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母から息子へ
しおりを挟むーー気がつけば、私は知らない場所にいた。
ここは、どこだろう?
私、さっきまで何をしていたんだっけ?
ええと……、ええと……。
頭の中は、白いモヤがかかったみたい。
何も思い出せない。
ええと……、周りに見えるものは……?
今は何月何日で、季節は……。
頭の中で言葉をつむごうとしても、解けていくみたい。
ワタシ、ドウシチャッタノ……?
たぶん、ここは、どこかの建物。
見覚えはない。
前方を眺めると、誰か歩いてくる。
誰?
誰?
すれ違ったのは、杖をついたおばあさんだった。
「あの……」
話しかけたけれど、そのおばあさんは、私の声なんて聞こえていないみたいに、ブツブツ独り言を言いながら通り過ぎていった。
あの人は誰?
ここはどこ?
私はどうしてここにいるの?
不安……。不安……。不安……。不安……。
ふるえるほどに怖いと私は思った。
こんな場所にいられない。家に、帰らなくては……。
廊下の壁に手をつきながら歩いてくるおじいさんがいたので、私はおじいさんにこう言った。
「あの、私、うちに帰りたいんです……」
おじいさんは、ギロっと怖い顔をして私を見た。
「同じ話を何度もするな!
帰れるか! ここでわしら暮らしとるんじゃないか!」
帰れない? どういうこと?
不安がムクムクと大きくふくらみ、私は落ち着いていられなかった。
「いや、帰りたい‼︎
うちはどこ?!」
「やかましい! 何度も何度も!」
怒られた! 怒られた! どうして?
やっぱり怖い。ここは怖い。
今すぐここを出て行きたい!
「助けて! 誰か助けて‼︎」
私が大声で叫ぶと、エプロンと名札をつけた女性がたくさん集まってきた。
「どうしたんですか、セツコさん、ヨシオさん」
「こいつが、何回もおなじことを言うから、頭にきたんだ」
「まあまあ……」
エプロンの女性の一人が、おじいさんにむかってなだめるような声を出した。
何を言っているのか、さっぱり理解できない。
だけど、おじいさんは怖い顔をしているし、エプロンの女性たちは困ったような顔をしている。
言ってることはわからないけど、表情だけは読み取れた。
何かよくない雰囲気……。
何が起こっているんだろう……?
不安、不安……。やっぱり不安……。
私はそのあと、エプロンの女性たちに連れられて、ベッドと机とタンスのある部屋にやってきた。
彼女らの一人は私に向かってこう言った。
「さあ、お部屋に戻りましたよ。ゆっくりしててくださいね」
その言葉が終わるやいなや、彼女らはみんなクルリと私に背を向けた。そして、私をそこに残して、みんなどこかに行ってしまった。
「あの……」
ここはどこ?
そう尋ねる前に、ドアは閉じてしまった。
バタン。
部屋に広がる静けさ。
私は幼い時、隣町へ母と買い物に行った時に迷子になったことがあるのだけれど、その時の心細さを思い出した。最近のことは何も思い出せないのに、昔のことはやけにありありと思い出せた。
あの時私は、もう、一生家に帰れないんじゃないかと思って泣き出したいほど不安だった。そして、孤独だった。
私が、見知らぬ部屋で不安と孤独に押しつぶされそうになっていた時、ふと、一つの記憶がちらちらと頭の中をちらついた。
ステンレスの流し台、ラックにたてられた食器、炊飯器からは炊き立てのご飯のにおい、コンロにかけられた鍋の中ではカレーがグツグツと音を立てながら湯気をたてている。鍋はよく使い込まれていて、持ち手を握ると、私の手によくなじむ。
ああ、ここは我が家だ。
私の居場所。
私は記憶の中の光景をうっとりと眺めた。
すると、バタバタと廊下をかけてくる子供の足音が聞こえた。
ランドセルの金具をカチャカチャ鳴らしながら走ってくる。
私は、記憶の中のキッチンに立って、音がする方に振り返った。
すると、廊下からキッチンへ、ひょこっと小さな顔がのぞいた。
私はついつい微笑んだ。
日にやけた手足。
笑うと赤ん坊の頃の面影がよぎる顔。
私によく似た口元。
ああ、あの子だ。
あの子が帰ってきた。
あの子は、私の顔を見て、にこっと微笑んだ。私がこの世で一番愛おしいと思う笑顔。
私は深く息を吸い込んだ。
先ほどまで胸いっぱいに広がっていた不安はすっかり消えていた。
思い出された記憶が、見知らぬ場所にいる私の心を幸福で包んでくれた。
ああ、あの子のおかげだ、と私は思った。
……そう言えば、あの子は、今、どこにいるのだろう。
あの子がお腹をすかせていたらいけない。だから、ごはんをつくらなくては……。
材料は、
材料は……。
私が部屋でゴソゴソしていると、やだっという声が聞こえた。
私は振り返った。すると、エプロンをつけた女性が、口元に手を当て、眉間にシワを寄せて立っていた。
「差し入れをそんなにぐちゃぐちゃにして……」
そう言って、私の手首をつかんだ。
私の手からボトリと、何かがテーブルに落ちる。
私は、何をしていたんだっけ?
ボウルの中で、野菜をこねて和物を作っていたような……。
「セツコさん、だめですよ。またこんなことして。ああ、もう、掃除が大変。家族さんにも、差し入れを部屋において帰らずにスタッフに預けてくださいって言っておいたのに」
何かしらないけれど、怒られてしまった。
そういや、前も怒られた気がする。
よく覚えていないけれど、何か怖い思いをした気がする。
私は、ひどく悲しかった。悲しくて、不安で、孤独だった。頭は相変わらずモヤがかかったみたいだった。
まるで、深い霧がたちこめた森で迷子になったみたい……。
• • •
それからも、私は不安と孤独のモヤの中で生きていた。
そしてーー、
ふと気がつくと、私は車の中にいた。
車は細い道を走っている。
周りには人家が見えた。
車は静かにゆっくりと走っている。
心地よい振動を体に感じた。
やがて、運転席に座っている誰かが、運転席側の窓が開いた。
ゆうげのにおいが、車の中にふわっと入ってくる。
私は懐かしい気持ちになった。
優しいにおい。
家庭の食卓のにおい。
運転席にいる誰かも、懐かしそうな顔をして窓の外に顔を向けていた。
なぜだか分からないけど、私はその人に懐かしいような、愛おしいような気持ちを感じた。込み上げてきた、と言った方が正確かもしれない。私は、その気持ちに押し動かされ、思わず隣の人に手を伸ばした。
そして、そっと頭に触れた。
手のひらに触れる頭の形に、うっすらと何かしらの記憶がよみがえろうとする。私はなぜか泣きたいような気持ちになった。
隣の人は私に振り返った。
そして、私をじっと見つめた。
私は少し緊張した。
その人が、どんな反応をするのか分からなくて身がまえた。
すると……、
その人は、私に優しく微笑んだのだった。
その顔に、懐かしい顔が重なったーー。
廊下を走ってくる足音。
駆けるたびにカチャカチャ鳴るランドセルの金具の音。
そして、廊下からひょこっとキッチンをのぞく顔。
私を見て、パッとにこやかになる顔。
その子は、キッチンに立つ私のそばに駆け寄ってくると、
〝夕ごはん、何?〟
と、私を見上げて尋ねてくる。
ああ、この顔ーー、と私は思う。
この顔を見たくて、私は毎日ごはんをつくってきた。
生まれた日から、ずっと、毎日、私に向けてくれた笑顔。
私がこの子を育て、守り、いつくしんできたようで、実は私の方がいつもこの子の笑顔に助けられてきた。
〝お母さん、どうしたの?〟
〝ううん、なんでもない〟
そんな会話をしながら子供と食事を食べる。そして、そうしながら、私はこんなことを考えていた。
ーー私は、この子から、どのくらいたくさんの笑顔をもらっただろう。
その笑顔の全てが、私の宝物だった。
今、目の前で微笑んでいる顔は、懐かしいその笑顔とよく似ていた。
その笑顔を見ていると、不安と孤独のモヤにつつまれた世界に、パッと明るい花が咲いたみたいだった。
ありがとうーー。
私は心のなかでつぶやいた。
こんなふうに、私の心を明るくしてくれた笑顔に。
どこか懐かしい笑顔にーー。
•••
開いた車窓からゆうげのにおいが舞い込んでくる。
懐かしいにおい。
毎日、子育てに奮闘していた、大変で忙しくて幸福だったころのにおい。
記憶はにおいに誘われるように、昔へ、昔へと帰っていく。
〝お母さん!〟
公園でベンチに座っていると、三歳くらいの、幼い息子が私に向かって駆けよってくる。膝や手のひらに砂をくっつけて。
私は駆けよってきた息子を抱き上げる。
抱き上げると、息子はコロコロと小さい子供に特有の笑い声をたてて笑った。
風が公園をザアッと吹き抜ける。
私の足元に生えていた、たくさんのたんぽぽの綿毛が、風にのって空に舞い上がる。いくつも、いくつも、数えきれないほど……。
やがて、それは私の目の前を真っ白に覆ってしまった。
風が柔らかくなる。
気がつくと、私は真っ白いレースのカーテンが揺れる部屋にいた。
ああ~、あああ……。
赤ん坊が泣く声が聞こえる。
窓際にベビーベッドがあるのが見えた。
のぞきこむと、まだ首の座らない赤ん坊が顔を真っ赤にして泣いていた。
ーーああ、私の子が泣いている……。
私は、息子に笑いかけ、息子を抱き上げた。
すると、さっきまで泣いていたのに、私に抱き上げられた途端に、泣き止んでしまった。
そして、私の顔を見て、あう、あう、と声を出しながら笑った。
その笑顔を見つめる私の心の中に、パッと明るい花が咲いた。それは、幸福という名前の花だった。
たくさんの記憶が駆けめぐる。そして、記憶と共によみがえった感情が、車に揺られる私を満たす。
私は、どこかにいる息子にこう思った。
〝息子へ、
たくさんの笑顔を、
たくさんの幸福をありがとうーー〟
私は、この気持ちが、息子に届くことを願っている。
完~~
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