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第二部

25、「お帰りなさい」を、言いたかった

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 東は大変機嫌が良かった。
 金曜日の夜、事務局から残りの講義は後期に改めてお願いしたいと言われたからだ。理由は急ではあるが上層部の異動、配置換えが起きた。そのため、二週間の出張が一週間に短縮となったのだ。

 二佐である東も、そろそろ異動があるのではないかと思っている。現場にいたいと、長く駐屯地の医務室を希望してきたが、そろそろ後継者の育成を考えて退かねばならないだろう。

「防衛医大か、自衛隊病院かって感じだろうなぁ……さて、ひよりは何をしているかな。明日は安達さんの家だろ……」

 夜も遅かったのもあり、メールも電話も諦めた。それより、サプライズで帰宅というのもありだろうと考えた。昼前の飛行機に乗れば、夕方までには自宅に帰り着く。安達の自宅から荷物を取りに戻ってきたひよりを、東は「お帰り」と迎える魂胆だ。

「よし、朝一番で安達さんに一報を入れておこう。夕方までひよりを離さないでくれってね」

 いつのまにか東の心にひよりが居着いた。
 彼女に出会う前の自分は、こういう時はどう過ごしていただろうか。帰っても一人だからと、部活の後輩の様子を見に行ったかもしれないし、同期を誘って夜の街に出たかもしれない。
 それが今は早く帰りたくて仕方がないのだ。
 彼女の存在は初めてではないのにも関わらず、ここまでじっとしていられないのは初めてだった。
 自分の余裕のなさに、笑うしかない状態だ。

「まいったな……」

 年上だから、どんと構えていればいいじゃないか。女性は年上の落ち着いた態度を好むらしいぞ。どんなにそう言い聞かせても、なぜか気持ちは落ち着かなかった。
 ひよりの歪んでいない真っ直ぐな心は、どんな男も好きになる。

「ライバルが、多すぎるんだよな……おっ?」

 その時、スマートフォンが震えた。通信科の久世からのメッセージだ。

 ――自宅付近のコンビニで調子に乗った男子高校生が、絡みそうだったので、撃退しておきました。無事、二佐のマンションにお帰りになりました。

「なんだと。クソガキどもめが……」

 ――すまん。助かった。

 こういう事があるから、部隊を超えた仲間たちは助かる。まさか、そういったコネを使うことになるとは、東自身思ってもいなかったことだ。

「ううむ……やはり、護身術くらいは教えるべきか」

 そんな事を考えながら、東は翌日の飛行機の予約手続きをするため航空会社のサイトを立ち上げる。
 こうなったら夕方までにといわず、朝一で帰ってやろう。始発便の空席を見つけて、東は思わず口元を緩めた。


 ◇


 翌日。

 東はベルト着用サインが消えると同時に席を立ち上がった。荷物を素早く取り出すと、通路に並んでドアが開くのを待った。

 東は機内でずっと、ひよりのことを考えていた。
 自衛隊のことを何も知らなかったし、ヤクザだと勘違いするほどの斜め上っぷりには驚かされた。だからといって決して軽蔑の眼差しを彼女が向けてきたことはない。
 ヤクザだと思い込んでいるのに、ひよりは東に真剣に向き合っていた。当初のやり取りを思い出すと、余計に愛おしさが込み上げてくる。
 今では自衛隊をもっと知りたいと、教えを請うほどだ。

 ――早く会いたいな

 何がこんなに東の心を掴んだのか。

 ――誰にも譲らないよ。ひよりは僕の唯一の女性だ。

 どうしてこんなに想いが焦がれてしまったのか。
 毎日電話やメールをするでもなく、仕事はきちんと集中できている。決して恋にうつつを抜かしているわけではない。それなのに、東のなかでは今までとは何かが違っていた。

「長らくお待たせ致しました。お降りの際はお忘れ物など御座いませんようお気をつけください。この度はご搭乗いただにまして、誠にありがとうございます。皆様のまたのご利用を、スタッフ一同お待ち申しております」

 機内アナウンスが終わると、列がゆっくりと動き出した。

 ――もうすぐ会える。

 逸る気持ちは東が着ている制服が抑えてくれた。これを着ている限り自分は暴走しない。世間様に恥じるような真似は絶対にしない。
 東は客室乗務員に礼をして、落ち着いた足取りで飛行機を降りた。

 東はこの時、大きな決心を胸に抱えていたのだ。


 ◇


 昼過ぎ。

 東は自宅マンションに帰り着いた。空港に着いてから、いてもたってもいられずにタクシーを拾ってしまった。
 安達からのメールには、通信科の若者二人が加わりレンジャー訓練の映像を観ていると書いてあった。

 ――なんでいきなりレンジャーなんだ?

 家の玄関を解錠しながら東は不思議に思った。
 ドアを開けて玄関に踏み込むと、自分とは違う優しい匂いがした。廊下を進み、リビングに入るとそれはいっそうに濃くなった。

「ひより」

 思わず名前を口にしてしまうほど、空気がひよりでいっぱいだったのだ。
 キッチンでは今朝使ったであろうマグカップが、洗って伏せてある。洗面台の隅には、控えめに歯ブラシが置いてあった。

 そして、寝室。
 メイキングし直したと思われるベッド。その部屋の片隅にひよりの荷物がある。彼女の持ち物があちこちに点在しているわけではない。バッグの中のにきちんと収められているのだ。なのに、この家のどこにいっても、ひよりが残した柔らかな空気が漂っていた。

「もっと我が家のように、使ってもらって構わないんだがね」

 使ったらしまう。
 出したら戻す。
 東に気を遣っているのか、出しっぱなしの持ち物は今のところ歯ブラシだけだった。

「それにしても、たった一晩でこの部屋は、女の子になるんだなぁ……」

 職業柄、とくに制服を着ているときは気が抜けない。自宅玄関のドアを開け、中に入るまで自衛官であることを意識している。いや、家の中でもそうだ。
 いつ、なん時に呼び出されるか分からない。整理整頓は常に心掛け、身に付けるもの全部に気を配っている。いつのまにかそれは当たり前になり、自然とそういう風な行動をとっていた。
 それがたった一晩で変わってしまったのだ。
 動くたびに空気がいちいち甘くて柔らかい。何度か一緒に過ごしたのに、その時はなぜか気づかなかった。

 悪くないと、東は思った。
 この場に彼女がいなくても、いた形跡だけでほっとする。ここは安全な場所なのだと、脳がしきりに合図した。

「自分の家なのに、まったく不思議なことだ」

 東は苦笑に似た笑みを浮かべて、出張の荷物を解き始めた。


 時刻は午後四時を過ぎようとした頃、玄関のドアが静かに開いた。
「ただいま。おじゃましまーす」と、囁きながらひよりが帰ってきた。
 リビングでその気配を感じ取った東は、本を読みながら頬を緩めた。靴は全て靴箱に入れているので、ひよりが東の帰宅に気づくことはない。
 すたすたと足音が近づき、廊下からリビングに続くドアが開いた。

 カチャ……

 さて、ひよりはなんと言うだろうか。

 煌々と灯りがついたリビング。ソファーで寛ぐ東の背中に、ひよりの視線は釘づけとなった。
 まさか部屋を間違えたわけではあるまい。あの背中は、どう考えてもこの部屋の主人である東だ。
 ところがひよりは、何も言わないしそこから動こうとしない。東の背中をただ、じっと見ているだけだった。

 あまりにも反応がないので、東は痺れを切らして立ち上がった。ひよりの方を振り返って「お帰り」と声をかける。

「出張がね、向こうの都合で短くなったんだよ。昨日の夜に決まったもんだから、連絡する暇がなくて。ひより?」

 ひよりは、何かを言いたげに口を開いたのに、すぐに閉じてしまった。それを何度か繰り返すも、ひよりからは言葉が出ない。さすがに心配になった東は、ひよりの肩に手を触れ顔を覗き込んだ。

「ひより? 具合でも悪いのか。ちょっと診せてごらん」

 東はひよりの腕を持ち上げて脈をとる。顔色はそんなに悪くなさそうだ。ただ気になるのは、眼が赤いこと。

「熱はなさそうだが、喉はどうかな。口を開けてごらん。その前に、座ろうか。さあ、おいで」

 東がひよりの背中に腕を回した時、ようやくひよりが声を出した。そして、予想していなかった反応を示した。

「八雲さんっ、八雲さんっ」
「ひよっ……ひより」

 ひよりは東に抱きついて、明らかに泣いている声で名前を連呼した。東の胸の下に顔を押し当てて、東のシャツを強く握りしめている。
 ぎゅっと力が入った腕は、簡単に解けそうにない。

「どうしたんだ。安達さん家で何かあったのか。ひより? 何か厳しいことでも言われた?」

 東の問いに、ひよりは違うと首を振った。ではいったい、どうしたというのか。

「まさか、通信科の若いのが」
「違います」

 ひよりは震える声で否定した。

「とりあえず座ろうか。説明は落ち着いてからでいい。な? ひより?」

 ひよりはうんと頷いて、東に従った。でも、ひよりは東にまとわりついたまま離れない。まるで小さな子供が、母親にする行動にも似ていた。
 なんだかよく分からないが、自分を頼っていることはわかった。東はひよりが落ち着く間は、黙って待つことにした。
 ときどき背中を優しく撫でながら。


 ◇


 しばらくすると、ひよりはもぞもぞと体勢を変えてやっと東から離れた。
 東は俯いたままのひよりを黙って見ている。今声をかけるべきではない。必ずひよりから話し始めると我慢をしているのだ。

 すると、ひよりはこくんと唾を飲み込んで、小声で話を始めた。

「今日、安達さんのお宅で、レンジャー訓練のビデオを観ました」
「うん」

 ひよりは言葉を選んでいるのか、ゆっくりとした口調だった。

「どうしてレンジャーなのかって、思うでしょうけど。それは、八雲さんもレンジャーだから」
「僕が、レンジャーの資格を持っているから?」
「はい。知りたかったんです。どんな事をするのか、それがどれだけ大変な事なのかを」
「なるほど。それで、どうだった?」

 東はひよりがそれを見て、どう感じたのか興味を持った。キツくて、汚くて、臭いあの日々を思い出すだけで、もう御免だと顔をしかめたくなる。
 自分でもそうなのだから、ひよりにはよくない印象だっただろう。

「すごくドロドロで、ぐちゃぐちゃになってて……返事もレンジャーしか言わなくて。傷だらけだし、蛇とか食べちゃうし、顔も誰が誰だか分からなくて」
「うん」
「途中で、意識なくした人がいて、あの人死んじゃうって怖くなりました。それなのに、うわ言でレンジャーって言うんです」

 ひよりはポロリと涙を零した。ひよりにとってかなり衝撃的な映像だったに違いない。しかし、ひよりの語りはまだ続いた。

「教官がもう止めようって。置いていくしかないって言ったら、他の人が自分が担ぎますからって。周りの人も、彼の荷物を分けて背負って……。すごく重たいのに、それのせいでもっと重たくなった。でも、諦めなかったんです。もしもあれが、戦闘中だったら置いていかれた人は確実に死んでしまう。絶対に諦めない、全員で生きて帰るって!」
「うん。家族が待っているからね」
「八雲さんが、あの訓練から帰って来たときに、私もそこにいたかった。お帰りなさいって、言いたかった」

 そう言いながら、ひよりは両手で顔を覆った。
 堰を切ったように流れ始めたひよりの涙は、なかなか止みそうにない。

「私もお帰りと言いたかった」その言葉は東の心を酷く揺さぶった。東はひよりから、あんな危険なことはもうしないでくれとか、生きていてよかったとか、そういうような事を言われるのだと思っていた。
 しかし、違った。
 ひよりはぼろ雑巾のようになった自分を、出迎えたかったと言うのだ。

 東は心に決めていたことを、今日言おうと思った。

 ――もう待てない。絶対にひよりは離したくない。

「ひより」

 東は泣きじゃくるひよりを優しく包み込むように、その涙を自分の身体に染み込ませるように、大事に大事に抱きしめた。

「これから先、ずっと……僕にいってらっしゃいとお帰りを言ってくれるかい? 僕が帰る場所には、ひよりがいて欲しい」
「八雲さんが、帰る場所?」
「そうだ。僕が帰る場所はひよりのところだ」
「それって……」
「僕の顔を見てくれないか」


 顔を上げたひよりが見たのは……?

「結婚しよう」の言葉を型どった、東の唇。

「八雲さん!」
「ひよっ……んぐぐ」

 衝動的か意図的か、ひよりは東の首に両腕を絡ませて小さな唇で、東の唇を塞いだ。
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