落ちてくる人

つっちーfrom千葉

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落ちてくる人 第七話

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「今思いついたのは、もし、あの男性が何らかの理由で、あと数時間後に、歪んだ時空に捕縛された状態から解き放たれまして、運悪く、そのまま地面に激突して、お亡くなりになられた場合、その責任の一貫は我々にもあるのではないかと……。なぜって、これだけ大勢が額を集めて策を練ったのに、結局は妙案を捻り出すことも、それを行動に移すこともできなかったわけですからな。新聞でこの一件を知った大勢の民衆は、無能な我々を口汚く罵ってくるでしょう。もちろん、これは恐ろしい想像ではありますが」

 科学マニアは少し蒼ざめた表情でそう述べた。大した身分でもない彼にも、失いたくはないメンツというものがあるらしい。

「なぜです? 彼が屋上から飛び降りた動機は、たしか、自殺のはずですが……、ああ、これは失礼、今のは言い間違いです。未来の自殺と表現すべきですね」警部は相当に驚いて、聞き返した。

「そうなんです。ただ、これは一般的な自殺とはわけが違います。我々は彼の肉体が地面に激突して、脳天が砕け散って、上腕骨が粉砕されて、鮮血が飛び散って、周囲の大衆が悲鳴を挙げた後の時間軸に、ここに来たわけではありません。あの太っちょの身体が地面に激突するその前の時間帯に、ここに来てしまったのです。彼はまだ生きていますし、地面にもぶち当たってもいません。今のところ、まったく無傷です。我々は彼が生きている状態において、運命に呼ばれて、ここに集まった以上、彼を救う義務も当然の如く発生するのではないかと……」

「そんな馬鹿な! あそこからどんな状況に変化するかも知れないのに! 勇敢にも、彼を助けに行った先で、我々まであの歪みに飲み込まれたらどうするおつもりですか? 警察は市民の味方ですが、決して市民の盾ではありません」

「得体の知れないものに近づくことが怖いのは誰だって一緒です。しかし、できるならば、警察の方々が最初にビルの入り口から踏み込んでもらいたいのです。最良の可能性として、あの男の肉体を無事に保護することが出来るかもしれません。もし、あの肉体を動かすことが難しかったとしても、そこから先の判断はすべて公権力の方で行うのが筋だと思います」エセ科学者は念を押すようにそう述べた。

 しかし、その通告に対して、ふたりの警官は決していい顔をしなかった。

「それはもっと上の判断を仰いでからでないと出来ないな」

 こんなことを言うわけだ。普段は命令など受けなくとも、何でもするくせに。拳銃をバーン! 無罪の市民に向けてバーン! 

「つまりは、我々があの男の遺体に近づいた途端に、あの黒い渦がババーっと増大して、我々の身体まで捕らえてしまわないとも限らない」

「それは、映画や漫画のストーリーと同様に、空想上の出来事であり、絶対に起こりもしないことです。あなた方は偉ぶっているが、実際には、起こりもしないことに、ただ脅えているだけじゃないですか」肉屋が突っかかっていった。

「そりゃあ、我々だって、その時期が来れば、ビルの内部に喜んで突入しますよ。今はまだその時ではない、と言っているのです」

「では、事態がどこまで進めば、あの男性の救出に向かって頂けるのですか? 日没が来てからでは、作業がより難航しますよ。まさか、『時機が来る』というのは、犠牲者の数が増えてから、という意味ではないでしょうね? 私だって、年々高くなっていく所得税を不平不満を言わずに払っていますが、それは、あなた方の臆病に対して払っているわけではないんですよ」

 肉屋は持ち前の嫌らしい言葉使いで警察をけしかけてみせた。どうも、これ以上の事態の進展が望めないと気が済まないたちらしい。こういった人種は、日頃から、警察やそれ以外の公務員に不満を持ちながら、生活しているのかもしれないが、公権力嫌いになった、そもそものきっかけまでは分からなかった。

「お話は分かりました。では、署からの更なる応援が来たなら、私が先頭を切って、このビルの屋上に潜入しますよ。それでいいんですよね?」

「そりゃあ、構いませんが、その応援とやらはいつ来るんですか? 辺りが闇に包まれるか、それとも、あの男性の身体が、地面に衝突するまで待つつもりではないでしょうね?」と肉屋は応じる。

 そんなとき、近くの外科専門病院に勤める、モリマー医師が駆けつけてきた。警察関係者のうちの数名が医者をすぐに取り囲んで、これまでの経過を説明した。

「彼は死んでいますね」

 医者は遠くからぼんやりとした老年の目でその姿を眺めながら、たった一分ほどでそう判断を下した。

「よろしい、これにて、彼は死亡したことにする。それでよろしいな? すぐに病院と役所に連絡を入れてくれ」

 警部の表情が明るくなり、よく通るその声で部下に命令を下した。

「ところが、どうも、死んではいないように思えるのです」私はある程度の確信を持ってそう呟いた。警部はチッと舌打ちをした。医者は気に入らないように私の姿を眺めた。

「人間は高層ビルから飛び降りれば、およそ、十秒後には確実にあの世へと旅立つものなのです。その運命を覆すことはできません」

「その通り、彼が飛び降りて、あの位置に達してから、すでに三時間が経過している。死亡宣告をするには十分なタイミングですな」医者の見解に警察も相槌を打った。厄介なふたりが手を組んだわけだ。

「しかし、今回の場合は特例だと思うのですが……。高さだって高層ビルとは比較にならんくらい低いでしょうが。それに奴の身体はまだ空中にあるので、打撲も骨折もしていないんですぜ」

 肉屋は私の弁護をしたいのではなく、おそらく状況をこのまま留め置くために、そのように反論をした。彼としては、できるだけ長くこの奇妙な状況を楽しみたいだけなのだろう。自分が知らず知らずのうちに重大事故に巻き込まれていくという、B級アクション映画のような展開に酔いしれているのだ。

「人間の死に特例などありません。例えば、ギロチン台に固定されてしまった囚人は、その態勢から、どれだけ暴れようと数秒後の死は免れません。太平洋のど真ん中で大嵐に遭い、船から放り出された船員たちが、生き延びて港まで戻れるとお思いですか? 嫌な言い方になるかもしれませんが、こういった方々には死が保証されておるわけです。わざわざ、遺体の手首の静脈を測るまでもなく、彼らは皆、あの世行きとなります。助かる余地は、0.1%もありません。つまり、そういった不幸の場合、事前に死亡診断書を作成してやることも十分に可能なわけです。それ以外の終着点がありませんからな。今回の一件についても、それとまったく同じことなのです。数十秒後における死は、現在の死と何ら変わらんわけです。どんな手段でも構いません。彼の身体を下へ降ろして頂ければ、彼の心臓が動いていようと止まっていようと、すぐにでも、死亡診断書を書いてみせますよ。それが医者の仕事ですこれでお分かりか?」

「そうだ、あの状態がこの先何年も続いたとしても、すでに死んだものとして処理してしまえばいいんだ」

 肉屋がようやくそこまで思い至り、そう叫んだ。

「あなたの仰るとおりです。被害者がまだ生きているかもしれないと思ってしまうから、安っぽい同情が働いてしまうんです。余計なことは極力考えない方がよろしい」警部はさすがにその意見に同意した。一日の大半をこんな辺鄙な街角で過ごすのはごめんなのだろう。内心は早く帰宅したくてうずうずしているはずだ。

「しかしですね、この一件は放置するにしても、今後、同じように起こると思われる、すべての事例に対して、そのような冷酷な処置をお取りになるつもりですか?」私は冷静沈着にそう言い放った。

「こんな意味不明な事件はもう二度と起こりませんよ。こんなことは百年にいっぺんです。次に空間の歪みができるとしても、それはきっと遠くの街ですよ。確率的にみて、この付近ではもう起こり得ないのです。その頃には、私は定年で引退しているかもしれない。次にこのような奇妙奇天烈な事件が起こる頃には、我々にはもう関連のない事例になっていることでしょう。自宅でテレビの画面を眺めながら、関係者が右往左往するところを、じっくりと楽しませていただきますよ」

「近所の住民たちも、この事故に気づき始め、騒ぎ出している。このまま、ここで議論を続けていると、今に苦情や批判がくるかもしれない。早く決着をつけた方がいいですな」周囲の様子を眺めていた警官のひとりが警部に対して、そのように耳打ちをした。

「よし、では、この場において彼の死を宣告する。狙撃隊を編成して、この位置から打ち殺そう」
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