ディバイン・インキュベーター1946~東京天魔揺籃記~

月見里清流

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第1章 戦争は終わったけれど

3-2 Combat(馬腹)――多摩川近辺

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『あ……』
 銃口の向こう――、その先にはいた。
 眼だ、――。


 嗚呼、この恐怖は戦場のそれじゃない。
 私が見てしまった、だ!


『ウ、ウラベさん! 逃げてッ……!』
 キャサリンの叫び声が頭に木霊する中、怪異から目を逸らせなかった。


 ――体躯は牛より大きく、虎のようなくすんだ黄色と黒のまだら模様の毛皮。尻尾が触手のように虚空をうねり、鋭い爪が枯れ葉だらけの地面をえぐりながら、ゆっくりとこっちに近づいてくる――。


 風も光も歪み、ドス黒い瘴気のような黒靄を体中にまとう。
 異彩を放つ――人面のような顔。突き出た鼻梁はなすじ、張ったえら、長く突き出た二本の牙。人間のようで、人間でない、顔。


 ――何よりも、、である。
 白目は無く、漆黒の中に、――。


 こんな、生き物が、この世にいる訳がない。
 そうだ、これは怪異、――化け物だ。



『――
 突然頭の中に響き渡る。
 私の声ではない。隊長達の声でもない。男のような、女のような、形容しがたい、――声。


『そのかたちは人面の如くで虎のからだ、声はえいのよう』
『これは人を喰う』
『名を――』


馬腹マーフー
 赤黒い歯茎を覗かせて、――ニタリと笑った。


「『う、うあぁぁぁッ!』」
 ビリビリと総毛立ち、胃が猛烈な勢いで縮み、身体が勝手にわなわなと震えだした。私は怖気おぞけを振り払うように、一心不乱に撃鉄トリガーを引いた!
 昔、鹵獲品の機関銃ベ式短機関銃を撃った事があったから、射撃の勝手は知っているつもりだった。しかし過去の経験など、眼前の恐怖の前には何の役にも立たない。


 受話器を放り投げ、こしめで撃つ――!
 消音された銃声が、バタバタバタと響き渡る。弾丸が敵怪異の皮膚に着弾し、通常弾頭では見られない、白く輝く片鱗――煌めく鱗粉のような光の光環クラウンが、怪異の身体の彼方此方で形成さる。
 しかし、確実な着弾を視認できても、少し怯むだけで歩みを止めない――。


『ウラベッ! 逃げろ!』
 隊長の怒号。しかしされて良く聞こえない。きっと逃げろと言われたのに、指も身体も硬直したままだ。
 突然、ガチン――と、ボルトが止まった。
 消音器から硝煙ガンスモークだけが、ゆらりと吐き出される。


 ――弾切れ。
 怪異は私の様子を楽しんでいるのか、またニタリと笑うと、猫のように身を捩らせた。


 刹那。
 バネ仕掛けの玩具が弾けるように、怪異は猛烈な勢いで跳ね上がった。
 牛より大きい体躯の弾丸。
 鋭い爪が、牙が向かう先は、私――。


 咄嗟にジープの後ろに下がったが、轟音と共に賽子サイコロのようにジープは横転し、フロント硝子ガラスが爆発したように砕け散る!
 砲弾の炸裂が如く。
 強烈な衝撃と轟音である。私は玩具のように吹き飛ばされ、無様に地面に叩け付けられた。同時に、腕、背中、膝など、まさしく全身に激痛が走る。


「ぐっ……! はぁ……」
 情けない声。気が滅入る。
 上体を起こそうにも、腕も足も上手く力が入らない。怪異が僅か1メートル程先で、牙を剥き出しにして首を擡げている光景に、全身の毛は逆立ち、冷たい汗が勢いよく噴き出た。
 激しい動悸――。
 呼吸が大きく乱れ、猛烈な眩暈が襲う。


 もう、諦めるしかないのか――。
 身体が、意識が、諦観の至りに達しようとしているのが分かった。
 しかし、私の『感情』は全く異なる点に集中していた。


 ――怪異の眼。


 そうだ――、巫山戯ふざけるな!


 いつも怯えていた、その眼に!
 大陸で見てしまった、無数の眼に!

 何故こんなに苦しまなければならない!
 家族も失い、国を失い、怪異に怯える――。


 もう沢山だ!
 このまま殺されるくらいなら――。





「『』」





 自分の声と、誰とも知れぬ声が、分かちがたく重なり、言葉となって溢れ出る。
 恐怖はなく、絶望もない。
 唯在るのは、怨嗟とという欲望。視線を逸らさず、怪異の顔を見つめる。
 死ね、果てろ、と眼に力を入れる。
 すると――、俄に異変が起きた。


 眼前に牙を剥いて迫っていた怪異が、にわかに困惑の表情を浮かべたのである。
 しかめる眉、虚ろに泳ぐ瞳、震え出す顎――。弱々しい足取りで、あと退ずさり、見た目にも苦しみだしたのだ。
 弱々しい声、――まさしく嬰児の如く。漏れた口は、吐き気に苦しんでいるのか、唾液をだらだらと垂らしている。うごめき、うねり、狂う――。


『苦しめ、……苦しめ!』
 叫ぶように、怨嗟を心の中で唱える。敵怪異は、見る見るうちに覇気を無くしてゆく。黒い瘴気も、空気のよどみも、雲散霧消し、残るはその寂しげな体躯のみ。


「『おおおおおッ――!』」
 雄叫びが、再度響き渡る。
 クラウディア――!


 いつの間に接近していたのだろう。古ぼけた道端の岩場から高々と飛び上がり、敵怪異に向かって急転直下に飛びかかる。
 夕闇空に舞う、濃い国防色オリーブドラブのコート――。
 その手先には、鋭利な刺突用短剣。
 名前も知らぬ東洋的オリエンタル異国的エキゾチツクな短剣が、クラウディアの全重力を乗せて、怪異の首筋に深々と突き刺さった――!


「ガァァァァッッ!」
 辺りに響き渡る、肉を抉り、骨を砕くような鈍い音の後――、怪異が耳を劈く、山鳴りのような叫び声を上げる。
 僅かに苦しむ動きは数瞬の抵抗。即座にクラウディアを振り落とそうとしたのだろうが、怪異は虚しく倒れ込み、膝をつく。


 ――あっという間だった。
 巨大な体躯は地面に横たわり、僅かな痙攣の後――ついには動かなくなった。
 頬をさらう寒風が一瞬の静寂を纏う。横たわる怪異を茫然と見つめていると、怪異の身体中、至る所から黒い瘴気がぶすぶすと吹き出し始めた。


 この間、僅か数秒。
 瘴気の抜けた怪異は漆黒の塵の山と成り、師走の寒風に運ばれ、天に地に帰った――。


『終わっ、た――?』
 目の前の現実を理解するために、呟いた。
 怪異は苦闘の末、塵と消え去り、私は生きている。
 私は生きているのだ――!


 怪異の消えた場所から目を逸らせず、一人息を整える。すると、視線の端でクラウディアの脚がツカツカと近づいてくるのが見えた。


『クラウディア――』
 笑顔で安堵の声を漏らし、怪異の跡から視線をクラウディアに移した。


 しかし、私の目に見えたのは、クラウディアの姿だった。


 次の瞬間、ガンッ――と頭に激しい痛みと、星が瞬くような衝撃が私を襲った。
 ほんの一瞬で気が遠くなる。


『悪いな、もう少し寝ててくれ』
 申し訳なさそうな彼女の声が微かに聞こえたが、私の思考は意を形成する間もなく、闇に落ちていった――。

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