて、外に出ない私が季節を感じるようにと、花を飾ったり、風鈴を飾ったり。彼の慈愛のような優しさに触れれば触れるほど、私の冷え切ったはずの心が溶かされる。
 この胸の温もりは、愛なんかじゃない。きっと、何かの勘違いだ。私はこの感情を認められなかった。
 いや、認めなくなかった。
 怖かったのだ。實くんのことを愛していると認めてしまった途端、受け入れていた自分の死が、突然受け入れ難いものになってしまう。私の知らないところで實くんが笑っていることに耐えられない。私以外の誰かに、その笑顔を向けて欲しくない。ずっと、彼と一緒に居たい。
「君と離れたくない、ずっと側にいたいと願ってしまう。そのくらい、どうしようも無く、君が愛おしくてたまらない」
 必死に紡いだ言葉は、嗚咽のようで實くんが聞き取れていたのかは分からない。本当にみっともないなと、私は思わず下を向く。
「先生」
 實くんは私に手を伸ばし、血や胃液で汚れている私を何の躊躇いも無く抱き寄せた。
「小生も、先生をお慕いしております。先生を愛しております。先生が望むなら、いえ、望まれなくとも永遠に先生のお側に居ます」
 實くんは、いつも私の欲しい言葉をくれる。暖かいその言葉と、陽溜まりのような優しい匂いに包まれ、私を蝕んでいた恐怖心がゆっくりと解けていく。
「…ねえ實くん。自分勝手なお願いをしてもいいかな」
「先生の頼みでしたら、なんでも」
 まさか、自分からこんな言葉を告げる日が来るなんて思わなかった。もう、誰にも体を触れさせない。十年来の友人でさえも、触れられる時には体は強張り、本能的な恐怖を感じると言うのに。
「私を、抱いてくれないか」
 私の背を向く實くんが、どんな顔でこの言葉を聞いているのかはわからない。不埒な事を言い出した私を軽蔑しているだろうか。
 嫌なのならば、私を抱きしめるこの手で突き飛ばして欲しかった。しかし、實くんは、何も言わずに私を抱きしめていた。誰かに触れられるのは嫌だった。怖かった。なのに、私に触れる實くんの体温は、心地よい。背中にある實くんの手を掴む。びくりと大袈裟に驚いたその手を引き、そのまま着物の襟合わせに差し込んだ。實くんの冷たい体温が、直に伝わる。
「そのまま、触って」
「…はい、先生」
 實くんはいつものように、返事をしてくれた。震える實くんの指が私の肌をゆっくりと滑る。胸を、腹を、なぞるように、ゆっくりと撫でられ少しむず痒い。
「もう少し、下」
 臍の高さ程へと手が降りる。
 先生しか知らない。先生しか見たことのない、触れたことのないその傷跡に、實くんの手が触れた。
「先せ_」
 傷跡を確認し、何かを言いかけた實くんの頭を引き寄せ、その口に蓋をする。驚いたように瞬きをするまつ毛が触れて少し擽ったい。私の背中にあるもう片方の手が、苦しそうに着物を掴んだ。口を離すと、名残惜しそうに銀色の糸が光る。
「私の汚れた体を、君で上書きして」
 實くんの声で名前を呼んで。實くんの手で私を触って。先生なんて__皇なんて忘れてしまうほど、滅茶苦茶に犯して欲しい。
「私を君のものにして」
 實くんは、私の顎を掬いあげるように手を添える。實くんの視線が、甘く絡みつく。
「はい、先生」
 言い終わるや否や、實くんは私の唇に、そっと唇を重ねる。それは不慣れで、不器用で、驚くくらいに優しい口付けだった。
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