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どうしても守りたかった

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 十羽の目の前に、常世の苦痛に歪んだ顔がある。男は十羽が自分で命を断てば常世を助けると言った。十羽はこれまでの自分の人生を思い返してみる。これといって幸せだったと思えるような記憶がない。
 もしもあると言うのならば、常世に助けられたことだろうか。新選組として、とっくに死んでいてもおかしくはなかったこの命は、市村鉄之助に扮した常世という男が生かしてくれたもの。
 あのとき自分が常世を追いかけてしまったばかりに、彼をこんな事件に巻き込んでしまった。後悔ばかりが十羽を包み込む。

(ぜんぶ、私のせい)

 ならば常世を助けるためにこの命、差し出さぬわけにはいかない。
 十羽は両膝をついて男を見上げた。

「ご覧の通りわたしは丸腰です。死のうにも死ねません。あなたの刀を一本お貸しください」
「十羽! やめろ!」

 常世が叫ぶと、煩いとばかりに男は常世をさらに強く踏みつけた。嫌な音がした。

「ぐっ! うああっ」
「小僧は黙っていろいろ」

 肩の骨が外れた音だったのだろうか。常世は地面に顔を押し当て悶えた。男が掴んでいた常世の腕は、変な方向に曲がっている。

「そうだな。この刀なら貸してやる。短いからお前でも扱えるだろうよ」

 そう言うと男は、常世の腰に差してあった短刀を慣れた手で抜き、十羽の前に投げ落とした。真っ暗だと言うのに、男が笑ったのが見えた。

「喉を刺すか、心臓を刺すかおまえの好きにしろ。躊躇うなよ。躊躇えばそれだけ苦しみが長引くだけだからよ」
「ああっ、や、やめっ……ろ。十羽、簡単に命をっ、投げ出すな……」
「口の減らねえ餓鬼が!」
「おやめください! もう、その方を傷つけないで、お願いします」

 十羽は短刀を拾い上げた。そして、切先を自分に向ける。どこを刺せば確実に死ねるのか、十羽は刃先を見て考えていた。すると突然、読めなくなっていたはずの、心の声が聴こえてきた。

(ふん、馬鹿な女だ。俺がはいどうぞと小僧を離してやると、本当に思っているのかよ。親が親なら、子も子だな。考えただけで、馬鹿すぎて胸糞が悪いぜ)

 十羽は短刀を自分に向けたまま唇を噛んだ。男は結局、十羽が自ら命を断っても常世を生かしはしないのだ。なんの関係もない常世を男は躊躇いなく手にかける。それでは死ぬ意味がないではないか。

「あの、死ねないと言ったら、あなたはどうしますか」
「なんだって? だったら俺がこの手で殺すまでだ」
「では、あなたのその汚れた手で殺してください。父と母を殺したのと同じように」
「ほう……なにを企んでいやがる。まさか、相討ちを狙っているのか。ぐははは! 馬鹿め。おまえには指一本だってこの俺に触れることはかなわぬ。あの世でも寂しくないように、この小僧も送ってやるんだ。ありがたく思え」
「やはり! あなたは初めから常世殿も殺すつもりだったのですね!」
「ふんっ」

 十羽の化粧を施された美しい顔が怒りで歪む。それを見た男は口角を吊り上げて笑った。

「ほほぅ。美人が怒ると、たまんねえな。おまえは良い銭になると思ったのにこれだ。この男にも責任というやつをとらせるつもりでいたのさ。さあて、気が変わった。ただ殺すのももったいない話だ。ここまで作り上げたんだからな。楽しませてもらおうじゃないか」
「どういう意味でしょうか」

 すると、男は踏みつけていた常世を足蹴にして十羽の目の前に屈んだ。その速さといったら瞬きをする間もないくらいであった。
 常世は離れたところに蹲ったままで、唸り声すら聞こえない。男は十羽の顎を指先で持ち上げた。

「ひっ」

 たった一本の指。されど、十羽の体は金縛りにあったようにピクリとも動かない。

「俺はかなり上手いらしいぞ」

 男はなにを言いたいのか、十羽には理解できなかった。不敵な笑みがだんだんと近づく。

「俺の子を産め。そうしたらそれまでは生かしておいてやる」

 十羽の背中に憎悪が走る。とっさに地面の砂を握りしめ、男の顔に投げた。

 ―― パンッ

 気がつくと十羽は砂利の上に倒れていた。右の頬が熱く咄嗟に手のひらを当てた。男から叩かれたのだ。やはりこの男、只者ではない。あまりにも動きが速すぎて話にならない。

「はははっ。悪くねぇ。抵抗された方が燃えるってやつよ。ようし、あの小僧の前でおまえを抱いてやろう。最高に気持ちよくしてやる」
「いや!」

 十羽の抵抗も虚しくあっという間に河原に組み敷かれた。幾重にも重ねた着物が、乱されていく。

「おおっと、舌を噛み切るんじゃねえぞ」

 男は十羽の口に解いた腰紐を当て、素早く後ろで結んだ。言葉はおろか、声もまともに発することができない。焦る十羽はただ、砂利を蹴ることしかできない。

(いや、こんなことなら死んだ方がまし。死なせて、お願い。殺して、ひと思いに!)

「さあ、足を開け。お十羽さんよ!」
「んんんー」

 新選組に絡まれた時よりも恐怖が強かった。なぜならば、好きで好きでたまらない常世の前で肌を晒されているからだ。屈辱という言葉では到底収められないほどのものだった。



 ◇



 そのとき、


「地獄に、堕ちろ」

 地獄からの使者のような低い声が十羽の耳に届いた。その瞬間、十羽に被さっていた男が呻き声をあげその身を翻して十羽から距離をとった。

「ぬおぉぉ――」

 十羽は男の叫び声を聞きながら、乱れた服を素早く整え口に巻かれた紐を解いた。
 何がいったい起きたのか。
 男は肩を押さえながら、はぁはぁと息を整えている。十羽は起き上がり手をついて後ずさった、その時に触れてしまう。硬くて太く、ほんの少し温かい塊に。

(これは、なに)

 持ち上げて気づく、それはあの男の腕だということに。

「きゃああっ」

 恐ろしくなって放り投げると、男がそれを奪いにきて離れたそれを無理やりつける。ダラダラと水が漏れるように滴り落ちるのは血であろう。

「小僧、おまえ!」

 十羽の前に影が立つ。
 先ほどまで男にいたぶられていた常世が、刀を片手に立っていたのだ。

「常世、どのっ」
「俺が不甲斐ないせいですまない。すぐに終わらせるから、少し下がっていて欲しい」

 黒い装束を着た二人の男が対峙している。知らぬ者が見れば、忍び同士の争いに見えるだろう。

「黒川田蔵。おまえがしたことはこの明治の世では罪となる」
「小僧に疾風の術が使えるとは思わなかったな。肩の骨も自分で継いだか。しかし、その術を誰に教わった。まさか忍びの者ではあるまい。俺たちのそれとは違う」
「誰がおまえに話すかよ。ここで終わりだ。十羽から手を引け」
「くっくっくっ……そうか。そんなに惚れているのか、あの女に。俺から犯されるのが我慢ならなかったか」
「これ以上、あの子を傷つけるな。十羽には十羽の、人生がある!」

 常世は刀を構えて今にも黒川に飛びかかりそうだ。相手は痛手を負っているとはいえ、簡単ではない。二人がやり合うとなると、ただではすまい。
 十羽にも分かる。どちらかが死ぬまで、それは終わらない。

「死ね!」

 刃と刃が重なり火花が散った。もう二人を止めることはできないのか。

「お願い! やめて!」

 十羽が止めに入ろうと立ち上がり、砂利を蹴ろうとしたとき、黒い影が二つ立ちはだかった。

(誰! 敵か味方か分からないけれど、常世殿だけは死なせたくない)

「おいおいおい、ちょっと目を離したらこれだ。殺してねえだけましか? お十羽ちゃんを泣かせやがってまったく」

 聞いたことのある声だ。たしか、十羽をここまで逃がしてくれた大柄の男。

「黒川自ら動くとは計算違いであったな。永倉、黒川の方を頼めるか」
「おう。任せとけ。かなり深傷ふかでを負わされてるみたいだが、死にはしねえだろこいつ黒川なら。それより藤田、そっちの方が宥めるの大変そうだぞ」
「まあ、やってみるしかないだろう」

 もう一人の男も背が高いが、永倉と呼ばれた男よりも小さい。

(あの大きな人は永倉というのね)

 永倉は肩から縄を下ろして、黒川に近づき縄を投げた。黒川はほとんど無抵抗で縄にかかる。落とされた腕からの出血が酷く、立っているだけがやっとだったのかもしれない。立っているだけとはいえ、普通の人間ならば気絶していてもおかしくない。

 黒川が縄にかかったのを認めた藤田は、常世に近づきそっと肩に手を置いた。常世は反射的に藤田の手を払い刀を構え直す。

「もう終わった。あとは警察が引き取る。おまえはあの女を……おいっ。まさか」
「おい、どうした藤田」
「こ、こいつ……気絶している」
「はっ、なに寝ぼけたことを言ってやがる。さすがにそれは……嘘だろ」

 なんと常世は刀を構えたまま気を失っていたのだ。それを聞いた十羽は常世のそばに駆け寄った。常世の顔を両手で挟んで声を大にして叫ぶ。

「常世殿! 起きて、お願い! もう、終わったの。黒川は捕まった。わたしも生きています!」
「と、わ」
「常世殿!」

 十羽の声が常世に届いたのか、その体から力が抜け落ち、十羽の体に被さるように倒れた。十羽は常世の体を膝をつきながらもしっかりと抱きとめた。同時に、十羽の目からたくさんの涙が溢れ出る。
 常世は自分も傷を負いながら、十羽を助けたいがために瞬間的に移動できる疾風の術を使い、庇うように前に立った。それが常世にできる精一杯の行動だった。本当は指一本とて動かすことは難儀であったろうに。
 そこまでして常世は十羽を守りたかったのだ。

「あなたという人は、どうしてですか。こんなにぼろぼろになっているのに、わたしなんかのためにっ。うっ、うう……うああん、うああん」

 十羽の子供のような泣き声が、川のせせらぎを掻き消して、夜の町吉原に響く。

 あまりにも悲しそうに泣くので、藤田も永倉もしばらくは声をかけられなかった。
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