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落ちてくる人 第四話
しおりを挟む「あの男が地上に降りて来ない理由が、もし、本当に物理学の問題であった場合、マスコミへの発表のタイミングはどうするんです?」
警部は仏頂面で答える。「それほどの大問題ではないでしょう。人口のある程度多い国では、年に二、三度こういった事件が起きているはずです。ただ国家的な陰謀により、報道されないだけです。超常現象専門誌も各国にあります。つまりですね、前例のある事件に関しては、マスコミ記者の仕事熱はさして上がらないはずなんです。読者のテンションも同じように上がりません。つまり、このくらいの非日常体験に飽き飽きしているわけです。連中が取材に来ても、放っておけばよろしい。しかし、新聞社やテレビ局が、より多くの資料を持っているのも確か。奴らをうまく利用すれば、解決への手助けになるかもしれません」
内心では『警察の不甲斐なさを、多くの国民が改めて知らしめる』きっかけになってしまうことを恐れているだけなのかもしれない。このような解説不可能な事件は、今のところ、どの組織にとっても、一円の得にもならない事件のように思われていた。
「もしかすると、この国のあちらこちらで、すでに同じような黒い渦が当たり前のように観測されているのかもしれません。全世界の警察組織がその対処に苦慮している最中なのかもしれません。もっと巨大な渦、例えば、海底に棲む、怪物ダゴンが発生させるような、直径数十メートルにも及ぶ暗黒の大渦巻が、大都会のど真ん中に突如発生したとすると、周囲にいた通行人や乗用車を濁流のように飲みこんでいき、今現在、軍隊が出動するような大騒ぎになっているのかもしれないのです。そう、政府は市民にいらぬ動揺を与えることを極力避けるために、深刻な事態をひた隠しにしているのでしょう。実際には、このような事態は、世界のあちこちですでに起きてしまっていて、ここ数十年間にわたり、次々と発生する重力渦との明日をも知れぬ戦いは、勇敢な兵士たちの沈黙の中に続けられているのかもしれません。つまり、この世界は人知れず、存亡の危機に立たされていたことになるのです。情報が当局によって隠されて、まったく見えないということは、我々一般人にとって、もっとも憂慮すべき事態なんです」
通りがかりの歴史マニアの見物人がそう語った。普段は他人と議論するのは苦手なのだろうが、とにかく自分なりの結論を出してやろうと、息巻いているように見えた。しかしながら、その話は架空の方向にまで伸びていて、にわかには、信用しがたいものがあった。
こういった不毛ともいえる議論が続く中、警察関係者は皆、宙を睨みながら、何らかの方策をうつこともなく、ただ、立ち竦んでいた。しかし、その内心では、小うるさい肉屋と自称科学者を何とか黙らせてやりたいと思っているのかもしれない。
「ユークリッド幾何学やヒルベルトの公理でさえ、後の優れた研究者たちの前に敗れ去ったように、我々の常識や知識は、学術の進歩とともに、常に更新される宿命にあります。この理屈に従うならば、我々人類は、いずれ小学生にでも解けるような、単純極まる理論によって、相対性理論すら必要なくなる日がくるのではと想像すべきです。ありとあらゆる物体は、少なくとも、この地球上に存在する以上、重力には逆らえず、必ず地面に向けて落下する、という我々の内の最大の常識が、今まさに破られた、この一件はそんな瞬間なのではないでしょうか? しかしながら、この不可解な現象を前にして、必ずしも絶望に打ちひしがれることはありますまい。我々はその革新の瞬間に立ち会わせることができたのです。歴史の生き証人となるわけですから」
私が思うところでは、被害者自身はいったいどうしたいのだろうか? 地上に降りたいのか、それとも、屋上の方に戻りたいのか。彼の脳みそは今現在、いったい何を思っているのだろう? 少なくとも、野次馬の中では『これは自殺ではないだろうか……』と考えている人が多数派であった。ただし、どんな強い意見にも確証は得られなかった。この怪現象を体験した者が他に存在しないからである。決して手の届かないあの位置で固まっている以上、もはや、彼の意思を聴くことはできない。身体が空中に捕らわれたままでは、意見を述べることができず、かと言って、地上に落ちてしまえば、ほぼ確実な死が待っている。
私はこの意味のない議論から早く抜け出すために、やや小さな声で、「屋上で足を滑らせたのかも……」とささやく。しかし、そのつぶやきに対しては、誰からの反応もなかった。みんな、自分の意見を脳内でまとめることに集中している様子であった。突如として肉屋が彼の背中姿に見覚えがあると語り始めた。それによると、彼はマンションの住民ではなく、実際には、向かい側のマンションで働いている工事作業員のひとりではないかというのだ。「それは重要な証言だな」と沈黙を破って、警部がすぐに反応した。私は誰もが掴み損なっている重要な事実に縛られ、肯定も否定もできなかった。しかし、このまま黙っていても、いずれ、刑事たちに目を付けられてしまうかもしれない。さて、どこで動いたものだろうか? 大抵の難事件は登場人物たちの有力な証言の積み重ねにより、解決へと向かっていくが、この事件はおそらく、そんなにうまくはいかないだろう。
「今になって、あの渦の捕縛が解けたら、彼は真っ逆さまにここに落ちてくるわけです。我々はこんなに長い時間、ほとんど意味もない雑談を繰り返して、手持ち無沙汰にして過ごしていたのに、結局のところ、彼を救うことができずに死なせてしまう。明日の新聞の一面に、この一件の顛末が載れば、警察もその協力者にしても、世論から責任を問われかねないし、あなた方が通常の道徳心を持ち合わせているのならば、未来における彼の死に対して、何らかの責任を感じるべきなのです。分厚い羽毛布団やマットの準備を、今すぐにでも行うべきではないでしょうか?」
その意見には賛成派が多かった。だが、問題はいつ落ちてくるのか、ということだ。例えば、羽毛布団などを三日もここに放置すれば、ただ通行の邪魔になるだけではなく、地下から湧いてきたネズミどもに跡形もなく喰われてしまうだろう。誰かが不意にこんなことを言いだした。
「仮にですね、彼の身体の真下に布団やマットを敷くとなりますと、『現在からそれほど遠くない未来に、彼の肉体が地面まで落ちてくる』ことを前提にせねばなりません。先ほど、どなたかが仰られていましたが、ここまで落ちてくるのが千年や万年先なら、そのささやかな人助けは、そもそもまったく行えず、まるで無意味なものになるからです。それに例え、今現在、彼が生存しているにしても、あと数十年も経てば、さすがに寿命を迎えてしまうでしょう。死体は次第に腐りゆき、事態は次の段階に移っていくわけです」
これを語った歴史マニアは、持論をすべて言い終わると、黒いコートのポケットに両手を乱暴に突っ込んで、そのまま群衆をかき分けて立ち去ってしまった。これまで溜めに溜めてきた意見をすべて言い終えたことで、胸のつかえがとれたらしい。ここに集まった誰もがその図々しい姿勢を羨ましく感じていた。『自分の言い分だけ語って、早いところ、ここから立ち去りたい』は、今や、ここに集った全員の願望であった。
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