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もう一度、多田羅に太陽を
38、再会
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ピピピピ!
耳をさす電子音が朱実を覚醒させた。少し乱暴にそれを止めて目を細めながら時刻を確かめた。
目覚まし時計は午前5時を知らせている。
「ん-、もう少しだけ」
秋が深まり、朝夕はすっかりと冷え込むようになった。もう冬はすぐそこだ。
暖かい布団から抜け出すのは勇気がいる。もう少しだけといいながら、これからしなければならないことを考える。
(着替えて、境内の落ち葉を掃いて......その前に本殿のお水と榊を......眠い!)
「もう! やだ!」
言葉とは裏腹に自ら布団を剥ぎ取って、寒さに体を晒した。急速に目が冴えていくのが分かった。
「よし! 朝のお勤め開始!」
母がこの世を去ってからずっとこんな生活だ。幼いながらも父と神社の周囲を整えるのが日課だった。すっかり成人した朱実は理解している。神社の娘として生まれたのだから当たり前だと、巫女装束に着替えて境内に飛び出した。
朱実の勢いに境内の砂利が鳴く。まずは本殿に参拝をしてからお勤めに取り掛かる。
手水舎に浮かんだゴミを取り除いて、柄杓を濯ぐ。最近は手水鉢に季節の切り花を浮かべる神社やお寺が増えた。参拝客のもてなしもあるが、何よりも映えるらしいのだ。
SNSで取り上げられればあっという間に人気スポットになったりする。
「うん、我ながら綺麗にできたんじゃない?」
参道の落ち葉を掃いて、本殿の床を雑巾がけをした。八時をすぎれば神主である父が大祓詞を唱える。最近は朝の禊で参拝に来る人が増えた。そのため一緒に唱えられるようにと大祓詞を書いた紙も準備した。
時刻はまだ六時を過ぎたばかりだ。今度は朝食の準備へと台所へ走る。
巫女装束の上から襷で袖を縛ってからエプロンを身につけた。いつからかこんなに手際がよくなってしまった。すっかりと慣れたものだ。
「あら、朱実ちゃん! 今日も早いわねぇ。はい、白菜」
「女将さん、おはようございます。わぁ、大きな白菜! お味噌汁に入れちゃおう」
「うちに息子がいたら、朱実ちゃんを嫁にもらうんだけどね」
「ありがとうございます。でも、こればかりはご縁ですからねぇ」
神社の氏子でもある町の料亭松乃屋の女将は、時々こうして訪ねて来てくれる。父子家庭である賢木家を近所の人たちはこうして見守ってくれているのだ。
「あ、酢飯だね。今日はいなり寿司かい」
「はい。ご神木にお供えするんです。最近はずっと天気がよくて、きっと鎮守の杜の神様たちのお蔭だろうと思って」
「だったらあとで、お酒もってくるから。それももっていきなさいな。多田羅の米で作ったお酒だから」
「できたんですね! ぜひ一緒にお供えさせてください」
「去年のお米のできがよかったからね。じゃぁ、あとで持ってこさせるから」
「ありがとうございます」
天候不良で悩んでいた数年が嘘のように、ここ最近は落ち着いた天気が続いている。もちろん、大雨もあったし、台風も大きいものが来た。稲が倒れて心配したけれど大きな被害はなく、なんとか稲刈りまでこぎつけた。
そのせいで秋の大祭がずれ込んだけれど、無事に迎えられそうだ。
「朱実、手伝おうか」
「お父さん大丈夫。もうできたから。あ、じゃあ、おひつ持っていってくれる? 今朝はうまく炊けたの」
「土鍋で炊いたのか! うまいよなぁ、土鍋のは」
ダラダラ過ごしていた学生時代とは生まれ変わったような生活だ。いつのまにか朱実は一人でなんでもできるようになっていた。
充実した日々を送っている。独身ということだけを除けば。
◇
多田羅米で作った酒と、できたばかりのいなり寿司を持って神社の裏に広がる鎮守の杜にやってきた。
幼い頃から庭のように親しんできたこの森は、朱実の全てを包み込んでくれるような安心感があった。
母を亡くした日も、学校で嫌なことがあった日も、狐の舞がうまくできなくて泣いた日も、ここに来れば不思議と心の痛みが溶けていった。
それなのに最近はここに来ると違和感を感じてしまう。こんなにも日々がうまく回り、多田羅の町も活気があるというのに。朱実の心の奥底に小さな空洞がぽかんと空いている。どんなに忙しくしても、楽しく過ごしていても、そこだけは埋まらないのだ。
だから毎日御神木に会いに来る。違和感の理由を求めて幹に触れてみると、棘が刺さったように胸の奥のチクチクが増した。
「ねえ、神様。わたしのここ、どうしちゃったのか分かる? ここだけが何をしても痛痒いの……」
祠にいなり寿司とお酒を備えて手を合わせる。澄んだ空気がなぜか切ない。
秋の風が流れ込み、後ろで結った髪が風に揺れた。ふと、肩越しに芳しい花の香りがする。
(なんの匂い? とても、いい香り……)
振り向いても、それらしき香りの元は見当たらない。
すると、
「にゃーん」
「猫ちゃん?」
冬支度に入ったのか、毛がふわふわでもこもこの白猫が朱実の前をゆっくりと通り過ぎていく。通りすがりにふいと鼻先を朱実に突き出した。まるでついて来なさいと言っているような仕草で。
導かれるように白猫の後を追うと、なんとその猫は銀色の美しい毛を持った犬と、ふっくらお腹の狸と合流したのだ。彼らは威嚇し合うことなく、まるで昔からの仲間のような空気感で向かい合う。
「あなたたち、お友達なの? もしかして、この森に住んでるとか?」
そう問いかけた時、軽い眩暈が襲った。朱実は咄嗟に屈んで手をついた。すると、三匹が近づいてきて鼻先を朱実の顔や体に向けた。
「逃げないのね。私が怖くないの? ごめんね、もう大丈夫だから」
立ちあがろうとした時、また花の香りがした。先ほどよりも濃く鼻の奥を突き抜けていく。
(ああ、この香り……どかで)
ふと、朱実は首の付け根から胸元が熱を持っていることに気づく。そっと手のひらで触れると、その香りが一気に朱実の全身を包み込んだ。
あまりにもの濃厚な香りに目を強く瞑る。そして竜巻にでも巻き込まれたような風が吹き起こった。
不思議な現象はまだ続く。閉じた瞼の裏に狩衣姿の男性が映ったのだ。その影に切なさと、狂おしいほどの慕情が込み上げた。
「えっ……」
ハッとして瞼を開けると涙がとめどなく流れ出た。
この胸に広がる愛おしさはいったい何なのか。
朱実は知っている。その人影の主人を――
「あっ、あ……ああっ、うわあぁん」
声を出さずに泣くのは無理だった。喉の奥から込み上げる熱いものを抑えることはできなかった。
とても大事な事を忘れている。
あんなに離れたくないと、ずっと一緒にいると誓ったのに。
(どうして、わたし……忘れていたの)
まさにそれは走馬灯で、映画でも観ているかのように景色が移りゆく。初めて出会った時、恐怖と不安に押しつぶされそうになった。お見合いをして二度目の出会いに諦めにも似た感情が生まれた。狐の舞を共に踊ったあの感覚は、何物にも代え難い幸福感を味わった。父と母のこと、前代の土地神のことを知り落ち込んだこと。わたしなんて役に立たない、母には敵わないと投げやりになったこと。夏の神、冬の神と出会い、秋の神を探しに出たこと。いつもどんな時も傍に居てくれたあの人を、どうして記憶から消していたのだろうか。
苦しさのあまり、自分の手で己の心臓を掴んで潰してしまいたい気持ちになる。
「ああっ、うう……」
泣き悶える朱実の背中を温かな手が行き来する。顔を上げると、耳と尻尾だけ残して人の形に変化した三人が朱実を囲む。
「知ってる。わた、し……あなたたちのこと、覚えてる。ううっ、うわぁん」
誰も何も言わない。ただ、背中を撫でてくれるだけで。慰めるでもなく咎めるでもない。ただ、黙って朱実の傍に居る。
喉の奥から溢れ出る熱いものをグッと堪える。そして、声を言葉にした。
「……さま、たいぜんさま。泰然さまぁ!」
その瞬間、小さな渦巻きが目の前で起こった。落ち葉を掻き集めてパッとそれらは散る。反射的に目を閉じた朱実を待ち望んだ影が覆った。
それは慈愛に満ちた眼差しで、朱実を見下ろしていた。
「あっ……ああぁ」
言葉にならない。その顔を見ただけで体が熱くなる、心の底から込み上げる想いはもう止められない。
朱実は腕を伸ばした。
愛おしくてならないその人に、もう一度この手を取って欲しい。どうかお願いと縋るような気持ちだった。
(お願いです。わたしを許して……どうか、泰然さま)
彼はどんな表情をしているのだろうか。きっと、とても困っているに違いない。溢れる涙で何も見えない。ただ、泰然が動く気配だけは感じ取っていた。
「朱実」
「うああっ……ごめ、ごめんなさい。泰然、さま」
「朱実は何も悪くない。記憶を消したのは、このわたしなのだからっ」
「え……ど、して」
「朱実には普通の人生を歩んで欲しかった。しかし、それはわたしの間違いだったのだと思い知った。わたしが神として生まれたのは、朱実。あなたと巡り会うためだったのだと。それなのにこのような仕打ちを……詫びるのはわたしの方だ。すまなかった」
そう言って泰然は朱実の手を引き寄せて胸に抱き留めた。朱実の鼻をあの沈丁花の香りが覆う。
「泰然さま。私はただあなたと一緒に生きたいだけです。たとえ神になれなくても、この命が尽きるでずっと」
「ああ、わかっている。わかっている」
しばらくすると、泰然が抱きしめた腕をそっと離す。
「泰然さま?」
「朱実、貴女の人生を奪うわたしを許してもらえるだろうか」
「あの、それって」
「神の権力を使い、朱実を人の子から奪い去る。よいか?」
「……はい!」
「朱実の父上には違う人生を歩んでもらう。ただし、最高の人生になるように手配するから、心配しないでほしい」
不安は一瞬にして消え去った。同時に、後戻りできないことを悟る。
「わたしは泰然さまを信じます。何があってもお側から離れません」
今度は朱実から泰然の胸に飛び込んだ。
もう二度と、離れない。そう誓いながら。
耳をさす電子音が朱実を覚醒させた。少し乱暴にそれを止めて目を細めながら時刻を確かめた。
目覚まし時計は午前5時を知らせている。
「ん-、もう少しだけ」
秋が深まり、朝夕はすっかりと冷え込むようになった。もう冬はすぐそこだ。
暖かい布団から抜け出すのは勇気がいる。もう少しだけといいながら、これからしなければならないことを考える。
(着替えて、境内の落ち葉を掃いて......その前に本殿のお水と榊を......眠い!)
「もう! やだ!」
言葉とは裏腹に自ら布団を剥ぎ取って、寒さに体を晒した。急速に目が冴えていくのが分かった。
「よし! 朝のお勤め開始!」
母がこの世を去ってからずっとこんな生活だ。幼いながらも父と神社の周囲を整えるのが日課だった。すっかり成人した朱実は理解している。神社の娘として生まれたのだから当たり前だと、巫女装束に着替えて境内に飛び出した。
朱実の勢いに境内の砂利が鳴く。まずは本殿に参拝をしてからお勤めに取り掛かる。
手水舎に浮かんだゴミを取り除いて、柄杓を濯ぐ。最近は手水鉢に季節の切り花を浮かべる神社やお寺が増えた。参拝客のもてなしもあるが、何よりも映えるらしいのだ。
SNSで取り上げられればあっという間に人気スポットになったりする。
「うん、我ながら綺麗にできたんじゃない?」
参道の落ち葉を掃いて、本殿の床を雑巾がけをした。八時をすぎれば神主である父が大祓詞を唱える。最近は朝の禊で参拝に来る人が増えた。そのため一緒に唱えられるようにと大祓詞を書いた紙も準備した。
時刻はまだ六時を過ぎたばかりだ。今度は朝食の準備へと台所へ走る。
巫女装束の上から襷で袖を縛ってからエプロンを身につけた。いつからかこんなに手際がよくなってしまった。すっかりと慣れたものだ。
「あら、朱実ちゃん! 今日も早いわねぇ。はい、白菜」
「女将さん、おはようございます。わぁ、大きな白菜! お味噌汁に入れちゃおう」
「うちに息子がいたら、朱実ちゃんを嫁にもらうんだけどね」
「ありがとうございます。でも、こればかりはご縁ですからねぇ」
神社の氏子でもある町の料亭松乃屋の女将は、時々こうして訪ねて来てくれる。父子家庭である賢木家を近所の人たちはこうして見守ってくれているのだ。
「あ、酢飯だね。今日はいなり寿司かい」
「はい。ご神木にお供えするんです。最近はずっと天気がよくて、きっと鎮守の杜の神様たちのお蔭だろうと思って」
「だったらあとで、お酒もってくるから。それももっていきなさいな。多田羅の米で作ったお酒だから」
「できたんですね! ぜひ一緒にお供えさせてください」
「去年のお米のできがよかったからね。じゃぁ、あとで持ってこさせるから」
「ありがとうございます」
天候不良で悩んでいた数年が嘘のように、ここ最近は落ち着いた天気が続いている。もちろん、大雨もあったし、台風も大きいものが来た。稲が倒れて心配したけれど大きな被害はなく、なんとか稲刈りまでこぎつけた。
そのせいで秋の大祭がずれ込んだけれど、無事に迎えられそうだ。
「朱実、手伝おうか」
「お父さん大丈夫。もうできたから。あ、じゃあ、おひつ持っていってくれる? 今朝はうまく炊けたの」
「土鍋で炊いたのか! うまいよなぁ、土鍋のは」
ダラダラ過ごしていた学生時代とは生まれ変わったような生活だ。いつのまにか朱実は一人でなんでもできるようになっていた。
充実した日々を送っている。独身ということだけを除けば。
◇
多田羅米で作った酒と、できたばかりのいなり寿司を持って神社の裏に広がる鎮守の杜にやってきた。
幼い頃から庭のように親しんできたこの森は、朱実の全てを包み込んでくれるような安心感があった。
母を亡くした日も、学校で嫌なことがあった日も、狐の舞がうまくできなくて泣いた日も、ここに来れば不思議と心の痛みが溶けていった。
それなのに最近はここに来ると違和感を感じてしまう。こんなにも日々がうまく回り、多田羅の町も活気があるというのに。朱実の心の奥底に小さな空洞がぽかんと空いている。どんなに忙しくしても、楽しく過ごしていても、そこだけは埋まらないのだ。
だから毎日御神木に会いに来る。違和感の理由を求めて幹に触れてみると、棘が刺さったように胸の奥のチクチクが増した。
「ねえ、神様。わたしのここ、どうしちゃったのか分かる? ここだけが何をしても痛痒いの……」
祠にいなり寿司とお酒を備えて手を合わせる。澄んだ空気がなぜか切ない。
秋の風が流れ込み、後ろで結った髪が風に揺れた。ふと、肩越しに芳しい花の香りがする。
(なんの匂い? とても、いい香り……)
振り向いても、それらしき香りの元は見当たらない。
すると、
「にゃーん」
「猫ちゃん?」
冬支度に入ったのか、毛がふわふわでもこもこの白猫が朱実の前をゆっくりと通り過ぎていく。通りすがりにふいと鼻先を朱実に突き出した。まるでついて来なさいと言っているような仕草で。
導かれるように白猫の後を追うと、なんとその猫は銀色の美しい毛を持った犬と、ふっくらお腹の狸と合流したのだ。彼らは威嚇し合うことなく、まるで昔からの仲間のような空気感で向かい合う。
「あなたたち、お友達なの? もしかして、この森に住んでるとか?」
そう問いかけた時、軽い眩暈が襲った。朱実は咄嗟に屈んで手をついた。すると、三匹が近づいてきて鼻先を朱実の顔や体に向けた。
「逃げないのね。私が怖くないの? ごめんね、もう大丈夫だから」
立ちあがろうとした時、また花の香りがした。先ほどよりも濃く鼻の奥を突き抜けていく。
(ああ、この香り……どかで)
ふと、朱実は首の付け根から胸元が熱を持っていることに気づく。そっと手のひらで触れると、その香りが一気に朱実の全身を包み込んだ。
あまりにもの濃厚な香りに目を強く瞑る。そして竜巻にでも巻き込まれたような風が吹き起こった。
不思議な現象はまだ続く。閉じた瞼の裏に狩衣姿の男性が映ったのだ。その影に切なさと、狂おしいほどの慕情が込み上げた。
「えっ……」
ハッとして瞼を開けると涙がとめどなく流れ出た。
この胸に広がる愛おしさはいったい何なのか。
朱実は知っている。その人影の主人を――
「あっ、あ……ああっ、うわあぁん」
声を出さずに泣くのは無理だった。喉の奥から込み上げる熱いものを抑えることはできなかった。
とても大事な事を忘れている。
あんなに離れたくないと、ずっと一緒にいると誓ったのに。
(どうして、わたし……忘れていたの)
まさにそれは走馬灯で、映画でも観ているかのように景色が移りゆく。初めて出会った時、恐怖と不安に押しつぶされそうになった。お見合いをして二度目の出会いに諦めにも似た感情が生まれた。狐の舞を共に踊ったあの感覚は、何物にも代え難い幸福感を味わった。父と母のこと、前代の土地神のことを知り落ち込んだこと。わたしなんて役に立たない、母には敵わないと投げやりになったこと。夏の神、冬の神と出会い、秋の神を探しに出たこと。いつもどんな時も傍に居てくれたあの人を、どうして記憶から消していたのだろうか。
苦しさのあまり、自分の手で己の心臓を掴んで潰してしまいたい気持ちになる。
「ああっ、うう……」
泣き悶える朱実の背中を温かな手が行き来する。顔を上げると、耳と尻尾だけ残して人の形に変化した三人が朱実を囲む。
「知ってる。わた、し……あなたたちのこと、覚えてる。ううっ、うわぁん」
誰も何も言わない。ただ、背中を撫でてくれるだけで。慰めるでもなく咎めるでもない。ただ、黙って朱実の傍に居る。
喉の奥から溢れ出る熱いものをグッと堪える。そして、声を言葉にした。
「……さま、たいぜんさま。泰然さまぁ!」
その瞬間、小さな渦巻きが目の前で起こった。落ち葉を掻き集めてパッとそれらは散る。反射的に目を閉じた朱実を待ち望んだ影が覆った。
それは慈愛に満ちた眼差しで、朱実を見下ろしていた。
「あっ……ああぁ」
言葉にならない。その顔を見ただけで体が熱くなる、心の底から込み上げる想いはもう止められない。
朱実は腕を伸ばした。
愛おしくてならないその人に、もう一度この手を取って欲しい。どうかお願いと縋るような気持ちだった。
(お願いです。わたしを許して……どうか、泰然さま)
彼はどんな表情をしているのだろうか。きっと、とても困っているに違いない。溢れる涙で何も見えない。ただ、泰然が動く気配だけは感じ取っていた。
「朱実」
「うああっ……ごめ、ごめんなさい。泰然、さま」
「朱実は何も悪くない。記憶を消したのは、このわたしなのだからっ」
「え……ど、して」
「朱実には普通の人生を歩んで欲しかった。しかし、それはわたしの間違いだったのだと思い知った。わたしが神として生まれたのは、朱実。あなたと巡り会うためだったのだと。それなのにこのような仕打ちを……詫びるのはわたしの方だ。すまなかった」
そう言って泰然は朱実の手を引き寄せて胸に抱き留めた。朱実の鼻をあの沈丁花の香りが覆う。
「泰然さま。私はただあなたと一緒に生きたいだけです。たとえ神になれなくても、この命が尽きるでずっと」
「ああ、わかっている。わかっている」
しばらくすると、泰然が抱きしめた腕をそっと離す。
「泰然さま?」
「朱実、貴女の人生を奪うわたしを許してもらえるだろうか」
「あの、それって」
「神の権力を使い、朱実を人の子から奪い去る。よいか?」
「……はい!」
「朱実の父上には違う人生を歩んでもらう。ただし、最高の人生になるように手配するから、心配しないでほしい」
不安は一瞬にして消え去った。同時に、後戻りできないことを悟る。
「わたしは泰然さまを信じます。何があってもお側から離れません」
今度は朱実から泰然の胸に飛び込んだ。
もう二度と、離れない。そう誓いながら。
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