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第一部

3、なんと胃袋を掴まれる

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「食べなさい」
「えっ……」

 ひよりの目の前には食事が並べられてあった。白いご飯、お味噌汁、焼き魚、おひたしなどの和食だ。ひよりは思わずキッチンの方を覗いた。

「誰もいない。これは私が作ったものだ」
「ええっ! 東さんがっ!」
「驚きすぎだろう。とにかく食べなさい。腹が減っているはずだ」

 二日酔いの身体はあまりにも正直だった。口の中ではよだれが広がり、お腹は大きな音をたてた。

 ―― グゥーッ

「やっ、ごめんなさい」
「はははっ、盛大に鳴ったな。けっこうな事だ。ほら、冷めないうちに食べなさい。全部食べ終わるまで、ここから出られないと思いなさい」
「いっ、いただきます!」

 全部食べ終わるまで出られない。男の言葉をひよりは脅しだと捉えた。本当はひよりに対する気遣いであることには、気づけない。無理もない、ひよりは男のことをヤクザだと思っているのだから。
 しかし、食事を口に入れたひよりは驚く。

「美味しい。このご飯、もちもちしていて甘みがあります。お味噌汁っ、うわぁー。体にしみます。お出汁がきいてて、めちゃくちゃ美味しい!」
「それは良かった」

 まさかのヤクザと思われる人物に、胃袋を掴まれた瞬間だった。

(恥ずかしいことに、お代わりをしてしまった。本当に私って、最低)

「よく食べる女性は好きだな。さて、そろそろ自己紹介をしようか。西さん、下のお名前は?」
「はっ、名前も名乗らずにご馳走になってしまいました。申し訳ありませんっ。私は西ひよりと申します」
「ひよりさんか。可愛らしい名前だな。私は東八雲あずまやくもと言います」
「やくも、さん」

 ひよりが東の名前を口にすると、男は嬉しそうに頬を緩めた。しかし、そんな男の表情にひよりは気づかない。

(もしかして背中には、刺青があったりして)

 男の低い声、落ち着いた物言い、大きな体、シャツを着ていても、その下に筋肉があることは容易に想像できた。
 想像しただけで、鳥肌がたった。

「ところで、ひよりさん。この後のご予定は?」
「はいっ。ご予定……あり、あります。帰らなくちゃ。片付けとか、洗濯とか、あと」
「ひよりさんも一人暮らしですか。では、近くまで送りましょう」
「そんな、これ以上の迷惑はかけられません!」
「女性を一人で帰すのは、自分としては許せないんですよね。まあ、昨日知り合ったばかりですし嫌だとは思いますが」

 明らかに東は落胆していた。ひよりは男の善意を断ったことに罪悪感を感じてしまう。大きな体が、一瞬にして萎んで見えたからだ。

「あの、駅まで。お願いします」
「是非、そうさせてください」

 東は白い歯をむき出しにして、笑った。その笑顔を見たひよりは、不覚にも胸がキュンとなる。

(どうしよう。絆されてるばあいじゃ、ないってー)


 ◇


 地下駐車場までエレベーターでおりた。「どうぞ」と東がドアを開けたのは、黒の大きなセダンだった。一方でひよりの心臓は、ドキドキバクバク大変なことになっていた。ある意味彼女にとってこれは、カケをしているようなものだ。

(ヤクザの車に乗ってしまった。このままどこか知らない街に連れていかれて、売られるかもしれない。でも、この人は悪い人ではない気もする。いいヤクザ、なんていうのは変だけど)

「ひよりさん、シートベルトを」
「すみません! えっと、シートベルトっ」
「慌てなくていいですよ。ちょっと、すみません」
「あっ」

 ガチャガチャと音はするものの、いっこうにシートベルトを締められない。みかねた東が運転席から手を伸ばして、代わりに締めた。

「動きますよ」
「はいっ」

 道路に出る手前で、東がサングラスをかけた。その自然な仕草と、似合いすぎる黒いサングラスはどこをどう見てもヤクザだ。
 急に前が明るくなって、ひよりは目を細め手で前を覆った。昨日までの雨は嘘のように上がって晴れていた。

「眩しいですよね。これ、効果あるかな」

 東は助手席のバイザーを下ろした。

「さっきよりは、ましになりました。ありがとうございます」
「ないよりはましか」


 数分ほど車で走ると、最寄りの駅に着いた。東はひよりを攫ったりしなかったのだ。駅のロータリーについた時、ひよりは心の中で東に詫びた。

(いいヤクザさんだったんだ。ごめんなさい)

「あの、何から何まで本当にありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」
「まあ、俺も止めなかったしな。責任を感じている。バーボンはもう飲まない方がいいね」
「はい。もう、お酒は飲みません。あの、今更なんですけど、私、ベッドを裸で占領してしまっていて……」
「ああ、はははっ。何というか、ご馳走様とでも言っておこうか」
「えっ!」
「見てないと言えば嘘になるしね。ただ、酔っ払った女性に手を出すほど落ちぶれてはいないよ」
「すみません」
「それより……」

 頭を下げるひよりに東の影が近づいた。それに気づいたひよりは、頭をあげられない。

(どうしよう。すごく近いんですけど)

「また、ご飯を食べにおいで。ひよりさんの食べっぷりが気に入った。これ、俺の番号。登録してもらえるかな」
「ひいっ。えっ……と、登録」
「また俺の手料理を食べて欲しい」
「東さんの、手料理……」

 思い出すだけで、唾を飲み込みたくなる。それほどに男の料理が美味しかったのは間違いない。シンプルとはいえ、魚の焼き加減は絶妙だった。プロと言っても過言ではない。

「部下たちに食べさせても、つまらなくてね。ガツガツ量だけ消費しやがって、品もなにもありゃしない。幹部を目の前にしても遠慮しないんだ。まあ、アイツらに品を求める方が悪いんだろうが」
「幹部、さん。なんですね……」
「まあ一応ね。そういう大学を出たから」

 ヤクザの幹部になるための学校なんてあるわけがない。しかし、ひよりは違う風に解釈していた。

(大物のヤクザの家に、住み込みしていたってことなんだわ。だから、こんなに身なりも素振りもキチンとしてたんだ。料理もその時に厳しく仕込まれたのね。洋服のたたみ方も、親分のを……)

「ところで、番号。交換して貰えそうかな」
「あっ、はい。あの、どうぞ」

 ただのOLに断れるだけの度胸はない。この男の機嫌を損ねたら、自分だけではなく家族や会社にまで迷惑がかかるかもしれない。
 ひよりは決心したのだ。

(私が犠牲になれば、いい!)

「ありがとう。連絡はこちらからします。休みが不規則だったり、山にこもる事もあるんでね」
「山に、こもる」
「演習ってやつに、同行することもあるんですよ。後方支援的なもので。あ、電車大丈夫ですか」
「あっ、そうでした。私、降ります。ありがとうございました」

 ひよりは車から降りて、車の窓越しに頭を下げた。サングラスをかけた東は、「今度連絡します」と言って右手を挙げた。
 ひよりはそれに笑顔で会釈した。本当は心の中で、自分のことは忘れてほしいと強く願いながら。

「どうしよう、どうしよう、どうしよーう」


 ◇


 それからというもの、ひよりはスマートフォンが気になって仕方がなかった。仕事中はデスクに持ってきてはいけないので、ロッカーの中で留守番設定をしている。
 トイレに立つついでに、コーヒーを入れる途中に、来るかもしれない着信を確認していた。

(仕事中に電話がきたらどうしよう。シカトしたって怒ったらどうしよう。会社に乗り込んできたら!)

 どんどん想像は飛躍して、会社の電話にすら過剰に反応してしまう。
 しかし、何日経っても電話はならなかった。ひよりもいつの間にか電話のことは忘れて、いつもの日常を送っていた。


 あんな事もあったなぁと、思い出になりかけた時、それは訪れた。ひよりが自宅に帰り着いたちょうどその時、スマートフォンが鳴ったのだ。

「きゃっ! びっくりした。誰?」

 近頃は電話で連絡を取り合うことがなくなった。会社、友人、家族などの連絡は、殆どがメールと通話機能がついたアプリケーションを使っているからだ。
 ひよりは鳴り続けるスマートフォンを見た。

「き、来たっ、ヤクザ。お待たせしました。西です!」

 自分でも下僕の才能があるのではないかと疑うほど、その切り替わりは早かった。
 そう、東はひよりのことを忘れてなどいなかった。それどころか、ひよりの好きな食べ物嫌いな食べ物を、この電話で聞き出したのだ。

『今度の土曜日にランチを作ります。この間の駅で待ち合わせでいいですか』

 東はひよりが承諾することを前提で、誘ってきた。

「はい。大丈夫です」

 ひよりは断ることができなかった。

『よかった。ちょっと時間が空いたので、お前は誰だと言われるのを覚悟していたんですよ。山にこもると電波も落ちるんで』
「山に、こもってたんですね」
『詳しくは土曜日に。では、まだ仕事が残っているので』
「はい。失礼します」

 ひよりは電話を切って思い出していた。山とは演習に行くことだと。演習とはいったいなんなのか。恐る恐るスマートフォンで検索をかけた。
『慣れるために繰り返し行うこと。リハーサル。実戦や非常時を想定して行うこと。場合によっては実弾を……』
 そこまで読んで、画面を落とした。

「非常時って、抗争を前提とした実戦訓練‼︎」

 とんでもない方向に、ひよりの思考は傾いていった。
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