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さらば、妹よ

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 まさか土方が一人で五稜郭に現れるとは思わなかった。
 人の話では、自分の小姓は船で逃したと言う。
 それを聞いて俺は少し安堵した。この戦場から妹の常葉ときわが離れたということだからだ。
 そして土方は、最後の戦いに挑むと一人で弁天台場に向かった。そのとき俺は、土方は新選組として死ぬのだなと思った。
 しかし、しばらくしてもっと驚いた事があった。
 それはその逃げたはずの小姓である妹の常葉が、大鳥と一緒に現れたことだ。

 そして、土方の後を追った。
 常葉は土方の言い付けを破っていた。


 ◆


「困ったやつだ……こんな時にまで兄の寿命を縮めるつもりか。だから言ったんだよ。お前は詰めが甘いのだと」

 常葉は弁天台場への途中、土方が撃たれたのを見て、血相を変えて駆け寄った。まだ銃弾や大砲が鳴り響く中、常葉の目には土方しか見えていなかった。
 そして、一人では逝かせないと自らの胸に刀を突きつけた。
 どれほど俺は焦ったと思う。
 取り返しのつかないことだけは、なんとしても避けたかった。
 だけど、それを阻止したのは俺じゃなかった。

「こんな奴のために、おまえは何をやっているんだ。莫迦だな。自分の命までも断とうなんて、もっと他に手段はあっただろ」

 土方歳三のなにがいい。小姓なんて時代遅れだというのに、この莫迦な妹はあいつに命をかけた。

 それも小姓としてではなく、女として!

「本当にっ、莫迦な妹だよ!」
「イッ……っああっ。痛い!」
「常葉! 気がついたかっ、常葉!」
「……えっ」
常世とこよ、兄様。なぜ……はっ、ここは! ううっ、ああっ」
「動くな。傷が広がる」
「私は死んでないのですか。どうして生きているの。土方さんは! 土方さんはっ。私はあの人を独りで逝かせてしまったのね……どう、して」

 常葉は自分が生きていることが受け入れられないようだった。銃に撃たれた土方と共に、死んだつもりだったんだろう。

「土方さん……ひじっ、かた……さん」

 自分だけ生き残ったことが悲しいと、常葉は泣いた。その泣き顔を見ると、俺まで泣きたくなる。俺がついていながら、妹にこんな苦しみを与えてしまうなんて兄失格だ。

「常葉。おまえはもう十分にやったよ。もういいじゃないか。故郷くにへ帰ろう。ここは俺たちには寒すぎる」

 南の国で育った俺たちには、この蝦夷の地はこたえる。しかし、常葉は目を伏せながら首を横に振った。

「私は帰りません。ここで、このまま敵の手に落ちます。常世兄様はあちら新政府軍の人間でしょう。どうぞ突き出してください。私は新選組の人間として、市村鉄之助として降伏します」
「おまえ、本当に新選組の人間として捕まるつもりか。新選組は今や明治政府にとって、罪人以外の何者でもない。そのまま斬首刑だってありえるんだぞ」

 世の中はおまえが思っているほど甘くはない。市村鉄之助として降伏すれば、土方に近い人間だと酷い目にあうだろう。それに、すぐに女だと見破られる。斬首で済むならまだましだ。

 でも、そんなことは俺がさせない! 俺がおまえを守ってやる!

「それで、いいです」

 しかし、常葉は俺に虚な目を向けてそういった。それを聞いて俺は腹の底から怒りが込み上げた。

「本当に! おまえはっ……。くそったれ! なにが新選組だ。なにが土方だ! あんな男、さっさとこの手で息の根を止めてしまえばよかったんだ!」
「兄様、何を言って……」

 俺は初めてこんな酷いことを言った。しかしこの怒りは常葉に向けているのではない。俺自身に怒っているんだ。

 俺は唇を噛み締めたまま暗闇の奥を指さした。常葉はつられてゆっくりと指した方を見る。暗い穴蔵の奥に大きな塊が浮かび上がっているが、常葉には見えないのか首を傾げたままだ。
 俺は手元の蝋燭をそこに向けた。

「おまえの心を離そうとしないのは、あいつだろ。おまえが自害しようと刀を胸に突きつけたとき。あいつ、おまえの体を寸前で刀から遠ざけやがったんだよ! おまえのその胸の傷は致命傷には至ってない。あいつの、あいつのお蔭だ」
「え、どういうことなの。あそこにいる、あの人は」
「まだ分からないのか! おまえが助けたくて仕方のない男だよ。土方歳三だ!」
「ひっ……土方、さん」

 俺の胸は掻きむしられたような感覚に陥った。俺はこんなにお人好しだったのか。虫の息の土方まで助け出すなんて滑稽にもほどがある。
 理由はただひとつだ。

 妹の悲しむ顔を見たくなかったからだ!

「あ、温かい……。まだ、温かい」

 硬く眼を瞑った土方の手に触れて、常葉は泣きながらも嬉しそうに俺を振り返った。
 そんな妹の顔を見ると、俺の兄としての仕事はもう終わったのだと知らされた気がした。

「当たり前だ。生きて、いるんだからな」
「い、生きている。土方さん、生きてっ……ああっ、うわぁぁ」

 土方の肩に顔を埋めて泣く常葉は、もう俺の知っている妹ではなかった。


 ◆


 しばらくした後、俺は常葉の肩を揺らした。
 すると常葉はゆっくりと振り向いた。まるで俺が二人の世界に邪魔をしているようだ。
 兄としてこれが妹との最後の時間になるだろう。そう思うと、今になって愛おしさが込み上げてくる。俺は常葉の顔を両手で包み込んだ。

 いつのまにか、女になりやがって。

「常葉。おまえは土方がいる限り、俺にはついてこないだろう」
「常世兄様」
「いいか。俺が言うことをよく聞け。土方は何とか息をしている状態だ。取りあえずの止血しかしていない。ここに医者はいないし、動かすのも危険だ。外が落ち着くまでここにいろ。落ち着いたらこの先に誰も住んでいない民家がある。そこに行け」
「兄様はどうするのですか」

 俺は懐から小さな巾着を出して常葉に渡した。

「これは!」
「お爺の秘薬だ。万が一、おまえに何かあったらとお爺が持たせてくれたものだ。まさか土方に使うことになるとはな」
「待って! 常世兄様はどうして私の居場所が分かったのですか」

 俺は常葉に会津から一緒だったと告げた。その前は、偵察のため長州と薩摩を行き来していたが鳥羽伏見での戦い以降は幕府側に身を置いていた。

「そ、それはもしかして」

 俺は片手で顔を覆い、手を下ろした瞬間に顔を変えた。

「ああっ、沢忠輔!」
「変わり身の術だ。いつか気づくと思っていたが、最後まで気づかないとはな。我ながら困った妹だよ」

 ずっと、おまえのことを見ていた。おまえの命を脅かすものは兄が護るつもりでな。

「困った妹は困ったことに日に日に新選組に染まっていった。すぐに追い出されると思っていたのに、読みが外れた。いいか、この薬は一つしかない。お爺がお前のためにこしらえたものだ。確かに俺はお前に渡したからな。あとはおまえの好きに使え」
「兄様っ、わたしっ」
「もう行く。俺は今から市村鉄之助に成り代わる。おまえは二度と市村を名乗るな。いいな」

 言い終わってすぐ、俺は市村鉄之助に変わった。
 そして、土方の愛刀である和泉守兼定をヤツの遺言通りに日野に届けることにする。

「土方歳三は死んだ。そこにいるのは土方ではない。分かったな、常葉」
「兄様、ありがとうっ……ううっ、ありがとう」
「この刀と、これもか」

 俺は土方の刀以外にも、実家にあてた手紙や遺髪も預かった。それで全部かと常葉に視線を戻すと、ことんと音を立てて簪がこぼれ出た。

「なんだ、これ玉かんざしか」
「あっ、兄様。それは、大阪の……椿さんに。新選組の軍医だった方に」

 お人好しなのは俺だけじゃなかった。なんで他人の、しかも女に……。もしも土方が好いた女だったらどうするんだよ。

「はぁ……莫迦だな。一応預かるが、これはいつになるか約束できない」
「はい」
「常葉」

 俺は常葉の肩に手を置いた。
 これが、本当の最後だ。

 いつも俺の後ろをついてきた妹よ。
 俺の姿が見えないと泣きじゃくる甘ったれの妹よ。
 負けず嫌いで、芯の強い妹よ。
 俺と同じようになりたいと、鍛錬に励んだ妹よ。
 時を戻せるなるならば、京の町なんか連れてこなかったのに。

「幸運を、祈る」
「常世兄様!」


 俺は常葉の声を背に、あの場から姿を消した。
 手負いの土方歳三と大事な妹を残して。
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