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1. 押し付けられた約束

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 小さい頃の夢を定期的に見ていたが、この頃はその間隔が狭まってきたように思う。いよいよあの時の約束を果たせと、迫られているのかもしれない。


 ◆


 伊佐 渚いさ なぎさ、十歳の夏。
 海の近くで育った渚は学校から帰ると、友達の誘いを断って毎日のように浜に出た。
 この年齢の男子はゲームに夢中なのに、渚は全く興味を持てなかった。
 遠くで大人たちがサーフィンを楽しむ中、渚は膝が浸かるくらいの浅瀬で、砂に隠れた貝や光る砂を探すのが日課だった。
 運動はあまり好きではなかった。だから海も深いところまではいかない。渚は泳ぐことができなかったのだ。
 それでも渚は、海が大好きだった。この大海を眺めていると、何か大きな力に守られているような気がするからだ。古来から人々は海や山から恩恵を受けてきた。人々はその恩恵によって生活の営みができている。幼いながらにも渚は自然への感謝の気持ちを持っていた。そして、この美しい海は、ずっと続くものだと信じていた。

 しかし、最近はそうでもない。
 誰かが花火で遊んだゴミや、浜辺で飲んだお酒の缶、ジュースのペットボトルが波打ち際に押し上げられている。ボランティア活動が盛んになってきても、ゴミはなくならなかった。
 今日も渚の足元に、ペットボトルがコツンと当たった。

「あ」

 拾おうと腰をかがめると、ペットボトルは引いていく波にさらわれて遠ざかった。しばらくすると、寄せてくる波に押されてくるはずだ。その時にしっかりと拾い上げよう。
 渚はペットボトルが戻ってくるのを待った。

 ザザー……ザザー……

 なかなか渚のところまでペットボトルは押されてこない。どんどん海に呑まれていく。
 渚が思い切り手を伸ばしても届かない。あと少しだ、あと少しと渚は越えてはいけないラインを一歩踏み込んだ。たった一歩のその勇気が、渚の運命を変えた。

「うわぁ!」

 足の周りに白い泡がたった。クルクルと小さな渦のようなものが生まれて、あっという間に腰まで海面が上がった。転けたら最後だと渚は砂を掴むように足の指に力を入れる。
 でも、渦はどんどん大きくなり、抵抗虚しく小さな渚の体は海の中に呑み込まれてしまった。

「うううー(誰か!)」

 どんなに手足をバタつかせても、水の鎖は解けない。硬く瞑った瞼を開けると水面で揺らめく光が笑って見えた。手を伸ばしても掴むものはなく、口に含んだわずかな酸素がもれていく。

 ゴボッ

 最後の酸素が口から溢れると、渚は全てを諦めて体の力を抜いた。

(バイバイ……みんな)





 ―― よく寝る子じゃの……まだ起きんか。

 少し硬めのスプリングのきいたベッドは暑くもなく寒くもない、とても心地よい。

(僕、助けられたんだ。きっとここは病院)

 ―― まったくなんと呑気なことよ。ワシはお主に大きな力と希望を託そうとしておるんだがの。なんと気持ちよさそうに寝ておるのじゃ。百年ぶりの大仕事なんだが? おい、小僧、起きんかっ。

(ううん、もう少しだけ……眠いよ母ちゃん)

 ―― いい加減に起きてもらうぞ。それっ

 渚の頬にピリリと電気が走った。

「うわぁっ……」

 ―― やっと起きたな、小僧。

「はい、起きました! うわぁぁー!」

 てっきり白衣を着た医師が話しかけていると思った。もう大丈夫ですよと優しく起こされると思った。しかし、違った。渚の目に映ったのは医師でも看護師でもなく、駆けつけた母親でもない。
 なんど瞬きしても、なんど目を擦っても、目に飛び込んできたものは自分が知っている形やモノではなかった。
 そして渚はその恐ろしく大きな体に抱きこまれている。正確には巻き付かれていたのだ。


 ―― 小僧、ワシが何に見える。

「りゅ、龍!」

 ―― うむ。いかにも、ワシはこの日本の海を護る綿津見わだつみである。

「ワダツミ」

 ワダツミと名乗る龍のような大きな怪物は、長い髭を得意そうに泳がせている。

 ―― 海の神という意味だ。小僧にワシの力を授ける。そして、その力で大和の海を護れ。けしからん異国の力にされた我が領海を護るのだ。

「僕が、ワダツミの力をもらう?」

 ―― 小僧は己の責務を果たせるか。果たせぬならばその命、ワシがもらう。小僧はうまそうだ。

「やる! 約束する。僕、海を守るよ。海が好きだから!」

 ―― よかろう。神話の国に生まれたことを喜べ。イザナギとイザナミの偉大な力をおまえに授ける。必ずだ、必ずこの美しき海を護れ!

 渚は身体に何かが宿るのを感じた。腹の底から漲る得体の知れない力だ。このままでは皮膚が破れてしまうのではないかと思うくらい、全身が張り詰める。

「ううっ、う……(熱い! 熱い!)」

 ―― 必ずだ! 必ずだからな! イサナギサよ!


 ◆



「……はっ」
「伊佐さんまた、見たの? 夢」

 伊佐は夢だと思っている。あの夏の出来事は夢なのだと言い聞かせてきた。学校から帰っていつものように海で遊んだ。そのときに流れ着いたペットボトルを拾った。波に足を取られて溺れたのか? そんなはずはない。自分の足で家まで帰った。
 なのに、気づいたら家の玄関にずぶ濡れで立っていた。
 そういえば彼は、自分を海の神だと言った。約束はたがうなと、必ず守れと念を押された。
 その日から時々、ワダツミという龍の夢を見る。

「せっかくマッサージしてあげてるのに、また筋肉が緊張しちゃったじゃないのよ。私の労力は無限じゃないのよ」
「すみません。いつもの倍払います」
「ふふ。金を惜しまない男は好きよ。じゃあ、少しやり直すわ。時間は大丈夫?」
「時間は大丈夫です。それに、しばらく来れないと思うので」
「え、そうなの。やだ、寂しい。あたし、伊佐さんの身体がいちばん好きなのに」

 伊佐が定期で通うボディマッサージの店主で、名前をアキラと言う。どのマッサージ師よりも腕が良かった。身体の造りを細部まで理解しており、伊佐の筋肉のクセも知っている。そして、このアキラというマッサージ師はこの店の誰よりも、筋肉が好きな男である。
 もう一度いう、性は男である。

「わたしさぁ、伊佐さんの背筋好きなの。わたしのこの太く逞しい指がね、跳ね返されるのよ。この弾力、たまらないわ。はぁ……しばらく会えないのね」
「アキラさん。恋人の別れみたいに言うの、やめてもらえませんか」
「何いってるの。恋人以上よっ」
「まいったな」

 運動が苦手だった伊佐は、中学に上がると目を見張るほど足が速くなった。足だけではない。投げても、飛んでも、何をしてもクラスいち。いや学校いちの成績を残してしまうまでになっていた。
 自分でも不思議だった。体力の基礎なんてないと思い込んでいたからだ。
 もっとも驚いたのは水泳だ。
 怖くて膝より上の深さを避けて生きてきたのに、逃げられない体育の水泳の授業で、教えられてもないのに二十五メートルを誰よりも速く泳いでしまった。
 同級生たちが「あいつカッパにでも憑かれてるんじゃないか」と言うほどだ。

(カッパじゃねぇよ……)

 市の大会、県の大会を制覇して、とうとう全国大会に出場するまでになった。勝手に周りはオリンピックという言葉を口にするようになった。
 伊佐自身も心のどこかで、このままでは自分は勝ってしまうと思っていたのだろう。そしたらオリンピックだと持ち上げられる。でも、違うんだ。自分がやりたいのはそれじゃない。伊佐は、その大会でわざと力を抜いた。みずから予選落ちを選んだのだ。
 そうまでしてみたものの、自分がやりたい事は見つけられなかった。

 そして、高校卒業を前にしてごうを煮やした担任が、伊佐にこう言った。

「伊佐。おまえ、海上保安官になれ! 俺はそれ以外認めない。海上保安大学校宛に推薦を書く!」

 自分の意思でオリンピックへの道を絶ったのに、なぜか担任の押し付けは跳ね返せなかった。
 海上保安官が何をするのか、いまいち分かっていなかったからかもしれないが、なんとなく悪くはないと思えたのだ。

「それにしても、海上保安官ってみんなこうなの? ガチガチのムチムチなのかしら。伊佐さんいなくなるなら、誰か紹介していってよ。この筋肉を味わったら、一般人の施術なんかやってられないわ」
「え、紹介ですか」
「そうよ! 責任とってちょうだい!」
「じゃあ、救難士の連中に声かけてみますよ。彼らは比じゃありませんよ。海のゴリラですから」
「海のゴリラ……やだぁ、おいしそ」


 伊佐渚、三十歳。
 本庁より第十一管区の石垣海上保安部へ異動となった。この異動は伊佐自身が希望したものだ。
 海上保安大学校を好成績で卒業した伊佐は、幹部への道まっしぐらだ。三年前には異例の早さでJICA(国際協力機構)との協力プロジェクトで海外派遣された。
 英語、ロシア語、中国語と語学堪能である。
 しかし残念なことに、男だらけの社会でここまできたせいか、自分が容姿端麗であることに気づいていない。
 女性保安官が顔を赤らめて敬礼する姿に、伊佐は部下経由で体調を気づかう伝言を残した。
 伊佐と女性保安官の間に立つ部下は大変だった。
 バレンタインが近づくと、本庁での勤務を避け、官公庁訪問や会議を無理やり入れたものだ。
 現場に行ったら、女性たちもそんな暇はないだろう。ましてやあの管区は叩き上げの猛者が揃っている。今や日本でいちばん忙しく、危険と隣り合わせの現場であるからだ。
 きっとその部下は伊佐の異動に胸を撫で下ろしているであろう。

「これでやっと肩の荷がおりたーって、いくかよ! 伊佐あるところ女あり! まだ自分がモテるなんて思ってないから幸いなもの。さてさて、次は石垣海上保安部……よし! たつ鳥の後片付けが終わったら、僕の本当の仕事が始まる。女ども、伊佐に手を出させやしないぜ」

 伊佐は知らない。
 部下のおかげで、仕事に集中できていたということを。
 余計なお世話かもしれない部下の活躍は、これからだ。
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