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第14話 応召
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「どうした、幽霊みたいな顔しやがって」
翌日――。
出社早々、渡辺に声を掛けられた。どうやら私はどんよりと暗い顔をしていたらしい。
だが、いつものように愚痴を言う気は起きない。
「例の女に取り憑かれたか?」
冗談も冗談に聞こえない。
「……まず、報告しなきゃいけないんだ」
力無く立ち上がり、社長室へ向かう。
後ろから渡辺の心配とも、悪態ともつかぬ言葉が掛けられるが、私の心には届かない。
社長に召集が来たことを、説明した。
いつも厚顔な社長が、複雑な表情で労った。
名誉の出征――。
掛ける言葉は決まり文句。
「お国のために、気をつけて働いてこい」
これ以上、職場から社員がいなくなると、まともに生産や販売が回らなくなるのは、社員全員が分かっている。町工場が大きくなった程度の会社である。
既に会社から出征し、戦地からまだ帰ってきていない同僚もいた。
気をつけて――。
お国のことだから仕方ないという諦め、それでも社員に無事に帰ってきて欲しいという本心。
入り混じる感情を、それとなく察した。
「今日は報告だけで良い。家に帰って休め。ご両親に電報も必要だろう。火曜まで出てこなくて良い。出征の準備だけはしておけ」
――後で壮行会を開いてやる。
初めて優しい言葉をかけられた気がする。
しかし、その労いの言葉も、心底には届かない。
渡辺にも一応伝えたが、社長同様、神妙な顔である。
「お前にも遂に来たか。まぁ、お互い甲種合格で、本来ならすぐ入営だったところ、ただ抽選で外れただけだったからなぁ……」
何処か遠くを見ながら、渡辺は髭を撫でる。
「もう戦時だから、抽選もない。明日は我が身だ。だから下手な言葉はかけんぞ。……気をつけてな」
これでも、優しさなのだろう。
だから、感謝の言だけ残すと、社長の言葉に甘え、早退させてもらった。
――世間様で言うところの、土曜の朝である。
今日は気色悪いほど、全てが静かだ。
街並みや風景は、いつもと変わらない。
車も、自転車も、歩く人も、――何も変わらない。
それなのに、全て遠い世界の存在のようだ。
眩しい太陽も、秋風も、全てが自分から遠く、訳隔てられた所にある。
非常時も、戦争も、仕事も。
全てモノクロームの向こう側である。
――いや、一つだけ天然色の世界がある。
今の私に残された、唯一の息づいた世界。
伝えなければならない。だが、どう伝えれば良い?
どんな言葉で、どういう気持ちで?
――あぁ、脚が重い。
こんなに『脚』という物体が、重いと感じたことはない。
中学時代の行軍百キロが、嘘のようだった。
脚も、太陽も、何もかもが疎ましい。
こんなに目の前が暗いのに、どうしてそんなに照らすんだ。
照らすは鏡――。
映し出されるのは嫌になる現実――。
その影は地面を滑り、自分の姿をさらけ出す――。
今更、考えても詮無きこと。
自嘲と苦しみに苛まれながら、重い脚を引きずり、望月書店へたどり着いた。
書店は――、今日も開いていた。
こんなに日の高い内に来るのは初めてである。
だが、新鮮さを感じ取る余裕はない。中を覗き込むと、甲斐の姿は見えなかった。
挨拶もせず、ふらふらと店内に入った。
覚束ない足取りで奥まで歩き、ちょうどカウンター横に以前座った椅子があったので、倒れるように腰掛けた。
その音で、奥にいた甲斐が、私に気づく。
甲斐はいつも通り「こんにちは」と声をかける。
「珍しいですね、こんな時間に……」
その声に反応することなく、項垂れる。
言葉が出ない――。
重苦しい溜め息が、一つ、深く。
甲斐は慌ててカウンターから回って、目の前にしゃがみ込んだ。
「新井さん……、大丈夫ですか。お顔の色が優れないようですが……」
露骨に愁色を濃くする。
虚脱し、項垂れる男を見て、何か異常な事態が起きていると悟ったのだろう。
ただ、何によってか、それは己の口から伝えなければならない。
「甲斐さん……」
声調は、底なし沼の泥濘に沈んでいくように、低い。
――近々召集される。
召集されるのは二週間後。
入隊検査の後、問題がなければ即入営となる。
人にもよるが――、平時であれば、軍隊とは快適な生活と同義である。
外で戦って死ぬこともなく、三度の飯にありつけ、丁稚奉公や農作業、重労働の工場勤務に就かなくて済む。
貧しい農村部や下層労働者からすれば、平時の軍隊は快適な上に誉れも得られる。まさしく祝福である。
しかし、現在は『戦時』、『非常時』である。
長男だろうと、ある程度身体に問題があろうと、問答無用で入隊となる。即前線へ送られる。
その恐怖が、眼前に迫る――。
徴兵逃れも出来ないことではない。
検査前に、煙草を大量に吸って肺炎に見せかけるか、自分で腕や脚を折っても良い。そう言う話はちらほら聞く。
ただ、自分から試す気は起きなかった。
試したところで、徴兵担当官である、医者のお心一つで決まる。
どれだけ自分を傷つけようと、取られる時は取られるのだ。
――これから、しなければならないことは多い。
親への電報、会社の引き継ぎ、借家の引き払い。本籍地も移さなくては。
――いや、そんな些末なことはどうでも良い。
甲斐に会えなくなる――。
甲斐を残して、謎を残して、大陸に征くのだ。
輸送船に揺られてゲロを吐き、見果てぬ地平線まで行軍を続ける。
見渡す限りの麦畑、緑色の山々、赤土と砂埃。
そして敵兵の殺意――。
きっと、愛くるしい姑娘達を見ることなく、彼女たちの黄色い声を聞く暇なく、武運拙く、銃弾や病に倒れるのだ。
大陸の何処で闘おうと、生き残るか死ぬかも分からない。何年戦争が続くかも分からない。
それどころか、もし、あの記事のような終わりだとしたら――。
会えないのは数年か、一生か。
また彼女を、独りにしてしまうのか――。
怒りの声も、嘆きの声も出ない。
ただ独り、泣いていたかった。
「連れて行かないでくれ……。頼む……」
誰に宛てる訳でもない、空虚な言葉。
焦心する甲斐が見える。
どんな言葉を掛けて良いのか、懊悩しているのだろう。
「新井さん……」
――沈黙。
恐ろしく長い、沈黙。
秋風が爽やかに吹き、窓から暖かい日の光が、壁の本棚や新聞を照らしている。
あまりにも静かな、安らかな平穏な中で、ただただ息の詰まる沈黙が、――じっと横たわっている。
何処まで続く沈黙か解らぬまま、深く息を吐いた、その時だった。
「――お邪魔します」
突然、玄関の方から声が聞こえた。
聞いたことのある声だった。
ぼんやりと顔を上げ、甲斐は敏速に振り向いた。
「おや、また会いましたね」
店を訪れたのは、昨晩会ったサトウだった。
――心底どうでも良い人物である。
常連客が来たところで、元気に振る舞う気力など、何処にもない。
それに居丈高に評されたのだ。益々どうでも良かった。
「……何かありましたか」
近づきながら甲斐に問う。
甲斐は、しばらく何も答えなかった。
名誉ある出征です――、と答えるのが正しい国民の姿。
しかし、甲斐は悩んでくれた。
項垂れていても、僅かに心に明かりが差した。
力無く甲斐を見上げる。
懊悩――。
眉間に皺を寄せ、苦しんでいる。
私はどうして、彼女を悩ませているのだろう――?
募る罪悪感に、苦虫を噛み潰したようになる。
しかし、甲斐の懊悩は短かった。
「サトウさん、……お話があります」
甲斐は意を決したかのような、強い口調で言った。
「なんでしょうか」
サトウは、相変わらず口角水平のままである。
その問いに対して答える前に、甲斐はこちらを一瞥する。
「新井さん……。申し訳ありませんが、今日はお引き取り願いますか」
――思いがけない言葉。凜として通る声である。
思わず甲斐を見つめた。甲斐は瞬時、逡巡したように見えたが、短く目を瞑り、迷いを振り切るように言葉を続けた。
「ごめんなさい……。でもまた近々に来てください。必ず。必ず来てください」
その言葉に、敵意や誹りは、微塵もない。
ただ、何故追い出されなければならないのか、皆目見当が付かなかった。
甲斐は、力無くだれていた私の手を、力強く握りしめ、強引に引っ張って立ち上がるよう催促した。
――初めての触れあい。
それは力強く、粗暴な温もり。
まるで操り人形のように、甲斐の手に引かれて立ち上がると、甲斐がするりと背中に回り、強く押して退店を促した。
訳が分からず混乱していると、甲斐が耳元で呟いた。
「……貴男を守るためなんです」
――艶やかな、吐息のような囁き。
為す術なく、追い出される。
店の外で振り返ると、店の奥で何か話をしている。それだけは分かったが、立ち聞きする気も起きなかった。
――一体、なんであろうか。
甲斐が、あれだけ強引に手を引っ張ることなど、未だかつてなかった。あんな振る舞い自体が、いつもの甲斐とは違う。
――囁かれた、『守る』という言葉。
思考が緩慢になっている――。
甲斐の言葉は、やけにはっきり記憶に残るのだが、それが何のことを意味するのか、考えることはやめた。
――只管に疲れた。
取り敢えず、床に着きたい。
まだ朝である。日はまだこれから高くなるという時であるのに、さっさと臥所に倒れ込みたかった。
――もう、どうでもいい。
借家に着くと、朝から敷きっぱなしの布団に、倒れ込んだ。
そこには、誰の温もりもない。己の輻射熱が、僅かに感じられるばかりである。
――考えるのも、疲れた。
今日はもう布団から出ないで、泥のように眠ろう。
一時でも良いから、この暗鬱な思案と、逼塞な現状から逃れたい。
睡魔は、願いに応えるように、すぐにやってきた。
意識が深く沈潜していく中、耳元に残る囁きだけが、心を擽った。
翌日――。
出社早々、渡辺に声を掛けられた。どうやら私はどんよりと暗い顔をしていたらしい。
だが、いつものように愚痴を言う気は起きない。
「例の女に取り憑かれたか?」
冗談も冗談に聞こえない。
「……まず、報告しなきゃいけないんだ」
力無く立ち上がり、社長室へ向かう。
後ろから渡辺の心配とも、悪態ともつかぬ言葉が掛けられるが、私の心には届かない。
社長に召集が来たことを、説明した。
いつも厚顔な社長が、複雑な表情で労った。
名誉の出征――。
掛ける言葉は決まり文句。
「お国のために、気をつけて働いてこい」
これ以上、職場から社員がいなくなると、まともに生産や販売が回らなくなるのは、社員全員が分かっている。町工場が大きくなった程度の会社である。
既に会社から出征し、戦地からまだ帰ってきていない同僚もいた。
気をつけて――。
お国のことだから仕方ないという諦め、それでも社員に無事に帰ってきて欲しいという本心。
入り混じる感情を、それとなく察した。
「今日は報告だけで良い。家に帰って休め。ご両親に電報も必要だろう。火曜まで出てこなくて良い。出征の準備だけはしておけ」
――後で壮行会を開いてやる。
初めて優しい言葉をかけられた気がする。
しかし、その労いの言葉も、心底には届かない。
渡辺にも一応伝えたが、社長同様、神妙な顔である。
「お前にも遂に来たか。まぁ、お互い甲種合格で、本来ならすぐ入営だったところ、ただ抽選で外れただけだったからなぁ……」
何処か遠くを見ながら、渡辺は髭を撫でる。
「もう戦時だから、抽選もない。明日は我が身だ。だから下手な言葉はかけんぞ。……気をつけてな」
これでも、優しさなのだろう。
だから、感謝の言だけ残すと、社長の言葉に甘え、早退させてもらった。
――世間様で言うところの、土曜の朝である。
今日は気色悪いほど、全てが静かだ。
街並みや風景は、いつもと変わらない。
車も、自転車も、歩く人も、――何も変わらない。
それなのに、全て遠い世界の存在のようだ。
眩しい太陽も、秋風も、全てが自分から遠く、訳隔てられた所にある。
非常時も、戦争も、仕事も。
全てモノクロームの向こう側である。
――いや、一つだけ天然色の世界がある。
今の私に残された、唯一の息づいた世界。
伝えなければならない。だが、どう伝えれば良い?
どんな言葉で、どういう気持ちで?
――あぁ、脚が重い。
こんなに『脚』という物体が、重いと感じたことはない。
中学時代の行軍百キロが、嘘のようだった。
脚も、太陽も、何もかもが疎ましい。
こんなに目の前が暗いのに、どうしてそんなに照らすんだ。
照らすは鏡――。
映し出されるのは嫌になる現実――。
その影は地面を滑り、自分の姿をさらけ出す――。
今更、考えても詮無きこと。
自嘲と苦しみに苛まれながら、重い脚を引きずり、望月書店へたどり着いた。
書店は――、今日も開いていた。
こんなに日の高い内に来るのは初めてである。
だが、新鮮さを感じ取る余裕はない。中を覗き込むと、甲斐の姿は見えなかった。
挨拶もせず、ふらふらと店内に入った。
覚束ない足取りで奥まで歩き、ちょうどカウンター横に以前座った椅子があったので、倒れるように腰掛けた。
その音で、奥にいた甲斐が、私に気づく。
甲斐はいつも通り「こんにちは」と声をかける。
「珍しいですね、こんな時間に……」
その声に反応することなく、項垂れる。
言葉が出ない――。
重苦しい溜め息が、一つ、深く。
甲斐は慌ててカウンターから回って、目の前にしゃがみ込んだ。
「新井さん……、大丈夫ですか。お顔の色が優れないようですが……」
露骨に愁色を濃くする。
虚脱し、項垂れる男を見て、何か異常な事態が起きていると悟ったのだろう。
ただ、何によってか、それは己の口から伝えなければならない。
「甲斐さん……」
声調は、底なし沼の泥濘に沈んでいくように、低い。
――近々召集される。
召集されるのは二週間後。
入隊検査の後、問題がなければ即入営となる。
人にもよるが――、平時であれば、軍隊とは快適な生活と同義である。
外で戦って死ぬこともなく、三度の飯にありつけ、丁稚奉公や農作業、重労働の工場勤務に就かなくて済む。
貧しい農村部や下層労働者からすれば、平時の軍隊は快適な上に誉れも得られる。まさしく祝福である。
しかし、現在は『戦時』、『非常時』である。
長男だろうと、ある程度身体に問題があろうと、問答無用で入隊となる。即前線へ送られる。
その恐怖が、眼前に迫る――。
徴兵逃れも出来ないことではない。
検査前に、煙草を大量に吸って肺炎に見せかけるか、自分で腕や脚を折っても良い。そう言う話はちらほら聞く。
ただ、自分から試す気は起きなかった。
試したところで、徴兵担当官である、医者のお心一つで決まる。
どれだけ自分を傷つけようと、取られる時は取られるのだ。
――これから、しなければならないことは多い。
親への電報、会社の引き継ぎ、借家の引き払い。本籍地も移さなくては。
――いや、そんな些末なことはどうでも良い。
甲斐に会えなくなる――。
甲斐を残して、謎を残して、大陸に征くのだ。
輸送船に揺られてゲロを吐き、見果てぬ地平線まで行軍を続ける。
見渡す限りの麦畑、緑色の山々、赤土と砂埃。
そして敵兵の殺意――。
きっと、愛くるしい姑娘達を見ることなく、彼女たちの黄色い声を聞く暇なく、武運拙く、銃弾や病に倒れるのだ。
大陸の何処で闘おうと、生き残るか死ぬかも分からない。何年戦争が続くかも分からない。
それどころか、もし、あの記事のような終わりだとしたら――。
会えないのは数年か、一生か。
また彼女を、独りにしてしまうのか――。
怒りの声も、嘆きの声も出ない。
ただ独り、泣いていたかった。
「連れて行かないでくれ……。頼む……」
誰に宛てる訳でもない、空虚な言葉。
焦心する甲斐が見える。
どんな言葉を掛けて良いのか、懊悩しているのだろう。
「新井さん……」
――沈黙。
恐ろしく長い、沈黙。
秋風が爽やかに吹き、窓から暖かい日の光が、壁の本棚や新聞を照らしている。
あまりにも静かな、安らかな平穏な中で、ただただ息の詰まる沈黙が、――じっと横たわっている。
何処まで続く沈黙か解らぬまま、深く息を吐いた、その時だった。
「――お邪魔します」
突然、玄関の方から声が聞こえた。
聞いたことのある声だった。
ぼんやりと顔を上げ、甲斐は敏速に振り向いた。
「おや、また会いましたね」
店を訪れたのは、昨晩会ったサトウだった。
――心底どうでも良い人物である。
常連客が来たところで、元気に振る舞う気力など、何処にもない。
それに居丈高に評されたのだ。益々どうでも良かった。
「……何かありましたか」
近づきながら甲斐に問う。
甲斐は、しばらく何も答えなかった。
名誉ある出征です――、と答えるのが正しい国民の姿。
しかし、甲斐は悩んでくれた。
項垂れていても、僅かに心に明かりが差した。
力無く甲斐を見上げる。
懊悩――。
眉間に皺を寄せ、苦しんでいる。
私はどうして、彼女を悩ませているのだろう――?
募る罪悪感に、苦虫を噛み潰したようになる。
しかし、甲斐の懊悩は短かった。
「サトウさん、……お話があります」
甲斐は意を決したかのような、強い口調で言った。
「なんでしょうか」
サトウは、相変わらず口角水平のままである。
その問いに対して答える前に、甲斐はこちらを一瞥する。
「新井さん……。申し訳ありませんが、今日はお引き取り願いますか」
――思いがけない言葉。凜として通る声である。
思わず甲斐を見つめた。甲斐は瞬時、逡巡したように見えたが、短く目を瞑り、迷いを振り切るように言葉を続けた。
「ごめんなさい……。でもまた近々に来てください。必ず。必ず来てください」
その言葉に、敵意や誹りは、微塵もない。
ただ、何故追い出されなければならないのか、皆目見当が付かなかった。
甲斐は、力無くだれていた私の手を、力強く握りしめ、強引に引っ張って立ち上がるよう催促した。
――初めての触れあい。
それは力強く、粗暴な温もり。
まるで操り人形のように、甲斐の手に引かれて立ち上がると、甲斐がするりと背中に回り、強く押して退店を促した。
訳が分からず混乱していると、甲斐が耳元で呟いた。
「……貴男を守るためなんです」
――艶やかな、吐息のような囁き。
為す術なく、追い出される。
店の外で振り返ると、店の奥で何か話をしている。それだけは分かったが、立ち聞きする気も起きなかった。
――一体、なんであろうか。
甲斐が、あれだけ強引に手を引っ張ることなど、未だかつてなかった。あんな振る舞い自体が、いつもの甲斐とは違う。
――囁かれた、『守る』という言葉。
思考が緩慢になっている――。
甲斐の言葉は、やけにはっきり記憶に残るのだが、それが何のことを意味するのか、考えることはやめた。
――只管に疲れた。
取り敢えず、床に着きたい。
まだ朝である。日はまだこれから高くなるという時であるのに、さっさと臥所に倒れ込みたかった。
――もう、どうでもいい。
借家に着くと、朝から敷きっぱなしの布団に、倒れ込んだ。
そこには、誰の温もりもない。己の輻射熱が、僅かに感じられるばかりである。
――考えるのも、疲れた。
今日はもう布団から出ないで、泥のように眠ろう。
一時でも良いから、この暗鬱な思案と、逼塞な現状から逃れたい。
睡魔は、願いに応えるように、すぐにやってきた。
意識が深く沈潜していく中、耳元に残る囁きだけが、心を擽った。
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