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巨象に刃向かう者たち 最終話

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「北欧神話にはクラーケンという海竜が登場します。この怪物の背中の幅は何と一マイル半もあるそうです。神話には奴が口から液状のものを吐き出して、海面を黒く変えてしまう習性があることも記されています」

「それが墨だとすると、まるで蛸(たこ)みたいなやつですね」

「そういうわけで、当時の船乗りは海に浮遊する島々は必ずクラーケンだと思い、十分な警戒をしたわけです」

「物語としては、今の話のどの辺りが重要なんですか?」

「実はですね、聖書とほぼ同時期から存在するという『動物物語集』にこれと実によく似た神獣が登場するんです」

「ほう、なるほど!」

「アスピドケロンという怪獣がそれです。こいつは実際には巨大な亀なのですが、荒石や雑草や海藻類がその巨大な甲羅にこびり付いているために、船乗りたちはその光景を見て、その生き物を島だと錯覚してしまいます。彼らは航海の疲れをとるために、この幻覚の島に上陸します。ここに腰を据え、キャンプを張り、焚火をして楽しむわけです。すると不意に、その巨大な亀は目覚めて、海水の中に全身を潜らせてしまい、彼らを塩辛い海の中に葬ってしまうわけです」

「なるほど、海に登場する怪物という共通点があるわけですね」

「そうではないのです。人間を騙して、水の中に引きずり込むという点がよく似ているのです。実際、これらとよく似た話は『千夜一夜物語』『聖ブレンダン伝説』それと、ミルトンの『楽園喪失』の中にも語られているわけです」

「確かにそうかもしれませんが、古代から存在するものから、近世に書かれたものまで、書物の成立年代はバラバラですね」

「しかし、圧倒的に古代から伝わる物語が多いではないですか。この他にも、ラテン語で書かれた『黄金伝説』には、川に深く潜んで通りがかる人や船を襲ったというリヴァイアサンや、旅人を湖に引き込もうと誘う、ドイツのウンディーネの伝承もよく似ています」

「それらは一聴してよく似ているのかもしれませんが、似て非なる話なんですよ。別々の人たちが別々の時間の中に考え出した、偶然の産物に過ぎません。大体、民間伝承なんてものは、作者名や成立年代がまったく分からないばかりか、どういう人々がそれを伝えてきたのかもわかりません。その信憑性となると、根本的に信用できませんな」

「貴方はまだお分かりになっていません。これらに類似する話は、古代アジアにもあるんです。中国では太古の昔から、人の立つ大地の遥か下で玄武という巨大な亀がこの大陸を支えているという伝説が信じられています。日本にも、Taro Urashima (浦島太郎)という亀にまつわる神話があります」

「私には単なる偶然としか思えませんね。世界各国でほぼ同時期に似たような伝説が信じられていたとして、それがいったい何の企画に化けるというんですか?」

「まだ、お分かりにならないんですか? ヨーロッパで大航海時代が始まったのは十五世紀の半ばなんですよ。それまでは、別々の大陸の人々同士の交流なんてありえなかったんです。中国で玄武を信じている人々はアスピドケロンの島の逸話を知らなかったんですよ。人と人の会話の交流がないというのに、いったい、どうやって、似たような話が生まれたと思われるんですか? すべての大陸に住んでいた人々が同じ体験をしたことに他なりません。これは世界中の海底に神獣が本当に棲んでいることの証明になるのです」

「ふむ、それで……? あなたが到達した結論をぜひ聞かせてください」

「私としては、地球上の海底のどこかに、神獣が支配する神の国が存在する、という企画をついに考え出したわけです」

「その企画をどこかの映像配信社に持ち込まれるおつもりだったのですか?」

「そうなんです。制作スタッフを募集している各社から、正社員の応募書類も取り寄せたんです」

「あなたにしては、ずいぶん前向きでしたね。その行動力は私も支持しますよ。本当に将来のことを思うのなら、ただ、じっとしているだけより、積極的に動いてみるべきです」

「ビージャングルカンパニーには、この企画は持ち込まなかったんですか?」

「あの企業は業界で一番儲けています。実は、私としても彼らと一緒に仕事をしてみたいという願望は古くから持っていたのです」

「それなら、面接を受けに行ってみればいいじゃないですか。あなたの能力が現実にその業界で通用するのかどうか、試してみればいいのです」

「しかし、大学もろくに卒業していない身の上なので、結局のところ、躊躇してしまい今に至るのです。そして、つい先月、この話は急展開を迎えます。彼らが発表した最新作の宣伝を見て、度肝を抜かれたのです」

「ま、まさか……、よりによって?」

「それが、『アトランティスの謎を解く』というタイトルだったのです。かつて海底に存在したという海の帝国を追う物語だそうです」

「ははあ……、似たような企画で先手を打たれてしまい、すっかり落ち込んでしまったというわけですか」

「くそう! 彼らは数万の企画を持っていても、私の脳内には、これ一つしか企画が存在しないというのに!」

「よりによって、ネタの方向性が被ってしまったというわけですな」

「いったい、いつ、こちらの企画の進行具合を見破られてしまったのでしょう。何らかの手段を用いて、こちらの動きをすっかり読まれてしまったとしか思えません……」

「すべては偶然だと思いますよ。たまたま、お互いのアイデアが同時期にかぶってしまったのです。ただ、大企業の偶然からくる、気まぐれのような行動において、破滅してしまう人も結構いると聞きますが」

「それでは、もう、仕方ないんですね……」

「目に見える反抗はしないんですか? 座り込みや署名活動をするとか……」

「でも、貴方はビージャングルカンパニーから派遣されて来たんでしょう。私も対立したままではよくないと思っていました。最後に企業の方とお話ができて良かった。胸のつかえが少しは取れましたよ」

 そのことについては、私は沈黙を保つことにした。自分がいったい何者の命令で来たのか、今もってよく分からないからだ。もしかすると、『花火大会の開催』という、全然関係のない動機において、ここを訪れたのかもしれない。

「午後八時までにここを明け渡せばいいんですよね? これから準備をしますので、しばらくお待ちください」

 彼は部屋に散らばっている少ない荷物を手早く片付け始めた。ようやく、この部屋に引きこもることを諦めてくれたようだ。私の任務の99%はここで終わった。

「国や大企業などの巨大権力を恨む気持ちはありますか?」

「もう、何もありませんよ。すべては自分の能力のなさから来たことです。ジャングルカンパニーのような大企業に勤めている人たちは、学生時代から自分の何倍もの努力をしていたはずです。自分にはそれができなかったのです……」

「今からでも逆転してやろう、という気概はまだありますよね?」

「いえ、もう無理でしょう。自分の企画のすべてを失ったんですから、無能な人間には無能な人間なりの生き方が残されているだけです」

 夢と願望を創り出す妄想や想像の膨らまし方はよく知っているが、それを現実の世界へと落とし込む手段はひとつも見い出せず、もしくは、それに至る道を築く努力を何ひとつとしてしたことのない彼のような人物は、自分の能力のことも未来の道程のことも、大抵のことは時間が解決してくれると思い込んでいる。時間の価値という概念にきわめて無頓着である。そもそも、隣近所や親族との人間関係すら疎かにしている。そもそも、窮したときに手を貸してくれる者が周囲にはいない。地上のどのくらいの割合を占めるのかは知らないが、我々の業界で説得の相手として出会う人間は、大抵こんな者ばかりである。それに加えて、彼らは自身の夢や半生については、他人に対して、しきりに喋りたがっている。普段はこの部屋には誰もいないはずなので、壁かテレビの中の芸能人に向けてでも話すしかないが、一端、「では、聞いてみようか」という態度を通りすがりの誰かが示そうものなら、あの崔奔が、十三年もの月日をかけて作成したという、どこにも出口のないはずの無限の迷路のように、永遠のわき道に逸れまくりながら、何時間でも無理くり話し続けるはずだ。こちらには聴いてやるつもりがまったく無いにしても、ほぼ同様の破目に陥るのである。さらに悲しいことに、彼らは自分の夢が世間一般の秤にかければ、おそらくは叶わないものであること、現実に則(そく)さないものであることを、心の底では重々承知しているのである。しかし、分相応の週給を受け取って日々を過ごしていくような、リアリティーのある道を選択する余力がないために、非現実の方の夢に何とかしがみつこうとしているのである。まあ、自分の人生のことであるから、どう生きようと基本的には勝手であるし、こちらがわざわざ横槍を入れにいくのもおかしな話なのだが、彼らはひとりで生きているつもりでも、こういった人生に振り回されてしまう被害者は意外に多い。私もその被害者のひとりになりつつある。

 彼らの特徴のひとつがやたらと偉いものの視点に立ちたがるということである。自分は大学も卒業していない、いわゆる名前の通った企業に就職しているわけでもない。こういった人種にはアルバイトや月決めの派遣社員で生活している者が圧倒的に多い。だが、彼らは『国家のためにできる限りの貢献しなければならない』『労働者は能力によって身分や賃金が区別されるべきである』という才能主義の論理が口をついて出てくる。不思議なことは、だからといって、彼らが自分の能力に自信を持っているわけではないということ。つまり、自分は人の上に立てる能力を有していると信じているわけではない、ということなのだ。もちろん、『いずれは人の上に立ちたい』というような願望はもっているだろう。だが、これは妄想では終わらせられない問題なのだ。彼にこんな質問を繰り出してみた。

「なぜ、動画の脚本やプロデュースで生きていきたいと思ったんですか。普通に工場や食料品店などに就職しようとは思いませんでしたか?」

 案の定、彼の表情は瞬時に強張ってしまった。答えたくない質問のようだ。数分の間、そのままの態勢で待っていると、もごもごと少し自信がなさそうに口を動かし始めた。

「だって、三十歳にもなって、工場とかコンビニで働いていくなんてカッコ悪いでしょう……。実は、ハイスクールのときに不良たちにいじめられていたことがあるんです。もし、彼らが自分がバイトをしている店に買い物に来たらどうするんです? さらにバカにされますよ。第一、彼らより下の地位に就くなんて、自分のプライドが許さないんです……」

「それで、映画の脚本家になれれば、彼らを見下せると思ったんですか? 例え、才能に恵まれて生まれたとしても、あなたの特性はそのままなので、傍を通る他人の姿を眺めるたびに、同じような劣等感、同じような悩みに苦しめられると思いますよ」

「そう……、きっと、そうなんでしょうね。私のような人間に大金なんて不要だったんですよ。格好の付け方からして分からないわけですから」

 彼はそう言いつつ、床から重そうなリュックサックを持ち上げて背負うと、ゆっくりと立ち上がった。彼はそこで会話を止めると、狭い室内を窓のほうに向けて、象のようにゆっくりと歩き出した。言いたいことが出尽くしたのかは、見た限りでは分からない。すっかり、飲み尽くしたと思い込んでいた缶コーヒーの空き缶のようだ。ジャングルカンパニーは、本当なら、ハイスクールを卒業したときに、いの一番に履歴書を持っていきたかった企業なのだろう。だが、奇妙な劣等感に負けてしまい、それは叶わなかった。

 ただ、この長い対話に、あるいは、鬱屈とした半生に少し疲れているようにみえた。そのまま、緑の分厚いカーテンを隅の方に丁寧に畳むと、窓ガラスをゆっくりと開いた。想像もしなかったような大都会の夜景が目に飛び込んできた。ひと月150ドルのアパートから見える眺めとしては破格と表現していい。彼の目は実につまらなそうにその世界を見ている。多くの高層ビルが立ち並んでいるが、この部屋の窓から見て、一番正面には言うまでもなく、サンセットガーデン01が、六十七階建ての、その荘厳な姿をみせていた。その黄金に輝く尖塔は、夕闇の中にあたま三つほども突き抜けて、天界への憧れのように高く聳(そび)えている。その巨大な鯨の腸の中には、総合商社や大手自動車の部品メーカー、衣服関係の有名ブランドなど、優良企業のほとんどが軒を連ねている。そして、あらゆる娯楽と贅沢が含まれている。そういえば、先ほど何度か名前が挙がった動画配信社ビージャングルの本部も、あのビルの中にあるはずだ。

 つまるところ、ビーカンパニーのようなエンタメ企業は彼らの敵ではあるが、仮想味方でもある。なぜなら、彼のような人の空想や妄想に現実味を与え、その夢の維持を計ることができるのは、映像の制作者だけなのだから。妄想や空想の部分ではなく、制作にリアリティを加えることができる人物が、本当の才能の持ち主なのである。

「二年前に、このアパートの真向かいにあったふたつのぼろアパートが潰されて、ここからでも、あのでっかいビルが完全に見えるようになりました。あなたの目にもこの世のどんなものより大きく、そして、美しく見えるはずです。もし、資産と地位が足りているのなら、あそこに住んでみたいと思われませんか? みんな、そういわれますよ。でもね、ダメなんです。寸手のところでこの手は届きません。ただ、自分の物のように見えているだけなんです。彼ら富裕層の世界は、我々の現実の世界の中にはなく、本当はもっとずっと遠くに存在するのです」

 彼は口を少し歪めてそのような皮肉をいった。私は彼の肩を抱いて、一緒にアパートを出て、人混みで洪水のようなライブ会場をできるだけ身をすぼめて渡った。獣たちの声を煽り立てるような若い女性の鋭い呼びかけが聴こえた。すでに、ステージにはアパッチが上がっているようだった。集まった男たちの唸り声と黄色い声援が入り混じって、辺りにこだましていた。我々の後方では、巨大なブルドーザーによって、唯一ここに残されていた第三アパートが粉々に崩されるところだった。その後、マーク氏がどこに向かうのかは私は知らないし、彼自身も依頼人たちもおそらくは知らないのだろう。

 日付けが変わり、午前二時を回ったところで、依頼人の側から、ようやく連絡が届いた。まずは、本社での重役会議の結果、ライブと花火については、午後八時半から予定通りに行われることになり、順調に終わったと、その程度の簡単な報告を受けた。今夜の首尾について、自慢げに長々とまくし立ててやろうとするこちらの意図をつよく押しとどめる形で、件の老人は一言二言丁寧に礼を述べた。

「君が上手くやってくれたおかげだ。花火の打ち上げが無事に行われることを、アパッチ本人に話したら、珍しく綺麗な笑顔を見せてくれてね、本当に、とても喜んでいたんだよ」

 彼はそう付け加えてから、ほどなくして電話を切った。おそらく、どちらの人物にも、自分はもう二度と顔を合わせることはないのだろう。しかし、この物語自体の〆はいったいどうするつもりなのだろうか。このままでは、ストーリーは荒っぽすぎる。謎と意味のない分子が散らかったままだ。つまり、今、私の思考や行動を描いている筆者は、この先をいったいどのように落ち着かせるつもりなのだろうか。

 その雑念よりも先にひとつの疑念――距離的に遠くにいる人、あるいは、超人気歌手のように、自分の手が届かないほどに高貴な人について語るときには「今ごろ、きっと、どこかで喜んでいると思うよ」と表現する方が、こちらに報告する際には適切だと思われたのだ。しかし、今日一日のやり取りを思い起こせば、いくつか思い当たる節もある。窓の外の篠突く雨に目をとられつつ、しばし、難題を前にして考えこむことになってしまった。昼間、私に依頼するためにやって来たあの老人は、ビージャングルカンパニーの社主であり、その老人に付き添われて、この部屋に一緒にやってきた金髪の性悪の美女。あの女がアパッチ本人ではないかと、そう推測してみることは、果たして適切だろうか? そのようなあてどない夢想に憑りつかれてしまい、淹れたての熱々のコーヒーカップに手を触れることも忘れ、しばらくの間、狂言と空想の谷間から抜け出せなくなってしまった。
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