守り神

つっちーfrom千葉

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守り神 後編

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 視界が暗くなると、山道の様相は一変した。高地ということもあってか、しだいに緑があまり見られなくなっていった。道の上に、何か、この先で役に立つ素材になるものを探そうとする者もいた。しかし、置き去りにされたような、数少ないすすきだけが、ただ、ふらふらと風になびいていた。すべての葉っぱの抜け落ちた老木と、吹き降ろすから風が、人の踏み込んだことのない山道の寂しさを強烈に演出していた。ここいら一帯は雑草や芝が伸び放題であり、獣道すら存在していなかった。そのため、初めて訪れる小太郎たちには進む方向すら全くわからなかったが、前を行く案内人の足取りには露ほどの迷いもなく、これまでの経験から、峠を抜ける方向に、おおよその見当をつけているに違いなかった。茶屋から半刻ほど登るころには、完全に日が沈んでしまっていた。否応なく失望は増していく。そして、目の前には広大な杉の林が姿を現した。

「ここからが栗殻峠になります」

 そう説明されるまでもなく、山全体が大量の杉をかぶせられたような、この光景を見せられれば、誰でも想像がつく。なるほど、これは栗の殻のようだと。草木を掻き分けて、杉林の中を覗き見ても、そこには方向を指し示す道が見えなかった。いや、古来より存在しなかったはずだ。隙間なくそそり立つ巨木たちと、足元に茂る雑草が、この先に希望を抱く人間どもの侵入を敢然と拒んでいるようだった。ここまでどんなに山道が険しくとも、常に一定の速度を保ち、力強く歩んできた旅人たちも、この現状を前に、さすがに臆したのか、そこで数人が自然と歩みを止めた。

「ここでは休憩を取りません。すぐに出発しましょう。大丈夫です。私の後をついてきてください。暗くて隊列からはぐれてしまいそうになったら、この鈴の音を目標にしてください」

 案内人はそう言って、背中に背負った革袋の中から細い木の枝を取り出した。その枝先には幾つかの古びた鈴がぶら下がっていて、彼が枝を振ると、ちゃりちゃりと鳴いた。

「これは私の故郷では守り神なんです。今日のために、神社でお払いをしてもらいました」

 後にして思えば、この言葉はずいぶん印象的だった。案内人は手に持った鎖鎌で峠の入り口付近の邪魔な古木を乱雑に切り倒していくと、躊躇せず杉林の中に踏み込んでいった。ここで遅れをとるわけにはいかない。あれこれと考える暇もなく、他の旅人たちも、後に続いた。

「おい、何も見えんぞ。みんな、どこにいる?」

 誰がそう叫んだのだろうか。真っ暗な林の中で、これまで心中に潜んでいた恐怖が破裂することになった。

「あ、足に、足元に何かいるよ!」

「前に何も見えねえぞ! おい、みんな、どこにいるんだ!」

 皆、自分だけは置いていかれまいと必死だった。漆黒の中、あちこちで杉の木に身体をぶつける音や、木の根っこや、まるで罠のように、わざわざ枝を伸ばす草木によって、足を取られ、転倒するような音が耳に届いた。

「落ち着いて。ここで慌てないでください。鈴の音を、鈴の音を聞いてください」

 案内人は皆にそう呼びかけながら、時々、右手に持った神木をちゃりちゃりと鳴らした。小太郎は周りの人間と違って、それほど慌てず、心中の慄きを声に出さなかった。ここは魔の峠である。このぐらいのことは事前に予想していたし、恐怖はあったが、すでに疲れもたまってきていて、不安や恐怖を表すことが、しんどかったからだ。ひたすら、視界にかろうじて入る、前の人間の両脚だけを見て、一定の速度で山道を登り続けた。なるべくなら、顔を上げることはしたくなかった。こんなに暗くては、そもそも、手がかりになるものが見えるわけはないし、第一、恐ろしかったのだ。もし顔を上げて、大蛇や鬼の形相が見えたとしても、どうにもならないのだから。足腰が弱ってきていて、自分を害するどんなものに襲われても、まったく逃げ切れる気はしなかった。この自分だって、少し、夜の山道を甘く見ていたのかもしれない。ぜいぜいと息を切らしながら、小太郎はそんなことを考えて歩んでいた。

 一刻ほど暗闇の中を登り続け、ふと振り返ってみたが、もう杉林の入り口は見えなくなっていた。周りはすべて大小さまざまの杉、そして足元には茫々と雑草があるだけだった。辺りを漂う空気は、どんどん冷たく、そして陰湿になっていった。もう、先ほどの茶屋にも、そして故郷の村にも戻れないのだ。例え、どんな手段を用いたとしても、誰に泣きついても退路はないのだ。小太郎はそこで初めてそんなことを考えた。少し胃袋が寒くなった。夜になって気温が下がったせいではない。それでも、彼の歩みは安定していて、他の旅人につられながら、真っ暗な杉林の中を懸命に突き進み、順調に目的地へと近づいているように思えた。

 しかし、その頃、後方にいる陽介の状況は、少しずつ悪化し始めていた。彼は足元をしきりに気にしていた。痛めた右足からは、ついに血が吹き出した。右足を引きずるようになった。それに伴い、歩む速度は確実に落ちていった。大きな岩に手をかけても、下半身に力が入らず、そそり立つ険しい傾斜を乗り越えられなくなっていた。暗闇にも次第に目が慣れてきて、自分の身が隊列から遅れ始めていることが、はっきりと認識できた。案内人の鳴らす鈴の音は、少しずつ遠ざかっていた。このままでは、やがて皆からはぐれてしまうだろう。前を行く仲間たちに置いていかれることは、直接の死を意味する。そんなことは陽介にも当たり前のように理解できているが、身体は空回りし、焦るたびに両足に余計な力が入り、山道をうまく捕らえきれなくなっていた。先ほどまで周りにいたはずの旅人たちの足音は次第に遠ざかっていった。

「もう、だめだろう」
彼はそのとき、そんなことを考えた。

『そんな危険なことはやめたらどうだい?』

 あのときの母の声がまた聞こえてくる。彼が栗殻峠へと出かけることを両親に話したのは、出発日の三日前になってからだ。案の定、両親はそれを聞いて絶句してしまった。容易には受け入れられないはずである。彼らとて、この家を継ぐはずであった大事な一人息子を、そんな危険な旅に簡単に行かせるわけにはいかなかったのだが、もはや出発日目前である。今さら止めたとて、頑固な息子の決心が揺らぐとは、とても思えなかった。

『それなら、死ぬことだけはやってくれるなよ』

 寡黙な父はそれだけ呟いて、おもむろに立ち上がり、寝所へ向かった。母は夜明けまでの長い時間泣いて、なんとかあきらめがついたようだが、『おまえ、危なくなったら、なんとか逃げてくるんだよ。逃げることなんて、両親より先に死ぬことに比べたら、恥ずかしくもなんともないんだからね』と真剣な顔で陽介に訴えていた。彼は逃げ延びてくることなど、いささかも考えていなかったが、母のため思い、その場は頷いておいたのだった。

 こんなことを思い出すこと自体、縁起のいいことではない。陽介は自分の死が確実に近づいていることを強く感じていた。俺はまだ若い、ここで死んでなるものかと、必死に皆の後を追いかけているつもりだったが、極度に悪い視界と、足元に生い茂る雑草に阻まれ、重心は安定せず、うまく足が進んでいかなかった。直後、目の前に巨木が現れ、身体はとっさに大きく右へ寄れた。その途端、地面の窪みに足を取られ、真後ろに転倒してしまった。陽介は焦った。心臓が高鳴った。彼は大きな荷物を背負っていたため、背中に負荷がかかり、うまく立ち上がれなかった。

「まずい、とんだことをしてしまった」

 陽介はそう叫び、半狂乱になって、足をじたばたさせたが、頭のほうに大きな力が加わっていて、立ち上がれる気配がなかった。一度背負っていた荷物を解こうとしたのだが、寒さで手が悴んでいて、それもうまく行かなかった。状況は刻々と絶望的になっていった。熱い脂汗が額を伝ったが、どんな手段を用いても、もはや、助かる見込みはなかった。陽介は右足を負傷していたことを思い出し、さらに暗い気分になった。このままでは鬼でなくとも、狼でも山犬でも現れれば、それで一巻の終わりだ。彼は最後の力を振り絞って大きく身体を左右に振った。彼の動きは、がさがそと茂みの中で大きな音をたてた。そして、次の瞬間、顔になにか生暖かいものが触れた。陽介は絶叫した。

「おい、おめえ、大丈夫か。こんなところで転んだのか?」

 かなり濁った声だが、それは間違いなく人間のものだった。その声に反応して、とっさに首を後ろに向けると、彼の視界には熊のような大男が映った。たしか、ここまでの道中のどこかで、彼の顔を何度か見かけたことがあった。その優しげな風貌が印象に残っていた。その男は陽介の肩を力強く掴むと、そのまま一気に身体を起こしてくれた。しかし、陽介には助かったという実感はあまりなく、しばらくの間、呆然としたままだった。

「おい、足を怪我しちまったようだな。大丈夫か?」

 彼は呆然としている陽介のことなど意に介せず、話を続けた。

「さっきまでは平気だったんだがね、今はかなり痛むんだ」

 輝く未来を懸けて、ここまで懸命に走ってきた者にしては、ずいぶん弱気な言葉だった。自分のふがいなさから関係のない男まで巻き込んでしまい、情けない思いでいっぱいになった。

「それなら、俺が右肩を支えてやるから、ほら、早く連中を追いかけよう。このままじゃ、追いつかなくなっちまうぞ」

 気優しい大男はそう言うと、陽介を連れて歩き出した。

「なあに、慌てることはない。この山の気配は異常だ。おそらく、魔物が出てくるのはこれからだ。前に行った連中だって、今頃どんな目に遭ってるか、わからんよ」

 その男も大きな荷物も背負っていたので疲労の色は濃く、表情もずいぶん険しかった。しかし、それを気にせず、窮地に遭った自分を助けてくれた。彼にはそれが嬉しかった。そして、この峠を抜けられたなら、必ずこの男に礼を言おうと心に決めた。今思い返してみると、陽介は誰かに声をかけられた瞬間に、小太郎のことを真っ先に思い描いたものだった。しかし、助けられてみると、その男は小太郎ではなかった。彼はそのことを強く意識したつもりはなかった。ただ、そのとき、ふとある思いが胸を突いた。

「小太郎は今頃どうしているだろうか」

 小太郎は先頭を歩く男たちにつられ、順調に峠の頂上付近にまで達していた。先程、下の方で、何かが転倒するような音が聞こえ、先導していた案内人は心配だからと、慌てた様子で、そちらの方へ駆けていった。しかし、それ以外の男たちは誰もそのことを気にかけなかった。それも当然のことで、もし、下の方で誰かが鬼に襲われていたとしても、助けようがないのだ。ここにおいては、勇気や善行などといった言葉は完全に無益であり、単純に危険である。一時の感情から、そんな行動に走れば、自分たちまで危険に巻き込まれてしまうことだろう。そういう思いから、先頭を歩く彼らは助けに向かわぬどころか、かえって歩む速度をあげたものだった。

 小太郎にしても、一度は下で倒れたのが陽介かもしれないという憶測が脳裏をよぎった。しかし、彼は立ち止まるどころか、後ろを振り返ることもしなかった。仕方がないからだ。そう、命と尊い成果を引換にする、こんな状況にあって、命運尽きて死んでしまうような人間は仕方がないのだ。ここでは一人一人が自分だけは峠を越えられればと、そう思い込んで進んでいく他はない。その考えはきっと正しかったはずだ。しかし、山頂付近の酸素は薄く、すでに目が霞むほどに疲れきっている、彼らの息をさらにか細くした。

「厳しいなあ……」

 彼のそばで誰かがそう呟いた。わざわざ、この場面でそんな台詞を聴かせる意味は何もなく、当てのない山道の、あまりの過酷さから、思わず口を飛び出した言葉だと思われる。小太郎はそのことに強く共感した。もはや、両腕や膝は思うように動いてくれず、心臓はどんどんと高鳴っていた。これが無謀な旅行や軍隊の行軍であれば、とっくに倒れている。眼前に微かな未来が見えるから、そして、後ろから悪鬼が追ってくると感じているから歩けるのである。

「しんどいなあ……」

 ついに彼の口からも、そんな弱音が漏れ出した。漆黒の空を見上げると、いつのまにか、目立っていた雲たちが流れ、風の向きが変わっていた。

『そんなにしんどいなら、やめてくださいな』

 彼は不意にそんな言葉を思い出した。なぜか、懐かしい匂いがした。今朝、恐怖のあまり、玄関でうずくまった彼に、妻はそう声をかけたのだ。それを聞かされた夫は逆上して、妻を思う様に罵倒し、挙句の果てには蹴り倒してしまった。ああ、全くなんて事をしてしまったのだろうか。ただ、自分の決意を歪める言葉が許せなかっただけなのだ。そんなことまでするつもりはなかったのに。今朝の挨拶は今生の別れでもあった。夫婦としての最後の朝くらい、笑顔で家を出てくればよかった。

 今は激しく後悔していた。狭灘に行こうと決めた、ちょうどその頃に、生まれの村に妻を捨てていくことを冷静に決意した。この人と決めた女を嫌っているわけはない。ただ、彼女の手を引きながら、あるいはその身を背負いながら、栗殻峠を越えられるわけがなく、それに、たとえ狭灘に着けたとしても、一生村に戻ることは出来ないのだ。妻には面倒を見なければならぬ両親もいるし、自分の他にも連れ添ってくれる男はいるだろう。彼女のことは諦めるほか仕方がなかった。しかし、出発日が近づくにつれ、自分の妻を村に置いていくということが、ことのほか辛くなった。狭灘までたどり着くことができれば、どうあれ、自分の夢はかなうのだろう。しかし、同時に大事なものを捨てなければならない。彼は決心の日からは、次第に物思いにふけることが多くなっていった。ここ数日の彼のそうした態度を見て、妻もこれが夫との今生の別れだと気がついたらしい。だから、別れ際、そのようなことを言ったのだろう。

 彼は硬く尖った山道を這うように歩きながら、そんなことを思い返していた。次第に嫌になってきた。危険な道を歩くのが、この無法な暗闇に怯えるのが、そして自分の命を賭けてまで、無謀な旅を続けることが嫌になってきた。そうだ、狭灘に着いても、しばらく時間が経ったなら、自分は戻ってこよう。もう一度、土産を携えて村に帰ろう。そして妻に謝ろう。彼は案内人との約束をいつしか忘れ、そんな不毛なることを考えるようになっていた。そして、その考えが自分の気持ちを守ると思い違いして、安堵するようになっていた。そして、それは極めて危険な感情だった。

「おうい、大丈夫ですかー」

 坂の上方から、風に乗って、そんな声が聞こえた。やがて、近くの茂みが激しく揺れた。木々の隙間から案内人の心配そうな顔が覗いた。彼の存在を知って、陽介は胸をなでおろした。これで助かるはずだ。自分はずいぶん運がよかった。

「おお、足を負傷してしまいましたか。でも、大丈夫ですよ。もうすぐ、山の頂上です。そこからは緩やかに下るだけですから。他の方は、おそらく、もう峠を抜けている頃でしょう」

 案内人はそのような創られた言葉によって、過酷な状況にある陽介を励ました。もちろん、怪我人を背負ってしまった、今の状況はまったく楽観視できるものではなく、ここにいる二人が助かる可能性はそれほど高くないと見ていた。だが、そんな非礼な思惑を少しも表情に出してはならないと考えたようだ。彼は落ち着いた動作で腰の袋から数枚の布切れを取り出し、それを陽介の右足に素早く巻きつけた。

「これで大丈夫でしょう。血さえ止まってしまえば、この程度の怪我は思ったほどの重荷にはならないですよ」

 この男はなぜ同じようなことを何度となく言って、自分を安心させようとするのだろうか? 陽介は少し不気味に思った。三人で生い茂る草木を掻き分けながら、さらに奥地へと進んだ。陽介は少しあたりの様子を気にしてみた。なぜか、何ものかに見られているような気配を感じるようになった。そういえば、峠に入った頃は多少なりとも鳥や小動物の声が聞こえてきたものだった。しかし、今は自分たちが落ち葉を踏みつける音と息を吐く音しか聞こえなくなっていた。

「おいおい、ずいぶん静かになっちまったなあ」

 助けに来てくれた大男も、隣で同じことを考えていたようだ。そのまま、ふと首を右方に向けると、いつのまにか案内人の表情が先程とは比べものにならぬほど険しくなっていた。おそらくは、彼も感じていたのだろう。我々を見つめ、監視し、あざ笑い、その微かな隙を伺っている、悪霊の存在に。

「この場所を離れたほうがいいようです。少し急ぎましょうか」

 彼は突然そんなことを言い出して、陽介の左手を強く引いた。

「そうだな、そろそろ急がないと、前のやつらに追いつかなくなるぞ」

 大男も案内人の判断に賛成した。しかし、陽介は今どきになって歩く速度をあげることには、なにか他の理由があるような気がしてならなかった。自分の足の状態を知っているはずの人間の言葉としては、少し違和感を感じた。

「あまり動物たちの声がしなくなりましたねえ……」

 沈黙が続くことに恐れをなして、案内人にそう声をかけてみた。

「動物たちは、すぐ側に、確かにいるんですよ。でも、彼らだって声を出せないのです。この近くまで危険が迫ってますから」

 案内人はそんな説明をした。相変わらず言葉が足りないと思えた。そして次の瞬間、「うっ」とうめき声をあげ、隣を走っていた大男が前方に倒れ伏した。

「どうしました」案内人は急を知って駆け寄る。

「うわっ、なんだ、変なものに足を掴まれちまった」

 彼は先程とは打って変わり、かなり動揺していた。

「何に掴まれたんですか? 動物ですか?」

 陽介はいまだにこの恐るべき状況を把握できておらず、のんきにそう言うと、腰を少しかがめて、何の気なしに男の足元を見ようとした。

「見てはいけません。離れなさい、危ないですよ」

 突然、案内人がそんな大声をあげて、陽介を藪の中へと突き飛ばした。そして、そのままの勢いで脇差を引き抜き、大男の足を掴んでいる何かを切りつけた。ぐしゃという音がして、黒いものが飛び散った。夜陰にあって見えなかったが、それは多分血だろう。陽介はなぜかそんな気がした。案内人は素早く刀をしまって、うつむき、手を合わせて経を唱えていた。もはや、腰に力が入らず、地べたに座り込み、唖然としている陽介のところまで、彼が小声で唱えるお経の声が響いてきた。やがて、それが終わると、助けられた大男は顔を強張らせたまま、ゆっくりと立ち上がった。

「なんだ、今のは……、地面から飛び出してきたのは、人間の手だったぞ……」

 その声も身体も震えていた。陽介も再び立ち上がり、いったい何が起きたのだろうかと、案内人が何かを切り捨てた場所を恐る恐る覗き込んでみた。

「見てはいけませんよ!」

 その瞬間、横から案内人がそう叫んで、陽介の腕を掴んだ。しかし、陽介は一瞬だけそれを見てしまった。地面の上に転がっていたのは、たしかに、人間の手のようなものだった。それだけではない。そのやつれ切った、醜悪な手の風貌は、ある恐るべき予測を想起させることになった。しかし、そんな筈はない。彼はとっさに自分の思いを吹き消そうとした。これ以上の恐怖は、とても背負えない。そうするしかなかったのだ。

「峠に入る前に説明したはずです。多くの方がここで亡くなったと。あなた方も亡者にならないように気をつけてください」

 この冒険の冷淡な結末から見た場合、この体験は幸いだった。そこから三人は一刻も早くこの峠から去るべく、がむしゃらに登り続けた。特に陽介は地面から生え出た、かつての落伍者の手を見て、返って開き直ることができた。自分の足の痛みも忘れることができた。もう、余計なことを考えるのはよそう。故郷の母も、暗く道を塞ぐ森も、仲間だったはずの小太郎のことも。この薄気味悪い森さえ抜けてしまえば、恐怖や迷いは確実に去る。そして、再び、命を奪われることのない、安閑とした日常が返ってくるのだ。今は前を向くしかない。懸命に進んでいくことしか、今の自分に出来ることはない。迷いを捨てた陽介の足取りは軽く、前を行く他の旅人たちに迫りつつあった。

 長い戦いの時が過ぎ、その中で、何度となく鬼も魔物も現れたのだろうが、夜明け頃になって、ようやく未来を目指して走っていた、この一行は、この果てしない苦しい旅を終えようとしていた。一番先頭を歩く男たちにも、その歩みを緩やかにして、雑談を交わすほどの余裕が生まれていた。

「少し明るくなってきたな。もう、ここまで来たなら、さすがに大丈夫だろう」

「うむ、以前と比較して、ずいぶん静かになってきたしな」

「おお、あそこが出口じゃないのか?」

 その中の一人が森の奥深くから差し込んだ一筋の光を指差して、半ば楽観的にそう言い放った。多くの者がその光に自身の勝利を確信した。そんな皆のやや希望的な声を聞いて、小太郎もこれまでになく安堵し、自然と口元には笑みが浮かんだ。向う見ずな旅人たちを祝福する、朝の陽が昇り始めた。それに応じて、木々の隙間からは透き通った光がこぼれ出した。そうして、夢幻のように、じんわりと辺りの景色が見えてくると、もう、この大森林も怖いものではなくなった。

「やはり、そうなんだ! あれが出口だ! 狭灘に着いたんだ!」

 先頭の男が、ほとんど狂ったようにそう叫ぶと、突如走り出した。それに続き、周りにいた男たちも我さきにと、その光に向かって駆け出していった。だが、小太郎はなぜか走る気にはならなかった。何かを目指して駆けていく男たちの表情は真剣そのものだった。それは最後の闘争であり、すでに目的地に着いたという、安堵や緩みがいささかも感じられなかった。取り残された小太郎は、そのことがまた不思議でしょうがなかった。彼は折り悪く気がつかなかったようだが、それは人間の未来への執着心から来るものだった。他の者たちは少なくとも、今このときまで自分の命を守り続ける気持ちを絶やさなかった。これはもちろん、心に秘めた希望を未来へと繋げるためであり、それ以外のことは考えていなかったのだ。しかし、小太郎は他の旅人たちが全員走り去ってしまっても、それを追いかける気持ちにはならなかった。相変わらず下を向いたまま、ゆるゆると必要のない考え事をしながら歩き続けていた。もう、目的地にたどり着いたのだから、そんなに焦らずとも良いではないか。おそらく、彼はそう考えていたようだ。これは気の緩み以外の何ものでもなかった。ここに来て、あえて言うまでもなく、未来を賭けたこの旅は、まだ、何も決着していないというのに。彼は不意に腰に手を当てた。

「あれ、あのお守りはどうしただろう」

 その場で立ち尽くし、一人でそう呟いた。今朝の出掛けに逆上して妻を突き飛ばしたあと、玄関にお守りを置き忘れてしまったことを思い出した。そして、突如、信じがたいほどの寒さに襲われた。彼はその顔を強ばらせ、完全に立ち止まってしまった。そのとき沸き起こった記憶は、前の晩、妻から手作りのお守りを手渡されたということ。そうだ、そのときからだ。迷いが始まったのは。彼はまた余計なことを思い出し、ほとんど意識なく後ろを振り返った。そしてまた独り言を呟いた。

「そうだ、陽介はどうしたのだろうか」

 彼がここまで追いついてくれば、一緒に狭灘にたどり着き、喜びを分かち合うのも悪くない。しかし、後ろからは誰もついて来ていなかった。気がついてみると、彼を取り囲む杉林は、ずいぶんと静かになっていた。しばらくの思案のあと、小太郎は仲間のことを半ばあきらめ、再び前を向き、一歩踏み出した。だが、次の瞬間、大地の窪みに足を取られたのか、派手に転倒してしまった。

「いかん、いかん、考え事をしていたからだな……」

 彼は自分を励ますように少し苦笑して、服についた砂を払い、起き上がろうとした。当然だが、簡単に立ち上がれるはずだった。しかし、その右足は思いのほか深く大地に突き刺さってしまったようで、うまく引き抜けなかった。

「根っこだ。木の根っこに絡まったんだ」

 彼はどうにか自分を安心させようと、そう独りごちて、再び下半身に力をこめたが、その窪みに捕られた右足はまったく動かない。どうしても動かないのだ。だが、彼はこの事態にも、あまり動揺していなかった。もう森の出口も、はっきりと見えていることだし、自分の明るい将来は、あらかた約束されていると、そう思い込んでいたからだ。この死霊の森に、初めて足を踏み入れたときのような、研ぎ澄まされた集中力が、疲れ切っている今の彼に、あろうはずもなかった。何度も何度も、額に冷たい汗を流しながら、窪みから足を引き抜こうと努力してみて、彼はようやく事態が切迫していることに気がついた。右足が蔦や木の根に絡まっているのならば、少しは動かせるはずである。だが、その窪み、いや穴に捕られた右足はどんなに力を込めても、まったく動こうとしなかった。

「これは、いったい、どうしたというんだ」

 彼はさすがに疑念を持ち、その中を覗き込もうとした。その穴はさして深いわけでもなく、少し腰をかがめただけで、その底まで一望できた。そうやって、穴の底をよく見てみると、彼の足は気の根っこに捕まっていたのではなかった。掴んでいたのは人間の手だった。土気色をした人の手が彼の足を押さえつけているのだった。

「なんだ、こいつは……」

 自分が発したはずのその声は、今まで聴いたことのない音質だった。まるで腹の一番底から自然に湧き上がった来たような。彼は自分でそれがわかった。そして、生まれて初めて心底恐怖していることも。それを見た瞬間から、顎と首が同時にがくがくと震えて、声を出すどころか、身動きすらもできなくなってしまった。

「くそ! くそっ!」

 そう叫びながら、必死に取られた右足を引き抜こうとしたが、何ものかによって、がっちりと掴まれたそれは、もはや自分のものではなかった。仕方なく、彼は懐に手を入れ、用意しておいた短刀を探った。それで右足を切断してしまえば、とりあえず、この場は助かるかもしれないと、そう考えたからだ。彼は短刀を引き抜き、自分の右足を切りつけるべく身構えたのだが、そこで動きを止めた。自分の足を切り裂くということに若干の躊躇があり、なかなかそれを振り下ろす気にもならなかったのだ。こんな痛ましい思いをしなくとも、無事にこの危機を回避する方法が他にあるような気がしたからだ。そうだ、考えようによっては、まだ後方に案内人や陽介が進んでいるはずだし、彼らがここを通ったときに、助けを求めれば無傷で助かるのだ。ここで焦ってはいけない。彼はそんなくだらないことを考え、短刀をしまってしまった。しかし、その直後、状況が一変した。足を掴んでいた悪霊の手が、もの凄い力で彼の体を引き付け始めたのだ。彼は慌てて、近くの大木にしがみついた。しかし、そのときはもう、彼の右足は膝まで地面に引き込まれてしまっていた。

「まずい!」

 彼はようやく自分がどういう最期を迎えるのか理解できたようだ。額から静かに静かに血の気が引いていくのがわかった。小太郎は大木を掴む両手に懸命な力を込め、全身から脂汗を流し、必死の形相で自分の身体をなんとか引き上げようとした。すると、わずかだが、こちらの力が勝ってきたようで、少し彼の右足が地面から戻ってきた。

「ようし! この意気だ」

 彼は恐怖をひた隠し、自分を懸命に励ましながら、額を汗びっしょりにして、右足を引っ張り続けた。しかし、ふと、今度は腰の辺りに違和感を感じ、顔をそちらのほうに向けた。

「げっ」

 それを見て絶句した。いつのまにか、地面からもう一本の腕が生えてきて、腰の部分を押さえていたのだ。再び、恐怖と焦りが増大し、今度は下半身にうまく力が入らなくなってきた。恐怖に負けた精神が集中できなくなったのだ。これがいったいどういう現象なのか、自分を引っ張っているものたちは何ものなのか。彼にはそのことすら理解する暇がなく、対応する策を考える余裕もなかった。彼が上を見上げると、大杉の枝に飢えた烏が数多集まってきていた。やつらはこんな光景をすっかり見慣れているから、これから人間が死ぬことがわかるのだ。そんなことを想像してしまうと、絶望感で胸が押し潰されそうになる。否応なく、弱った身体は地面にずぶずぶとめり込んでいった。しかし、腰の部分まで地面に埋まってしまっても、彼はまだあきらめるわけにはいかなかった。こんな状況においても、必ずや、なにか、助かる方法があるはずだと、必死になって自分の運命に抗おうとした。彼は命綱を放ってくれる助け舟を求め、辺りを見回した。するとそのとき、遠くの方から、ちゃりーんという本当に微かな、懐かしい音が聞こえてきた。

「しめた、あれはたしか……」

 小太郎がそう呟いているうちに、後方から、確かな人間の足音が聞こえてきた。その足音は独りの人間のものではなく、明らかに何人かの男が連れ添って走っているのだ。

「よし、これで助かった」

 彼はすでに肩の辺りまで地面に沈められていながら、まだ、そんな楽観的なことを考える余裕があった。やがて、自分の左後方に、三人の黒い影が走っているのが見えてきた。少し距離はあるが、大声を出せば十分気づいてくれるはずだ。

「おおい、ここだー、助けてくれー」

 小太郎は身体に残された、あらん限りの気力を振り絞り、これまで溜めておいた、すべての言葉を喉から出し切るようにそう叫んだ。しかし、三人の中の先頭を走る一人がちらりとこちらを見ただけで、彼らは方向を変える素振りはまったく見せなかった。誰ひとり、助けにきてくれる様子はなかった。あるいは聞こえなかったのだろうか。

「おおい、どうした、聞こえんのか、こっちだー」

 小太郎は再び全身全霊の叫び声で呼びかけた。声はほとんどかすれていて、風か雨か判断がつきにくく思えた。足音がさらに近くなってくると、はっはっという三人の激しい呼吸音が、小太郎の耳元まで聞こえてきた。そのとき、眼の前に三本目のおぞましい手が現れ、小太郎の髪を掴んで、勢いよく引っ張った。彼の首はその勢いで反転し、通り過ぎてゆく三人の姿を間近で見ることができた。小太郎はその中に陽介の姿を見つけた。彼は痛んだ足を引きずりながらも、他の二人に支えられ、懸命に走っていた。その顔に妥協の色はなかった。自分の半端な思いなど届かないはずだ。陽介や他の旅人たちは自分が生き抜くことだけを考え、自らの希望や夢のためだけに走っていたのだ。

 小太郎はもう叫ばなかった。抵抗することも止めた。そうだ、自分が考えていた妻や狭灘やこの杉林の恐怖のことなど、すべて、現実のものではなかったのだ。本当の現実は、こんな悪鬼の巣食う森にありながら、生き方に、より多くの選択肢を残し、なるべく楽をしようと甘えていたため、命を落としかけている、今のこの姿だけなのだ。なぜ、そのことにもっと早く気づかなかったのか。彼の心から、あるものが去っていった。そして間もなく、小太郎の身体は、声も光も届かぬ暗黒世界の中に引きずり込まれていった。

 杉林の外は快晴であった。早朝で気温はまだ低かったが、鋭く幾重にも降り注ぐ太陽の光が、凄惨な戦いを終えて森を抜けてきた勇気ある旅人たちを暖かく迎えた。最初に林を抜けた男は、何かに捉われたように、ぐるぐるとあちこちの風景を見回していたが、まだ信じられないというように、しばらく呆然と青い空を見やった。やがて、次々と後続の旅人たちが暗い森からその姿を現した。疲れのためか、あるいはあまりの状況の変化に頭が対応できないのか、皆きょとんとした顔で立ちすくんだり、幼児のように辺りをきょろきょろと見回したり、先ほどまで、命を賭して、見えぬ不安や恐怖と戦っていた人間とは思えぬ落ち着きぶりであった。やがて、一人の男が前方へと歩み、この先にはいったい何があるのかと、木々の間から遠くの方を覗き見た。

「あ、おい見ろ、あれは狭灘だ、狭灘の町が見える」

 その男の鮮やかな声は、空に響き、全員の意識を覚まさせるには十分の大きさだった。一斉に男たちが駆け出した。彼らは先を争うように、良い景色の見える場所へと殺到した。そこは丘陵になっていて、生い茂る木々の隙間から狭灘の城下町が一望にできた。これまで一度も寂れ果てた村の外へは出たことがない彼らにとって、その光景は別世界であったに違いない。そして、そのまま彼らの未来であると言ってもいい。巨大な城を瓦屋根の屋敷が幾重にも取り囲んでいた。大波が蒼いしぶきを上げる、広大な海も見える。それだって、彼らにすれば初めて目にするものだ。港には伝え聞いていた鋼鉄船の姿があった。

「いやあ……、しっかし、でっけえ船だ。あれは、いったい、何をするんだろう……。まさか、あれで魚を捕るのかな?」

「あそこで煙を噴出している屋敷はいったいなんだ? あれが銭湯か?」

「ばかだな、あれは鍛冶場というやつだ。あそこで鋼鉄を焼いたり切ったりするのだそうだ」

「そうか……、あとでちょっと覗いてみよう」

 各々の心で先程までの恐怖感は朝霧のように消えつつあり、それと同時に希望が少しずつ膨らんでいた。美しく建ち並ぶ、華やかな城下町の景色を見て、彼らの現実感も次第に戻りつつあった。森の中での数々の悪夢は、すでに過去のものだった。そして、やはり現実のことではないのだ。これまで夢破れて命を落とすことになった、多くの旅人たちからみれば、それは素晴らしいことだった。しばらく時間が経ち、陽介も杉林を飛び出してきた。待ち受けていた者たちは、笑顔で手を振り、彼を迎えた。一緒に苦労を分かち合った同士と一頻り喜びあうと、彼も狭灘の街のことが気にかかり、多くの勇者が待つ丘陵へと歩を進めた。そして、他の旅人たちを押しのけると、一番よい場所へと自分の身を滑り込ませた。

「おお!」

 彼もまたその壮大な光景に目を奪われ、感嘆の声をあげた。陽介は過去の多くを過ごしたはずの故郷の姿を、もう思い出さなかった。栗殻峠での幾多の危機もすでに忘れてしまっていた。一緒に生存を誓ったはずの小太郎のことなど、彼の頭の中に一欠けらも残っていないだろう。非情さからではない。目の前に希望があるからだ。

 陽介はしばしの間、なにも言わず、じっと狭灘の町を見据えていた。そして、自らの新しい生活と輝ける未来に思いを馳せていた。
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