INFECTION<感染>

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 202×年

 清らかな流れが続く木曽川の中流域。この場所では、美しい川の流れの音と、そこに吹く涼しげな風の音とがミックスされ、すばらしく調和のとれたメロディーのように聞こえてくる。この川は中部に於いて長良川、揖斐川と共に三本の指に入る第一級河川であり、長野県にある鉢盛山の源流から全長およそ300キロメートルもある大きな川だ。河口部ではその三本の川が合流し伊勢湾に大きな口をあけている。

 岐阜と愛知の県境に位置するこの辺りは、河口まであと40キロメートルほど有るだろうか。それでも川幅は広い所で40メール以上もあり流れも速くとても泳いで渡れるとは思えないくらいだ。しかし、川辺近くに出来ているアシの茂ったワンドでは、そんな激しい流れのあることがまるで嘘のように小魚の群れがゆったりと泳いでいた。それはまるでこの魚達が大きくなり、その激流の中でも立派に泳げるようになるまで優しく包み込んでいるゆりかごのようにも思える。

 初夏の強い日差しが川の流れにキラキラと輝いて眩しいくらいだった。川の中ほどには小さな中州が出来ており、そこには2、3羽の水鳥が餌になる虫や小魚を探しているのか、くちばしで砂や川底を突っついたり、水の中に頭を入れたりしていた。

 高橋秀人はこの景色が好きだった。

 この場所は彼の自宅からも、また職場からも近かったこともあり、忙しい仕事の合間を見てよくここに来たものだった。時には一人で数時間昼寝をしに来たり、友達と何人かで2、3日キャンプをしに来たりした。また、このあたりは春になり桜の季節になるとソメイヨシノが堤防一面に咲き乱れ、美しい景色をより一層引き立たせた。 

 そして彼はそのたびに、この川辺で横になり、まるで子守唄のように聞こえる川の流れの音に耳を傾けながらまどろむのが好きだった。

 この風景は何年も、いや何百年も変わってはいない。ただ、そこに住む住人達――人間とは限らず――が入れ替わっているだけだ。ある時は魚が、またある時は動物達が、少しでも住みやすい場所を求めて縄張り争いをしていた筈である。恐らく、今高橋が寝そべっているこの場所でも前の住人達が死滅して新しい種族と入れ替わったり、もしくは弱い者が強い者に追われ取って変わられたりした事が度々あっただろう。しかし、そんな事をこの川は一向に気にせず、ずっと同じ風景を維持していくのである。

 高橋が、ふと横を見ると小さなアリの集団が、せっせと何か運んでいるのが目にとまった。彼らは、食料となる昆虫や小動物の死骸を見つけると仲間を集め一致団結して巣まで運ぶのだ。そして自分達の子孫を増やすため、黙々と死ぬまでこの仕事を続けていくのだろう。ただその為だけに…。

 彼らは今も自分の体の何倍もあると思われる、もう動かなくなったアブラムシの足を何匹かであっちこっちに引っ張り合うように引きずっている。アリ達はまっすぐには進まず大きく回り込んだり木の枝を乗り越えたりしながら、巣が有ると思われる方向に一目散に運ぼうとしていた。恐らく彼らの巣は“人間ごときに見つかってたまるか”とでもいうように何かの物陰にひっそりと作られているのだろう。

 こんな小さな昆虫でさえ自分達のDNAを後世に残していくよう運命付けられており、その重大な任務を脳の奥底に刻み込まれ、その責任を果たすため生まれて、そして死んでいく。

 これは地球上のいかなる生命体も同じである。すなわち“種の保存”である。本来、あらゆる生命体は最終目的として犬、猫、馬、そして人間でさえそのために生きている筈だった。

 高橋は餌を運んでいるアリを見ながら思った。我々人間は、これからその最終目的が果たせなくなるのではないのか…と。今までそんな事を思ったことは無かったが…。

 彼は身体を起こして周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、“もうどれ位ここにいるのだろうか?”と腕時計に目をやり時間を確認した。

「1時間か…」高橋はそう呟くと腕を高く上げてあくびをした。彼はこの素晴らしい景色のお陰で、この数日間の非現実的な殺伐とした状況からひと時の間解き放たれて、ようやく自分らしさを取り戻せたような気がした。“こんなに穏やかな気持ちになったのはいつ以来だろう”高橋は心の中でそう呟くと、もう少しこのまま川の音を聞くことにした。彼は再び横になると目をつむって物思いにふけった。

 高橋には、母親と3才年下の妹がいた。父親は今から7年ほど前他界したのだが、彼はその時、思っていたよりも悲しくなかったことに驚いた。自分は薄情な人間なのではないのかと感じたくらいだった。もとより彼の父親は仕事仕事で殆ど家にはおらず、めったに話をする事も無かった。恐らく月に一、二度、顔を見るくらいが関の山だっただろうか。だから彼は進学や就職の事なども父親には全く相談する事もなく、自分で決めてしまったくらいだった。それゆえ父親が亡くなった時、少し寂しい思いはしたがそれ以上の感情は湧かなかったのだろう。

 高橋はアパートで一人暮らしをしていたのだが、母親や妹とは決して仲が悪かったわけではなかった。どちらかと言うと他の家庭と比べてもかなり良い関係であったような気がする。

 ただ、彼は父親が亡くなった事により母親にとってある意味色々な束縛から開放された事で、これからは彼自身の事で彼女をあまり煩わしたくなく、残りの人生を今まで出来なかった事や、やりたい事をして充実した人生を送って欲しかったのだった。

 母親は妹の雅代と一緒に暮らしていたが、父親の生命保険や若干の蓄えで十分やっていく事ができ、パート収入もあった為、生活していく上で何ら問題はなかった。

 雅代は高校を卒業してから大手電気機器メーカーの組立工場で働いており、自立する事も出来たが、ひとりで生活するより母親と暮らす方が楽だし、ましてや母親が寂しいだろうという事で一緒に住んでいた。しかし、どちらかというと母親が手放さなかったという方が正しいかもしれない。

 母親は、事があるたび雅代に“早く結婚しろ”とか“自立しなさい”などと言っていたが、誰がどう聞いても、その言葉を真剣言っているとはとても思えなかった。彼女は社交ダンスやカラオケなど、それまで出来なかった事をして楽しんではいたが、今から思えば結局、彼女にとって一番の生きがいは息子や娘の世話をやく事だったのかもしれない。

 高橋は今までは適当に仕事をして、そこそこの金さえ稼ぐことができればいいと思っていた。彼としては好きな服を買って、良い車に乗って、たまにスナックでホステスと他愛のない話を長々とできれば十分であり、自分の将来設計や夢などは全く気にも止めていなかった。当然、結婚などさらさらする気もなく、ましてや子供なんてものはただ単に厄介な代物で、自分勝手だし、大きくなれば学校だの塾だのと金のかかることばっかりで全く不必要な物であると結論付けていた。

 もちろん、彼自身結婚もしたことは無いし、子供もいなかった。そもそも、彼にそう結論付けさせた原因は、友人などから家庭のゴタゴタを相談されたり、会社の同僚から家庭での愚痴を聞かされたりした内容からだった。だから彼は、そんな厄介なものに金を使うより、どうせ自分が苦労して稼いだのだから自分のやりたい事や欲しい物に使う方が良いとしか考えていなかった。

 しかし、今となっては根本的に考え方を改めねばならず、新しい生き方を模索していかなくてはならない事は自覚していた。ましてや、今までやりたかった事ができるとは思えないし、以前とは全く違う環境に立たされているのだから…。

 彼は高校卒業後、陸上自衛隊に入り、第10師団第35普通科連隊へ入隊したのだが、3年間の任期を勤めたあと、すぐに辞めてしまった。もともと彼は軍事オタクと言ってもいいくらいで、小学校の頃から暇さえあれば戦艦や戦闘機の模型を作ったり、戦争物や軍事関係の書籍を読みあさったりしていた。当然ながら、それは彼が大きくなっても変わる筈が無く、高校卒業後の就職で進路指導の先生が止めるのも聞かず、ただ単にライフルや拳銃が撃ちたい為だけで陸上自衛隊に入隊したのだった。しかし、入隊してみると彼が思っていたのとは全く違い、そんなにたくさんライフルや拳銃を撃てるわけでもなく、訓練の殆どは走ったり地面に這いつくばったりする毎日のくり返しだった。

 元々、彼は身体を動かす事自体は嫌いではなかった。高校では3年間、柔道部で鍛えられており、3年生の時には三段を修得して副部長を務めるほどだった。体格的には小柄だが筋肉質で、体力的にもそこらにいる同年代の体力バカにひけは取らない自信はあった。しかし、そんな事が自衛隊で通用する訳も無く、さすがに訓練は生半可ではないし、集団生活や拘束される事にも嫌気がさしてしまったのだった。ただ、趣味が講じて89式自動小銃などのライフル射撃の成績はかなり良かったので、任期の終わり頃、上官から“このまま隊に残り上を目指したらどうか”と説得されたのだが、そんな話は当然ながら聞き流してしまい、結局、陸上自衛隊を満期除隊したのだった。

 もし、あのまま留まっていたら今頃はどうなっていただろう。また違う状況に立たされていたのだろうか。しかし、彼はその事についてこれ以上考える事はやめようと思った。

 陸上自衛隊を辞めたあとは、チェーン展開している某スポーツ用品店に就職して、今では、とある店舗のマネージャーになり生計を立てていた。そこでは、まずまずの給料がもらえるし、仕事もやりがいはあった。ただ、ちょっとばかり休みが少なく、自分のやりたいことがなかなか出来ないのが不満ではあったが、嫌になるほどではなかった。ましてや今思えば、そんな不満など、どう考えても米粒ほどにもならない些細な事であった。ただ、このまま過ごせたら気楽なものだと思っていた。

 三週間前までは…。


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