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第6話 飛行機の異変
しおりを挟む「たった一人で熱っぽく、長いこと話しておられるので、いったい、どんな興味深いお話が聞けるのかと期待しておりましたが、語り終わるところでは、そんな淡白な結論なんですの? とんだ期待はずれでしたわ。あなたが仰るロマンチックというのは、行きずりの障害をお持ちの少女を助けたとかいう場面だけですの? それなら、まったく馬鹿らしいお話ですわ。まあ、例え、そのくだりが美談だと認めたとしても、気まぐれで起こした、たった一度だけの善行に見返りを要求しているんですからね。百歩ゆずって、持ち前の盗みの才能だけは評価して差し上げますが、あなたなんて、今はたまたま運の上昇期にあるために、捕まらずにのうのうとしていられますが、その時がくれば、必ず警察に捕まる日が来ますからね。そんな並外れた悪運が十年以上も続くはずはありませんわ。その日が来たら、あなたがとっ捕まって裁判所の審問廷に引き出される時が来たなら、私は喜んで警察側の証人にならせていただきますわ。『ええ、この方こそは本物の大悪党ですわ』ってね。いえ、それどころか、このまま飛行機が順調にロンドンに着いたなら、そのまま髪の毛を掴んで引きずっていって市警にでも突き出して差し上げましょうか? そちらが実刑になるための証拠はすべて揃っていますからね。何しろ、自分でたった今、ぺらぺらと証言なさったんですから」
その夫人の言葉を聞いて、百戦錬磨のトンボイ青年もさすがに興奮してきた。自分のこれまでの貴重なる日々がまったく認められず、足ざまに扱われたことが、そのプライドをいたく傷つけたらしかった。
「私の美談が淡泊ですって? 人がせっかく心暖まる、とっておきの話を聞かせてあげたのに、貴女という人は感嘆の言葉を述べないばかりか、恩を仇にして返そうと言うんですか?」
エメルトン夫人としては、ただ汚い半生を歩んできただけの、この大泥棒に、自分の輝かしい半生が劣っているなどとは、とても思えなかった。
周りには十人ほどの暇を持て余した聴衆が取り囲んでいて、三人の自慢話や冷やかし合いを眺めて、それに興味深く聞き耳を立てていた。ロンドンで待ち構える大観衆が、これらの聴衆と同じような態度をもし示すとすれば、確かにここでの議論は重要であるといえた。三人は矛を曲げることを知らず、いつまで経っても、その輪の中央にいて、かなり気を立たせたまま議論を続けていた。ただ、強運というものは、不用意に一か所に集めてしまうと、きわめて危険な代物である。その頃にはすでに、飛行機の機体には抜き差しならぬ異常が発生していた。右翼のエンジンが原因不明の故障で動かなくなっており、もくもくと白い煙をあげていたのだ。実は三十分以上も前からこのような状況にあったのだが、これは操縦席の機長だけが感づいていたことだった。操縦室の機器にもすでに異変は現れていて、四つある油圧計の全てがまったく作動しない状態に陥っていた。航空事故の歴史上から見れば、これと同程度の事態に陥った航空機はこれまで全て墜落している。常識において未来を予測すれば、大惨事は間違いなし、というわけだ。
しかしながら、強運者の三人はこんな事態においても、半ば捨て鉢気味の議論に夢中になっていて、この迫り来る危機にまったく気づいていなかった。機体の右側の座席に座っていた数人の乗客が窓の外を眺めているうちに、しだいに傾いていく機体の異変に気がつき、スチュワーデスにそのことを知らせた。しかし、彼女たちも(こんな危機的な状況に遭遇するのは当然初めてであろうから)おろおろとするばかりで、不安がる乗客たちに対して、何も有効な手立てを取れなかった。それから数分も経つと、機体は水平飛行を保てなくなり、右へ左へと大きく揺れ始めた。大きな声をあげていたのは、主に主翼の動きが良く見える隣の客室の乗客たちであったが、エメルトン夫人ら三人も、そんな叫び声を聞きつけて、ようやく機体の異常に気がつき始めた。三人は不毛なる睨み合いを続けながらも、一時的にその議論を中断した。
こんな事態に陥れば、どんな金持ちも占い師もすでに笑ってなどいられない。機体はさらに大きく揺れ始めた。乗客の保護にあたっていたスチュワーデスたちは全員床にしゃがみ込んだ。カバンや食器などが振動に耐え切れず、床に落下して、さらなる混乱を招くような大きな音を立てた。機内は世界中にいる誰もが体験したことのない緊迫感に包まれていた。すでに乗客も乗務員も関係はない。誰の顔も最悪の結末を悟り青ざめていた。しかし、強運者たちについては、己が半生で起きた不幸は、すべて運任せに跳ね返して生きてきているわけで、これは最悪の事態になどならず、すぐに収まることだと信じ切っていた。頭の上に落ちるはずもない雷を恐れて、人前で泣きわめく子供のようにはなりたくはなかった。何事もなくこの事態が収まり、生き残ることを前提とするなら、なるべく平静を装って飛行機から降り立つのが理想だと思っていた。後で物笑いの種になるような醜態を晒さぬよう、平静を装っていた。もちろん、これはやせ我慢の世界である。
「私はもう、こんな歳ですから、長く充実した人生に、今さらそれほどの未練は無いのですが、若いあなた方はさぞかし怖いでしょうな。この飛行機がこのまま大事故になれば、大多数の乗客の身体はバラバラですからな。生存率は、ことの他低いでしょうな」
プジョル医師は自分の顎の震えを何とか隠そうとして、その長い黒ひげをいじりながら強がりを言った。だが、血の気のひいた顔色と震える指先は迫りくる死の恐怖のすべてを物語っていた。
「まあ、これから何が起ころうと、私だけは生き残るでしょうけどね。あなた方のような凡人とは運の総量が違いますからね。生存するのが例え私一人であっても、あなたがたが機内でどのような無謀な主張をなさっていたか、ロンドンで語り継いで差し上げますわ」
エメルトン夫人も、また恐怖心に何とか打ち勝とうと、強がってそう答えた。
「その通り、事故に見せかけて、機体を激しく揺らせてみせるなんて、こんなことで我々を焦らせようとしても無駄ですよ。まるで茶番ですね。これを仕切るディレクターは、どこに隠れているんですかね? 仮にこれが想定外の事態だとしても、神様という存在は、なかなか茶目っ気があるようです。少しでも大規模なイベントに見せかけてみて、強運者の我々の反応を上空から眺めて、楽しもうとしていらっしゃる」
トンボイ青年も冷静さを保っていたが、すでに自分の座席に戻り、ちゃっかりシートベルトまで締めて、少し不安そうな顔つきで、窓の外の様子を眺めていた。しかし、窓の外の眺めは、まったく水平ではなく、機体はますます大きく揺れ始めた。スチュワーデスはとにかく正気を保ち、座席に戻ってシートベルトを締めるようにと、すべての乗客に伝えた。正常であれば、一万メートル以上を飛行しているはずの機体が、その高度を少しずつ下げていることが、乗客たちにも明らかに視認できるようになってきた。皮肉にも、窓の外にはっきりと見えてしまうエンジンからは、ますます不調を示す白い煙が吹き出されていた。一般乗客の中には、隣の人と抱き合って、絶望のあまり泣き叫んでいる人が多く見られるようになった。携帯電話を使って、空港で待つ親族らと最後の別れをしている乗客もいた。強運者ツアーの参加者たちも、いよいよ周囲からの絶望がその身に伝わってきて、皆頭を抱えることになった。強運者が多数乗り合わせているはずの機内は、残念ながら、今のところ幸運を見出せず、すっかり混乱状態だった。霞をつかむような希望と目に見える現実が脳内で戦うと、大抵の場合は絶望という名の現実が勝利するものである。騒ぎ立てていたはずの、三人の顔にも、徐々に冷や汗が浮かび、その言葉の節々にも焦りが出始めた。
「幸運によって、他人を圧倒するような財産は作れましたけど、こういう緊急事態でも、それは発揮できるものなのかしら?」
エメルトン夫人は不安混じりの声色で周囲に聞こえるようにそう言った。すでに死と敗北を前にした声の震えは隠せなくなった。ただ、仮に誰かの強運が作用して、我が身が助かったときに、多くのマスコミ記者に向かって「自分の運を信じていたので、少しも動揺はしなかった」と冷静な表情において、伝えなければならないので、その細い身体を小刻みに震わせながらも、努めて平静を装おうとしていた。そんなとき、まったく不必要な機内アナウンスが流れた。
『お客様、当機体はエンジン不調のため、目的地までは到着できない見込みです。その残酷な事実を、各々がご理解頂けますでしょうか。今現在、近くの空港に緊急着陸ができないかどうか、形だけでも検討をいたしております。遺言書を書き終えるまでは諦めてはいけません。シートベルトをしっかりと締めてお待ちください』
このアナウンスがもたらしたものは、遺憾ながら、乗客たちのさらなる混乱だけだった。子供や女性たちの甲高い喚き声や叫び声が機内に響いていた。
『皆さん、落ち着いてください!』
有能なるスチュワーデスたちは、狂乱する乗客たちの騒ぎを何とか収めようと、さらなる大声で指示を出したが、この局面では何の効果もあげられなかった。乗客たちは死という言葉の意味すらつかめず、ただ、わんわんとわめくばかりだった。
「どうやら、我々も本気で命の心配をしなければならないようですな。この真に迫った大騒ぎは、残念ながら、冗談ではないようです」
老医師はここにきて肩を落とし、残念そうにそう呟いた。彼も知性だけで乗り切ってきた半生の中で、これほどまでに敗北や死について考えさせられたことはなかった。
「今日に限っていえば、どうも運のバランスが崩れているようですな。無論、毎日の運気が常に同じである、と仮定することの方が、逆に不自然に思えるわけですが」
トンボイ青年も半ばあきらめたように神妙な態度でそう呟いた。だが、エメルトン夫人の恐怖や焦りは、次第に怒りに変わってきた。圧倒的な強運に全身を保護されているはずの自分に、たとえ奇跡に恵まれ墜落などは起こらず、我が身は無事に済むとしても、こんな厄災が降り注ぐこと自体が許せなかった。夫人は隣に座っているトンボイ青年を睨みつけて、がなり立てた。
「あなたがくだらない犯罪を繰り返したから、神々がお怒りになったんです!」
「それは違う! あなたが短期間のうちに強運を発揮しすぎたから、今になって、その反動が来たんです!」
「何ですって! 飛行機の不調を、この私のせいにする気なの?」
そんな見苦しい言い争いを続けているうちにも、飛行機の高度は、みるみるうちに、ぐんぐんと下がってきた。『強運を誇る団体、飛行機の墜落事故により、あっけなく全滅す。事故には勝てず』という明日の朝刊の大見出しを想像してしまうと、許しがたい現実の前で、震えが止まらなかった。その興味深い記事を読んで、世間の人々は笑うであろうか、それとも嘆くであろうか? 現実は容赦などない。何度目かの大きな反動により、飛行機は嵐の中の小舟のように、ぐらぐらと大きく揺れて、いったん立ち上がった三人は、近くにあるシートにしがみついた。
『お客様、本機はこれより最寄りの空港への緊急着陸を試みます。どうか、座席につかれて、シートベルトを締めてください。宗教上の理由で、神や仏様へのお祈り等がある方は、なるべく早めに済ませてください。私としては、神の存在など、そもそも信じませんが、どのみち、こうなってしまったら、生きながらえるかどうかは運否天賦です』
機長からは混乱や責任を感じられない、落ち着いた声でアナウンスがあった。
「もうダメだ! こんな物騒なアナウンスが流れた後で、善良なる乗客が無事に済んだ試しはないんです。これは少なくとも、百人を超える死者が出ますね。僕はハリウッド映画の特撮ものをよく見るから、航空機事故には詳しいんですよ」
エメルトン夫人も、すでに自分が強運者であることも忘れて絶望していた。
「ああ、この私が! 類い稀な運と若さと多くの財産を持ったまま、異国の空に死んでしまうなんて! なんて、 もったいない。人類の損失だわ! お金を湯水のように使いまくって、贅沢をしたいことが、まだまだ、たくさんあったのに!」
緊急着陸というのは、完全なる機長の嘘であり、飛行機自体は、この時すでに完全な操縦不能に陥っており、ジェットコースターのように激しく横揺れしながら、見る間に地表に近づいていた。三人の周囲の様子からいえば、強運者ツアーの参加者たちの方が、一般の乗客よりも余計に混乱しているように見えた。死の世界が数分後に迫っている、この状況においては、自分の強運などは少しも信じられないようだった。
エメルトン夫人は人生の過渡期において、こんな大事故に巻き込まれるのであれば、多少は貧しくても、夫との田舎暮らしをもう少し続けていれば良かったと思うようになった。そうすれば、あの時は、容易には見えなかった和解への道筋だって、もしかすると、存在したのかもしれない。確実に見える金銭だけを掴んで、孤独を選んでしまったが、それは本当に正当な選択だったのだろうか? こんな緊急事態において、自分の命を助けるために何の役にも立たないのであれば、お金とはなんと虚しいものであろう。
「神様! 我が人生にこんな結末が用意されているなら、宝くじなんて、当ててくださらなくても良かったのに!」
エメルトン夫人は大粒の涙を流しながら、そう叫んだ。もはや、機内にいる誰もが、よもや自分だけが助かるなどとは、とても思えなかったのである。
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