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身勝手な間借り人 第一話

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 いやはや、思い込みとは恐ろしいもので、人間というものは、――特に様々なシステムや道徳に守られていると信じ切っている現代人は――、例え自分の身の回りに不可解な出来事が起こっていたとしても、そのことにまるで気がつかなかったり、あるいは目には入っていても、意識には残らなかったりすることがあるものだ。特にそれが常に安全に守られていると思い込んでいる、自宅の部屋の内部で起こっていたりすると、余計にそうなのである。

 この不思議な現象というのは、本当にちょっとしたことであり、よほどボケっとしていなければ、誰にでも、普通に感じられることである。例えば、家を出て行くときと、外から帰ってきたときに、目覚まし時計の置き位置が少し違う気がしたり、クーラーを消し忘れて家を出たと思っていたのに、慌てて帰ってみたら、きちんと消されていたという経験は誰しもあるだろう。こういう小さな出来事の積み重ねを、自分の気のせいだけで片付けてしまうと、ここで後に紹介するような、社会の裏にうごめく恐ろしい組織の人間にとりつかれて、食い物にされてしまう可能性があるわけだ。私があえてこのことを文章にして、世間に向けて公開しようとするのは、決して、自分の間抜けっぷりを紹介したいわけではなく、自分以外の被害者を増やさないために他の人間に向けて注意を促す狙いがあってのことである。

 私はその日、朝7時にいつも通り家を出た。そのまま一人で商店街を抜けて、駅に着くと、いつもと同じ時刻の電車を待って乗り、いつもと同じ先頭車両の壁際の座席に座った。丸々一時間ほど電車に揺られた。目的の駅に到着すると、いつもと同じコンビニに立ち寄り、昼飯用に、いつもと同じサンドイッチとおにぎりを購入した。そして、いつもと同じ時刻に会社の受付を通り抜け、いつもと同じ清掃夫に挨拶をして自分のフロアに向かった。

 今思えば、私の日常の精密すぎる行動の一つひとつが、知らず知らずのうちに、彼ら悪の組織の狡猾な罠に嵌まる遠因を作ってしまっていたのだが、奴らの恐るべき行動力に気がついたこの日の午後までは、そんなことは露知らずだった。

 私は平日は9時から5時までの勤務で、これが崩されることは滅多にない。残業は月に三回あるかないかで、都心の繁華街で余計な遊びや外食をすることもない。ほぼ毎日同じ時刻に帰宅する。帰りも同じ時間帯の電車の同じ車両に乗ることが多い。ただ、この日は熱中症のせいか、朝から体調が少し悪かった。少しの頭痛や腹の痛みが感じられた。それに加えて、この日は仕事量も非常に少なかった。すでに夏休みに入っている顧客も多いせいか、新規の仕事も入って来ることはなく、仕事のほとんどは午前中に片付いてしまった。午後に入ると、ほとんどやることもなくなった。部内の他のスタッフとはかなり年齢が離れているので、雑談を持ちかける気もない。そういう事情も重なっていたので、午後3時になる前に、上司に思い切って早退願いを出してみた。ああ、思えば、時短を取っての早退など、実に数年ぶりのことであった。申請書類の書き方をすっかり忘れてしまっているくらいだった。上司も私から早退の申請書を受け取ると、さすがに、『ほう、珍しいな』という表情をしたが、仕事が少ないという事情はよくわかってくれていたので、快く了解してくれた。

 そういうわけで、私は燦燦と降りそそぐ太陽が、いつもとはまったく違う位置にあるうちに、会社を出ることができた。帰りの電車も空いていて、いつもよりずいぶん快適だった。一つの車両に三、四人ほどしか客が乗っていなかった。私は隣の座席の上に右手をついて、いつもはなかなか見られない窓の外の風景を楽しみながら、少し優雅な気持ちで帰路についた。自宅への帰り道、いつもと同じ酒屋の前の自動販売機で、ジュースを一本購入した。実家の両親からは、甘いものを摂り続けると身体に悪いからやめろと言われているのだが、この癖はなかなか直らなかった。

 自宅の前でポストを覗いても、自宅のドアの前に立っても、私は自宅の内部ですでに想定外なことが起こっているということに、何も気がつかなかった。驚いたことに、ドアノブに触ってみると鍵はすでに開いていた。出るときに閉め忘れていったのだろうか? そんな失態を犯したことはないはずだが……。それでも、私は何も不審だと思わずに、思い切ってドアを開いた。
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