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救世主は何処に現れる 第三話

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「先生、最後に会ってから丸二年は経っているはずなのに……。この人混みの中で見つけられたんですか……、よく、私の顔を覚えてましたね……」

 鎌をかけてやろうと、まずは、そう声をかけてみた。先生は顔を一度くしゃっと歪めてながら、にっこり笑ってみせた。偶然ここに居合わせたわけでないことは分かっている。こちらの風聞をある程度は把握したからこそ現れたのだろう。しかし、助けに来たにしても、いったい、どの程度、こちらの事情を知っているのだろうか?

「確かに多くの顔を世に送り出してきたが、出来の悪い奴ほど忘れられんもんだ。なあ、卒業生は皆、いい経歴を掲げて社会に出ていくわけだが、外に出てしっかりと活躍できる奴よりも、自分の理想通りにはいかず、行き場を失くしてしまう奴の方が、遥かに多いんじゃないのか? 景気の具合はさして関係ないと思うがね。わしはもう四十年も、他人の人生を左右する、こんな嫌な仕事を続けているわけだが、日常生活も勉強も人間関係も、それ以外の諸々のことも、完璧にこなせる生徒には、ついぞ出会ったことはないよ。わしも教授会に出れば、「お前の方針はまどろっこしい!」と、いつも散々に非難される側でね……。鼻つまみ者というわけだ。だから、お前さんの気持ちは、よくわかる」

「思想問題で教授連と対立して、二度ほど休学処分になったミッドとか、暴力沙汰で内定を取り消されたマッジは、今どうしてるんですか? ちゃんと食えているんですかね? 卒業後、酒屋の配達員になったと聞きましたが、その後のことは……」

「いや、きっと、大丈夫だよ。みんな頑張って生きている……。わしは別に全員に大企業の役員になれとか、スポーツマンとして成功しろとか、国家から表彰されるような人物になれ、なんて送り出した覚えはないぞ。みんな、ひとりの存在として、地道に生きておるよ。そういえば、二年ほど前、寂れたアパート街の一角で、ビール瓶の詰まった箱をトラックに運んでいるマッジと顔を合わせたが、わしの方に気づくと、きちんと帽子を脱いで挨拶してみせたよ。なんのなんの、あいつもずいぶんと真面目になったもんだ……」

 間髪入れずにそう切り返すことで、教授は深刻さを吹き消そうとしているかに思えた。彼らの現状をそのまま伝えたなら、目の前の相手の心情は、さらに深く侵されることを危惧していたからだ。

「私と同じゼミに、たしか……、ジム・キャリーって名前の子がいたでしょ? あまり喋らない子で、かなりやせ細っていて、口数の少ない目立たない生徒でした。たしか、週末ごとに、美術系のサークルに通っていましたよね。彼女とは、ほとんど会話を交わさなかったので、印象は薄いんですけど……。最近になって、妻の知人から伝え聞いた話では、二年前ほど前に乳がんが見つかったそうですね……。しかも、かなり進行していて、もう、手術は出来ないだろうって……。同年代が卒業後まもなく、命の危機に瀕するなんて……。あの子のその後の話は、怖くて聞いていないんですが……。先生なら知っているんでしょう? 彼女はその後……」

 教授は一度だけしっかりと頷くと、あとは沈黙に落ちていった。二三年の間に、数千人の卒業生がいるとするなら、数年も経たぬうちに、そのうち数十人の身の上には確実に不幸が訪れるだろう。それは非常に単純な確率の問題であり、宝くじの当否や受胎の有無と同じである。しかし、その不幸を伝え聞く関係者側の人間は、「うちの子が難病の宣告を受けたけど、これは確率の問題だから、仕方ないわ」と、安閑としていられるわけではない。当人と同じくらいの苦しみにのたうち、さい悩まされる人だっている。友人や知り合いの絶望は、その関係者にとっても、少なからぬ動揺になる筈だ。この自分だって、一歩、また一歩と、やがては、否応なく死の世界、極大ともいえる沈黙の世界に落ち込んでいくべく、歩みを進めていくことを実感する。身近の人の不幸に接するたびに、嫌でも、そのことを意識せざるを得ない。そんなことに思いを巡らすと、この場の空気はさらに沈んでいき、もはや、どんな聖人の説諭をもっても、立て直せそうにはない。そんなとき、窓の外で肩を組みながら、明るくはしゃぎ、楽しげな様子で歩いていく若者たちを指さしながら、教授はこう笑いかけた。

「今日は人が多いな。何しろ、ダービーだからな。みんな心が浮き立ち楽しそうだ。人間にとって、お祭りは大切だからな。大勢の人と声を合わせ、日常を離れて発奮すると気が晴れるよな。君はどうするんだ、今回はまったく賭けないのか? 風の吹く芝生の上を綺麗な馬たちが駆けていくのを見ると、わしなんかは清々しい気分になるぞ。とりあえず、エプソム競馬場まで行くだけ行って、レースを見たらどうだ?」

 彼が述べた通り、メインレースの時刻が近づくにつれて、窓の外を歩く人は増え、ますます賑わっていた。真っ白なTシャツ一枚で通りをうろつく若者たちも、オシャレに自転車を乗りこなして、グループで和気あいあいとした女性グループも、みんな今日のレースのことを話題にしていた。恩師がギャンブルを話題に持ち出したことに、青年としては不快な思いを禁じ得なかった。

『それにしても、いったい、どういうつもりなのだろう? わざわざ、ここまで追ってきて話しかけてきたということは、こちらがギャンブルを発端にした不祥事を起こして、人の道を踏み外したことは、ご承知のはずだ。今日が大レースであっても、破滅間近の身の上で、嬉々としてこれに参加しよう、などと思うはずもないではないか。それなのに、このタイミングでわざわざダービーの話を持ち出すなんて……。いくら何でも非常識だろう……。今回の失敗談を語るだけ語らせて、後で卒業生みんなでパーティーでも開き、そこで嘲笑うつもりじゃないだろうな? いや、先生は人徳の士で広く知られている……。そんなふざけたことをするはずがない。こっちの心が後戻りできないほどまで腐ってきているから、相手の言葉がすべて魔物のそれに聴こえるのだ……。この街で唯一自分を思ってくれているこのお方を、もっと信頼しなければならない……』

「煉獄の窯の底まで堕ちてみると、ギャンブルをして気が晴れる人間とは、そもそも、大した悩みなんて背負ったことがないことが分かります。このレースが数週間前なら、自分も今ごろ競馬新聞を睨んでいたでしょう……。しかし、現在はもう、人生の崖っぷちです。これまで楽しかったはずのことが、すべて苛立ちに変わるんです」

 店内にいる他の客、つまり、職探し中の女性と競馬予想中の老人、そのふたりは、未だにこの場に居座っている。彼らを意識して、ずいぶん端の方に席をとったつもりだったが、遥か向こうで夢想に耽っている老人までは、この席からの声は届かないにしても、三十代の女性までは、わずか五歩程度の距離しかなかった。店内に入り、最初に座る席を探したときは、ふたりとの距離は、もっと大きく開いていると思い込んでいた。これまでの会話はすべて聴かれていたのであろうか? 教授がやや声を潜めて話しているのは、彼女の存在を意識してのことかもしれない。しかし、こんな最悪の人生、最悪の結末、今さら笑われても悔しくはない。それでも、一般人から見ても、明らかに成功していない連中にまで、後ろ指を刺されるのは腹が立つものだ。ありもしない噂までばら撒かれてしまうかもしれない。性悪そうなあの女が、他人のスキャンダルや失敗談だけを記事にして、何とか生き延びている、小さな雑誌出版社のやり手記者の一員だということはあり得ないだろうか? 落ち目のときは、そんな不安もどんどんと湧いてくる。くそっ、小さな不安が積み重なってくると非常に腹が立つ。

「お前さんは、自分の拙い過ちが、そういう立場を呼んだのだと口にしていたが、明らかにそうではないよな。長い人生の最中では、誰でも、一度や二度、残酷な運命の波間に追い詰められることにある。酷な言い方だが、運にも不運にも相当な偏りはある。飴を二回連続で与えられる人もいれば、何度も似たような不幸に小突かれる人もいる。だからな、真面目に生きていたとしても、人によっては、同時期に耐え切れぬ不幸が、三つも四つも重なって襲いくることは十分にあり得る。だがね、現実はぼかせない。結局のところは、ひとつずつでも、地道に片付けていく他ないよな。臆病な人も偉丈夫な人も、みんなそうして自分に迫りくる障害を乗り越えようとしている。自分の力で、いくつかの難題を素直に見据えて、それを何とか切り抜けたと思えたとき、初めて、他人の辛さに共感して、助けの手を差し伸べられる人間になるのではないかな? だからさ、今回の失敗も、お前さんだけが愚かなわけじゃなく、若さゆえに経験が足りないだけだと思うがな。周囲の人の上手なフォローもないと、人生というものは、中々上手く進まんからね……」

「しかし、若さゆえの過ちが決定的な挫折に繋がることも、ままあります。それに、たった一度の判断ミスから大事件に巻き込まれ、死刑判決を受ける羽目になる人もいるし、知らない間に体内で進んでいた急病により、若くして命を落とす人もいるではないですか。そういう哀れな人たちは、短い人生の中で、危機から身を守るための術(すべ)を身に付ける余地なんて、まったくなかったと思います」

 教授はそのタイミングで顎をその細い指で支えるようにして、青年の顔をさらにじっと見据えた。先ほどまでの人懐っこい朗らかな笑顔は、いつしか消えていた。

「それで、どうなんだ、君をそこまで追い詰めている、一番手前にある問題はいったい何なんだ? 一番先に向き合わなきゃならん問題はなんだ? まずは、それについて検討しようじゃないか。嫁さんと大喧嘩になった本当の理由は、いったい、どこにあるんだ?」

「言いたくはないです……。いえ、ここで話す必要はないと思います。どんなに追い込まれているとしても、それは、自分でやらかしたことですから……。自分の手で決着をつけます……」

「あの子は性格は大人しく、君に対しても従順であったはずだ。何事もなければ、自分から激しい喧嘩を吹っ掛けるような子じゃない。まあ、君についても同じようなことが言えるわけだが……。しかし、本来まともなはずのふたりが、そこまで揉めたからには、大きな原因があるはずじゃないか。差し支えなければ、ここで聴かせてくれんか」

 何とも言えぬ沈黙のときが訪れた。正直に話さねば解決には向かわないが、どう切り出せば、傷口をこれ以上広げずに済むのか……。先ほどまで、数歩先のテーブルに座っていたはずの女性客は、こちらの対話の澱んだ空気を肌で感じ取ったのか、いつの間にか、この店を後にしていた。話の流れに集中し過ぎて、レジに勘定の支払いにいく瞬間を捉えることもできなかった。「少し、気になってはいたが、結局、あの人の顔かたちは、まるで確認できなかったな……」と、混乱に揺らぐ頭の中を雑念が流れていく。店内を泳ぐ音楽(クラシック)は、やがてエルガーに変わり、派手な音響が、こちらの憂鬱な気分をさらに逆なでする。遥か向こうの席で競馬新聞を読んでいる老年の予想家まで、ここで話す声が届きはしないだろうか……。「あの男は聞き耳を立ててはいない」と、確信しているからこそ、教授はプライベートな部分まで踏み込んでいるのだろうが……。こちらとしては、カウンターの裏のどこかでサボっているであろう、数名の若いスタッフも含めて、一応は他の客が存在するこの場では話しにくい内容だった。どう話せば、自分の体面をなるべく崩さずに済んで、しかも、教授が助け舟を出す気になるのだろうか……。大まかな事実は正直に伝えつつ、オブラートに包んで……、ということになるが……。

「それが……、賭博で負けた金がかさんでしまって……。また、会社の金庫から、紙幣を摘まんじまったんです……、半年の間に三回ほど……。それで……、今度はですね、きっちりと上司にバレてしまったわけです……。犯行は従業員の中にいると確信していた向こうとしても、今回は容疑者は少人数に絞れていたようで、そろそろ、こちらが動く頃合いだと網を張っていたようで……」

 しどろもどろではあるが、自然と飛び出して来た、自分の冷たい声色に内心驚いていた。ここで恩師の耳に吐くべきか、それとも、警察の取り調べに対して吐くことになるのか、だけの違いであったわけだが。

「生まれつき繊細な心を持った子が、幼少の頃に何らかの形で精神的なショックを受けると、高確率で極度の人間不信や盗癖が出てしまうからな。ただ、これは個人の責任ではない。両親や兄弟を含んだ家庭での接し方や、友人を上手く作れるか、しつけの問題なども大きく影響するのだが、そうなると、これを学校や家庭の問題だけでくくるのも、おかしい話になってくる……。家庭内での問題も、学校教育も、広く見れば社会全体の動静に揺り動かされているわけだからな……」

 先生は自分の愚行を必死にかばおうとしてくれている。だが、今度ばかりは完全な形で職場に復帰することは難しいだろう……。最高に上手く進んでも、諭旨免職にはなる。素行の悪い知人の口車にうかうかと乗ってしまい、たった数か月の間に、犯罪の泥沼に腰まで浸かってしまった。当然のことながら、その悪い繋がりすらも、上司にはすぐに露見した。奴は精神が常に不安定な自分の行動を、最初から疑ってかかっていたのだ。金庫の暗証番号を知っている者は、ごくごく限られた社員だけだったので、出張や業務のための外出などで、アリバイが成立した社員たちは、次々と容疑者リストから除外されていった。本格的な社内捜査から二時間も経たないうちに、疑惑のリストに残ったのは、自分だけになった。

 社長は冷静沈着な態度で「盗みを働いたことの言い訳は聴く必要がない」とだけ述べた。クビにするかどうかの検討に入る前に、自分が金庫から持っていった会社の運転資金を即刻返すように要求してきた。もし、それが可能であれば、警察に通報することだけは勘弁してやる、とも語っていた。ただし、次の働き場所は自分の力で見つけろと……。労働者の味方を標榜するうちの企業でも、反抗者に対して、そこまで甘い顔はできないらしい。それを言い渡された頃には、主犯である悪友は、会社から盗んだ金を、そのさらに知人の汚れた手に、すでに渡してしまっていた。犯罪を主導した人間たちとはまったく連絡がつかない状態であった。自分だけが刑法と社内規則の狭間に取り残される形になった。クビにされると、そのまま、身の破滅に繋がる。しかも、盗んでしまった金を返す当てがないでは、身の振り方すら決めることができなかった。

「それで、悪事は嫁さんにもバレちまったんだろう? 彼女は何と言っていた? 素直に許すわけはないよな。張り手を喰らったか、派手に泣かれたのか、すでに田舎に帰ってしまったのか、それとも、頼むから離縁してくれと迫られたのか?」

「あまり、覚えていませんが、そのすべてを含んでいるかもしれませんし……」
 青年はあまりに突然で残酷だった家庭崩壊の瞬間を脳裏に思い起こしながら、静かな口調でそう答えていた。

「先生、結局ね、俺はこの仕事に向かないんじゃなくて、社会全体から必要とされてないんですよ。だから、この先でね、どんな立派な職を見つけたところで、何年か先には、やっぱり、同じような結末が待っているんです……。どうせ、どの職場にも他人の能力や人格について、偏った評価をする人は少なからずいる。ありもしないことをネタにして、想像を糧に陰口を叩く人もいる。社会の中に居場所を求める以上、人間関係から生まれるストレスは必然であり、どうあがいても逃れられないわけです。これを短い休日の時間だけで解消するには、結局のところ、ギャンブルに熱中するしかないわけでね……。もう、厳しい競争や規律には戻りたくない……。どうか、この人生を終わらせてください……。警察から呼び出しを受ける前に……」
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