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百分の一の病いと共に生きる 〜 約束の場所と、未来
しおりを挟む九月ーー。
新しい季節がやってきた。
会いたいと願っていた人には、割とすぐに会えた。
ある日曜日のことだ。
私は中庭へ散歩をしに出た。
私はまだ、単独で病棟外へ出られるような病状ではないので、その日もスタッフ同伴で中庭に出た。
その日、散歩に付き添ってくれたのは主治医だった。
「散歩なんかに付き合わせていいんですか?」
医者が回診の時間以外に何をしているのか知らないが、たぶん忙しいはずだと思いながら尋ねた。
「私、今日は当直なの。だから、今日はずっと病院にいるのよ。
でね、医局にいたらしょっちゅう看護師さんに呼ばれるから、あなたと散歩している方が羽がのばせるってわけ」
主治医は気さくそうに笑った。
「あなたのお兄さんも誘えば良かったわね」
彼女は、医者より小学校教諭が似合いそうな、温和な笑顔をしてそう言った。
私は彼女と兄の話を時々する。
ドロップ缶の中でカラカラ転がるドロップのように、
兄の思い出はカラフルな色合いをしている。
私の口からこぼれるそれを、主治医は興味深そうに聞いてくれる。
彼女は兄の主治医でもあるからだ。
私は、兄の見舞いの際に、彼女に初めて会った。
その時から、不思議と親しみを感じていた。
どこかで会ったことがある気がするのだ。
この人の何げない時に出るクセ、
考えごとをしている時の首の傾げ方、
変わったペンの持ち方、
笑った時の目尻の下がり方……。
どれも、どこか親しみを感じた。
彼女のうちに、親しみを感じる癖を見つけるたび、心の中に小さな花が咲く気がした。
可憐な花に似た、名前のわからない感情が、ハラリ、ハラリと花開いて、私の中はいっぱいに埋め尽くされてしまう。
その理由は中庭を一緒に散歩していた時に分かった。
花壇に植ったマリーゴールドを眺めながら彼女と歩いていた時、私の知人が中庭に現れた。
知人は彼女の息子であるらしい。
彼女が自宅に忘れていたお弁当を、彼女の職場まで届けにきてくれたのだ。
私はその知人の顔を見た時に、
なんだ、そういうことだったのか、と思った。
主治医と知人は顔が瓜二つだった。
ふとした時の仕草や表情まで。
「なんだ」
と私は口に出して言った。
親しみを感じるに決まっている。
だって、彼はただの知人ではないし、この夏、何度も会っていたから。
今まで、彼と主治医が似ていると気づかなかった方が不思議なくらいだった。
主治医の顔を改めてみると、にっこりと笑いかけてきた。
その笑顔は、私の中にピンと張り詰めている糸のようなものを緩めてくれた。
そういうところも彼とそっくりだった。
丘で見た、彼の笑顔を思い出す。
「母さん、また忘れ物。
傘と弁当、よく忘れるから気をつけてって言ってるのに」
そう言って、彼は私たちの前にお弁当をグッと突き出した。
彼の足のそばで、満開のマリーゴールドが揺れていた。
私は、彼の顔を見つめた。
母親の弁当を手にして、
気恥ずかしそうに私から目をそらしていた彼は、
「なんだよ」
と私に言った。
まだ真夏のように暑かったが、空だけはいつの間にか秋の気配を携えて澄み渡っていた。
マリーゴールドの香りがする風が頬をなでる。
私は昨日、得体の知れない声に悩まされたことも、
朝から理由もなく不安におそわれていたことも忘れ、
彼の顔をジッと見つめていた。
会いたかった人に会ってしまった。
こんな予期せぬ場所で。
病院で陽也に会うのは不思議な感じがした。
地理の授業で名前だけ聞いたことがある遠い国(例えばサンマリノとか、アゼルバイジャンとか、バチカンとか)で、
偶然ばったり再会したような気分だった。
「二週間以上連絡がつかないし、
久しぶりに会ったと思ったら、母さんとこんな場所にいるし……。
何があったんだよ」
陽也の口調から察するに、ずいぶん私を心配していたようだ。
入院した日以降、陽也は何度か電話やメールをくれていた。
しかし、私は入院中であることを伝える決心がつかず、陽也と連絡を絶っていたのだ。
そして、私はまだ、自分の病気について陽也にうまく説明できる自信がなかった。
病名は統合失調症だと聞いていた。
兄と同じ病気だ。
でも、私はまだ自分が統合失調症だと受け入れきれないでいた。
私は日々奇妙な出来事を体験している。
例えば、
これは奇妙な体験のごく一部だが、
誰もいない部屋で声がすることがある。
それはずいぶん恐ろしいことだった。
看護師さんはそれを幻聴だと言う。
でも、そう言われても、「ハイそうですか」と納得はできなかった。
その声はあまりに生々しく、私の生きている現実そのものだった。
「私、自分がここにいる理由について、うまく説明できないの」
私はうつむいた。
主治医は花壇の周りをゆっくりと歩きながら、私たちのやりとりに関心がないようなふりをしていてくれていた。
「そっか」
と陽也は言った。
それ以上はお互いに言葉が続かなかった。
二人が黙り込んでしまったので、辺りはしんとした。風が吹くたびに、花壇から葉ずれの音がしていた。
澄んだ空がことさらにわびしかった。
マリーゴールドの幸福そうな黄色も、今の私にはつらかった。
私はせっかく陽也に会えたのに、陽也に早く帰ってほしいと思っていた。
そんな私の気持ちを読み取ったのか、陽也は、
「じゃあな」
と言ってぎこちなく手を振った。
そして後ろを向いた。
私は立ち尽くしたまま、陽也の背中を見送った。
陽也の後ろ姿が少しずつ遠ざかっていく。
ポツンと立つ私のそばでは、マリーゴールドが揺れていた。
私はさっきまで陽也に早く帰ってほしいと思っていたのに、小さくなっていく後ろ姿を見つめていると、息苦しいほど切なくなってきた。
私は陽也の背中を見つめたまま、一歩も動けなかった。
思えば、もう九月に入っていたので、高校では二学期が始まっているはずだった。
ということは、陽也はもう夏休みを終えて毎日学校に通う生活に戻っているということだ。
なんだか、置いてけぼりをくらったような気分がした。
中庭はコの字型の建物と塀に囲まれている。
中庭から出るには、一度、建物に入って外来の待合を通り抜け、正面玄関から出る必要があった。
今、陽也の姿は、ガラス張りの壁の向こう側にある、日曜の閑散とした待合の中に小さく見えていた。あと少しで、正面玄関の向こうに姿を消すだろう。
中庭に取り残された私は、秋の高い空を見上げた。
私の周りを白い壁が囲んでいた。壁がずいぶん高く感じた。
さみしい、と私は思った。
入院というものは、
病気をするということは、
普段の生活を奪われるということは、
こんなにもさみしいものなのだ。
実際に味わってみるまで、まったく想像できなかったけれど。
私は、今すぐ陽也を追いかけて声をかけたくなった。
たった一言でいいから、声を聞きたかった。
だけど、そうしたとして、何を話せばいいだろう。
私は陽也に何を聞かれても、うまく答えられる自信がない。
私の思考は、そこでループしてしまう。
「病室に帰りましょうか」
と、主治医が私の肩をたたいた。
振り返ると、気持ちをおしはかるような目をして、主治医が立っていた。
• • •
次に陽也に会ったのも、陽也が母親の忘れ物を届けにきた時だった。
陽也は、ナースステーションの中にいて、母親と看護師さんと話をしていた。
傘を母親に手渡している。
今日は、午後から雨だった。
ナースステーションのそばには、広々としたホールがある。
そこにテーブルがいくつか並んでいて、
患者さんはそこでテレビを見たり、作業療法を受けたりする。
また、特別な理由がなければ、患者さんはホールに集まって食事をとるようになっていた。
私はホールからナースステーションの中にいる陽也を眺めていた。
陽也はやがて自分を見つめる視線に気がついて、私に目を向けた。
たくさんの患者さんが、ホールを行き交っていた。
ナースステーションの中でも看護師さんの行き来が激しかった。
ナースコールが鳴るたびに、
バタバタと看護師さんがナースステーションに走り込んできて、
壁に設置された受話器を持ち上げ「どうされましたか」と応答し、
それからまた、バタバタとナースステーションから飛び出していく。
そんなたくさんの人の動きを挟んで、私と陽也は見つめ合っていた。
やがて、陽也が小さく手を上げた。
私も小さく手を上げた。
その時、ホールの端で急に大声が上がった。
中年男性の患者が二人、テーブルを挟んで囲碁をしていたが、
そのうちの一人が急に碁石を床にばらまいて、
「ここから出てけ!」
と叫び出したのだ。
碁石が散らばり、床に白と黒の斑点模様ができた。
ホールにいた患者さんや、ナースステーションにいた看護師さんが騒然とした。
私はその様子を見てにわかに怖くなった。
私は、自分の病状が落ちついているのかどうか、自分で判断がつかなかった。
自分が、他人の目にどう映るのかが分からなかった。
ここの患者さんの多くは、自分では病状が落ちついているつもりでいる。
私も、自分では落ちついているつもりだが、ホールで叫んでいる患者さんとそう変わらないのかもしれない。
私は、叫びながら碁石を蹴散らす患者さんと、患者さんに駆け寄る看護師さんから目をそらした。
そして、陽也に背を向けて走り出した。
ホールの奥から廊下が伸びていて、廊下に沿って病室が並んでいた。
そのうちの一つが私の部屋だった。
私はホールから自分の部屋へ、一直線に駆けた。
私は部屋の中に駆け込むと、ベッドに突っ伏した。
今の私は、陽也の前に立つことすら怖かった。
夏休み前は、何にも考えずに高校の教室で隣にいられたのに。
陽也に会いたくない。
会いたいけど、今は会いたくない。
ベッドに身を沈めて、枕に顔を押し付けた。
じんわりと枕に涙がにじんだ。
ホールからは、さっき叫んでいた患者さんと、看護師さんの声が聞こえていた。
ホールと私の部屋は距離があったので、会話の内容までは聞こえなかったが、
ワアワアと大声でやりとりしているのが聞こえていた。
患者さんと看護師さんの声はしばらく聞こえていたが、やがてホールはピタリと静かになった。
私は静寂に耳をすましながら、もう陽也は帰っただろうか、と考えていた。
数日前、マリーゴールドのそばで見た、陽也の小さな背中を思い出す。
その時聞いた、サワサワという葉ずれの音も。
……カサカサカサカサ、
と、小さな音がした。
私は最初、それが自分の回想の中で聞こえている音かと思った。
どうやら違うらしいと気づいたのは、小さな振動に気がついたからだ。
ベッドの足元に置いていたエコバッグの中で何かが震えていた。
エコバッグを拾い上げると、バッグを広げた。
昨日売店で買ったハンドクリームと、財布と携帯電話が入っていた。振動していたものは携帯電話だった。
画面をみると、陽也の名前が表示されていた。
私は、しばらくその画面を見つめ、たっぷり迷ってから、思い切って電話に出た。
「出てくれないかと思った」
と陽也は言った。
電話越しに陽也の声を聞くことに慣れなかった。私は息をつめて陽也の声に耳を澄ました。
「あのさ……、少し話ができる?」
なんの話だろう。
声がうわずらないように気をつけながら、「話って、何?」
と尋ねた。
陽也は、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「なんでもいいんだ。
夏音が話したくないことは、話さなくていいよ。
病気のこととかも、話したくなかったら別にいいよ。
たださ……」
陽也は、伝えようかどうしようか迷うように間をおいてから、こう言った。
「声が聞きたかったんだ。
夏音の声が」
私は、携帯電話を手に握りしめたまま、枕にもう一度顔を押し付けた。
再び、枕が涙にじわりと濡れる。
「夏音? 夏音……?」
無言になった私に、携帯電話の向こうから陽也が呼びかけてくる。
「聞こえてる?」
「大丈夫、聞こえてるわ。でも、もう電話してこないで」
「どうして?」
「私、怖いの。今の自分を陽也に知られるのが」
声が聞きたいと、今は思ってもらえているけれど、私のことをよく知ったら、
そうでなくなるかもしれないと思った。
それが怖かった。
「怖がらなくていいよ」と陽也が電話の向こうで言った。
「病気になっても元気でも、
夏音は夏音じゃん。
だからさ、不安に思わなくていいよ。
夏音が話したいことを話してよ。
つらいことを吐き出した方が楽になるなら、そうしたらいいし、
楽しい話をしたいなら付き合うし。
俺はただその相手になりたいだけなんだ」
陽也の言葉は、私を包み込み、胸の奥を優しくなでようとする。
だけど、私は、その言葉を受け入れられなかった。
陽也の言葉は優しすぎる。優しすぎて、信じるのが怖かった。
「もう切るわ」
「お願い、切らないで。
俺さ、母さんからいろんな病気の話を聞いてるから、普通の人よりは知識があると思う。
だから、普通の人より、夏音のことを理解できると思うんだ。
だから、切らないでよ」
陽也の必死な声が聞こえた。
「夏音……」
私の名を呼ぶ声が聞こえ、私は身を切られるような思いを感じながら、プツッと電話を切った。
突如、静寂に包まれた。
無音の部屋をゆっくりと見渡す。
壁の白い色がより冴え冴えとして見えた。ベッドやテーブルの影は、より濃く見えた。まるで、私の寂しさを映し出しているみたいに、モノトーンの色合いをしていた。
私は、ベッドに突っ伏して泣いた。
会いたい気持ちを殺すように、夏の間ずっと抱きしめていた大事なものを手放すように、ゴウゴウと泣いていた。
• • •
気がつくと、泣いている声を聞きつけたらしい兄と看護師さんが部屋にいて、
二人して私の背中をなでてくれていた。
看護師さんが、
「どうしました?」
と優しく尋ねてくる。
何にも答えない私の耳元に、兄はそっとささやいた。
「僕も、いろんなことを経験したよ」
涙で湿った枕から顔を上げると、兄は励ますように笑った。
そして涙で頬にはりついた髪を、指で払ってくれた。
「悲しいことも、つらいこともあったよ」
言葉と裏腹に、兄は明るい目をしていた。その瞳は、希望の光を宿していた。
兄が病気を発症してから七年。
その七年の間には、語り尽くせないくらいいろいろなことがあっただろう。
恋人と別れたり、仕事を休らなければならないこともあったと聞いている。
その七年の月日を経た上で、なおも兄の目には、希望の小さな火がゆらゆらと明るく揺れていた。
私は泣き止んで、兄の目に灯る火を見つめた。
そうしながら、昔、小学校の合宿でしたキャンプファイヤーを思い出していた。
キャンプ場は森の中にあり、夜になると森は真の暗闇に包まれた。
キャンプ場の真ん中では、炎が燃えていた。小枝がパチパチはぜる音がする。暗闇の中で見る炎は圧倒的に明るく、力強く、美しかった。炎は命を持たないのに、生命力を感じた。森に生える木々の生命力も、そこを寝ぐらにするたくさんの生き物の息遣いも、目を閉じれば感じられるような気がした。
見つめ合う私と兄を交互に見つめ、
看護師さんが微笑んだ。
そして、私たち二人に向かってこう言った。
「悲しいとき、こんなふうに思ってみてください。
自分には同じ苦しみを共有できる人が、
たくさんいるんだって」
涙を指で拭いながら、私はパチパチと瞬きをした。
すると、看護師さんは白衣のポケットからメモ用紙を取り出して、一枚ちぎって、
「1/100」と書いた。
私はメモ用紙を受け取って、
白い紙に書かれたその数字を眺めた。
「統合失調症の発症率はおよそ1%。
100人に1人がこの病気にかかると言われています」
百分の一の病いだ。
私はメモ用紙を眺めてそう思った。
「現在の患者数は、日本では80万人、
世界では2500万人。
それだけの数の統合失調症患者さんがいるんです」
私はその数の大きさに驚いた。
同じ空の下に、私と同じ病気を抱えた人が、2500万人もいるのだ。
「あなたは一人じゃないですよ」
その言葉に、一つの景色が思い浮かんだ。
たくさんの人が同じ空を見上げて、
希望の光を目に宿している景色だ。
私は、その時、この病気と一緒に生きて行こうと思った。
• • •
陽也に三度目に会ったのは、丘の中腹でのことだった。
九月下旬。丘は、ススキの穂に白く覆われていた。
その日、私は母の運転する車の後部座席にいた。隣には兄がいた。
助手席には大きな荷物が乗っていて、トランクにもたくさん荷物がつまれていた。
兄は今日退院するのだ。
私は今日一日だけ外泊許可がでていて、兄と母と久しぶりに家で過ごす予定になっていた。父は、出張で家を留守にしていた。
車で丘を下っていると、自転車でえっちらおっちら丘を上る陽也とすれ違った。
私と陽也は、すれ違いざまに目が合った。でも、陽也は怒った顔をしてプイッと目をそむけてしまった。
私は、一方的に電話を切ってしまったことを思い出して、思わず、
「待って、停めて!」
と声を上げた。
車を路肩に停めてもらうと、私は外に飛び出した。
久しぶりに着たワンピースの裾をひるがえして陽也に走り寄る。
息を弾ませて陽也の前に立つ。
陽也は、
「なんだよ、今さら」
と顔をそむけた。
「悪かったと思ってるの」
と私は言った。
「私、今でも陽也と向き合う自信がないの。
だから、うまく話ができない。
でも、これだけは伝えたかったの」
私は息を整える。
陽也は私の方を見なかったが、私の次の言葉を待つように黙っていた。
「私、この夏、陽也のことばかり考えてた」
陽也は、ハッとしたように顔を上げて私を見た。
しかし、またすぐにうつむいて、
「なら、なんで俺から逃げるんだよ」
とつぶやくように言った。
私もうつむいた。
スニーカーを履いた二人の足が見えた。
ケンカしたまま仲直りできない子供みたいに、靴先が違う方向を向いている。
「私、今も倒れそうなくらい頭が真っ白なの。
それぐらい緊張してるし、陽也の前に立つのが怖いの。
だけど、さっき伝えたことは本当よ。
不安と戦ってでも、これだけは伝えておきたかったの」
陽也はそれを聞くと、ずっと強張らせていた表情を緩めた。そして、私の足元あたりを見つめてこう言った。
「俺……、あの日、覚悟を決めてから電話をかけたんだ」
「覚悟?」
陽也はうなずいた。
「夏音とも、夏音の病気とも、
とことん向き合うっていう覚悟」
陽也の言葉には重みがあった。その言葉にはみじんも嘘が混じっていないように聞こえた。
覚悟。
私と向き合う覚悟。
私の心はその言葉に大きく揺さぶられた。
「なのに、ブチッ、ツーツーだもん。
傷ついたよ」
陽也はうつむいたまま苦笑した。
「俺って頼り甲斐がないのかな。
それとも、信用がないのかな」
私は首を横に振った。
「どちらでもないわ。
私が信じられないのは、自分自身なの。
私、明日、自分がどんなふうになってるか分からなくて不安なの。
今日は外泊できるくらい落ちついてるけど、またいつ悪くなるかわからなくて不安なの。
陽也を、そんな私の人生に巻き込みたくないの」
背の高いススキの穂が、風にザワザワと鳴った。
空き地を覆うススキの穂影から、
小鳥が二羽、チチチと鳴きながら飛び出して、空に舞い上がった。
小鳥を目で追う私の横顔に、陽也がこう言った。
「別に巻き込まれるなんて思ってないけどな」
陽也に目を向けると、陽也も空を飛ぶ二羽の小鳥を見上げていた。
薄水色の澄んだ秋空が、陽也の瞳に映っていた。
「来年のこととか、再来年のこととか、
想像してみることがあるんだ。
ちょっと大人になった自分のそばに、
夏音がいてくれたらなって思う。
それだけだよ」
私はその言葉を心に染み込ませながら、もう一度、小鳥を見つめた。
二羽の小鳥は隣り合って空を渡っていく。
陽也が、あ~あ、とつぶやいてから、伸びをした。そして、口調をガラリと明るく変えて、
「今年の夏、結局、
どこにもいけなかったな。
来年の夏こそは、どっか行こうよ」
と言った。
その言葉に、陽也は、
私が退院するのを待っていてくれているんだと感じた。
私は、これからどうなるんだろう。
治療は順調とはいえなかった。
良くならないんじゃないかと、不安に負けそうになる日もあった。
投げやりになることも、
あきらめたくなることもあった。
だけど、私の回復を祈ってくれている人がいる。
その事実は、私の心に小さな火をともしてくれた。その火は、私の希望の光となり、病気とともに生きていく力となった。
私は陽也を見つめた。
それから、頭の中に、主治医と看護師さんの姿を思い浮かべた。励ますような、一人一人の顔を。
私は、今日も、生きようと思った。
病気と向き合いながら、生きようと思った。
統合失調症の患者は、世界中に2500万人。日本に80万人。
私が体験しているような物語が、世界中に2500万個、転がっているのだ。
その物語の主人公と、世界中の誰もが、知らないうちに同じ舞台を共有している。
私たちのいる場所から少し離れた場所に、母親の車が停まっていた。
車の窓から顔を出した母親が、
「ねえ、話が長くなるなら、丘のふもとの商店街で夕食の買い物をしてくるわ。
それから、あなたを拾いにここへ戻ってくるから」
と大きな声で言った。
私は、
「分かった!」
と大きな声で応じた。
母と兄が乗った車が走り出す。
車が十分遠ざかったのを見届けてから、
陽也は、私をチラリと見た。
私もチラリと陽也を見た。
その視線のやりとりだけで、急に親密な空気が二人の間に生まれた。
陽也が照れ臭そうに頬を赤くして、
「なあ、夏音……、
俺さ、
おまえのこと……」
と言った。
私は言いかけた陽也に、そっと顔を寄せた。
自分でも信じられないくらい自然な動作だった。
秋の日差しが金粉のように地上にふる。
その下で、陽也の顔と自分の顔が重なった。
陽也の唇の感触を、自分の唇に感じた。
それは、自分の唇よりは少しだけ硬質だった。陽也の唇は熱を持っていたのに、鼻先は秋風に吹かれて冷たかった。
そっと唇を離すと、
「続きは、退院したら聞かせて」
と言った。
「分かった」
陽也と私は、丘の中腹で約束を交わした。
祝福の拍手をするように、風に鳴るススキの白穂に囲まれて。
丘のてっぺんには、二人の物語を見届けるように病院が立っていた。
私は病院に振り返った。
そして、澄んだ空に向かって、
希望の塔のように建つその建物を見上げた時、陽也が私の頬にキスをした。
私は思わず幸福に目を閉じて、まぶたの裏に秋の日差しを受け止めていた。
完
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透明感にあふれた独特の文章が素敵で、苦しさや悲しさが描かれた場面でも、一方で美しさを感じながら読ませていただきました。
主人公をはじめ登場人物のみんなが希望へ向かえるラストが良かったです。
ありがとうございます!
感想をいただいて、とても励みになりました。
病気をもちながら生きていく人たちは、たくさん悲しいことも苦しいことも経験すると思いますが、
人間ってとっても強い生き物で、
外来には訪れた患者さんの笑顔があふれています。
悲しみを昇華した上でのその笑顔は、とても美しいなと私は常々思っています。
まだそれを表現する技術がありませんが、これからも技術を磨いて、そういった美しさを表現できる作品を描きたいなと思っています。
感想、本当にありがとうございました。
これからもがんばります。
すてきな作品ですね。表現がわかりやすく、情景が目に浮かびました。
続きが楽しみです(^^)
嬉しいです!
続きを楽しみにしてくださっている方がいると思うと、
本当に励みになります。
これからも、情景がつたわるような小説をがんばって書いていきます(^^)
感想、ありがとうございました!