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廃バスの記憶 〜じわじわと日常を侵食する恐怖
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「お土産、買いすぎたかな」
会社の同僚と、バスツアーに行った帰りのことだった。
「買いすぎたかも。楽しすぎて、テンションあがっちゃってたよね」
同僚の女性は、顔をほころばす。
バスの車内は、旅行の思い出話をする観光客の声で賑やかだった。
「本当、楽しかったね。明日から仕事だなんて、やだなあ」
「もう一泊したかったよね」
「本当にね」と相槌をうちながら、私はなんとなく窓の外を見た。
バスは、林に両脇を挟まれた国道を走っていた。
うっそうとした針葉樹の林が目に映る。
時刻はもう午後七時。
とっくに日は暮れていて、
林は暗闇に沈んでいた。
道路脇に設置された街灯に照らされたあたりだけ、木々の姿がぼんやりと見えていた。
無言で立ち並ぶ木々は、息を潜める怪物みたいだった。
なぜかしら、
理由は分からないけれど、
見ているものから目を離せなくなることが、
私にはある。
何気なく眺めていても、
じっと凝視しているうちに、
その景色が何か意味のあるものに思えてくる。
林の奥の闇が、何が訴えかけてきているように思え始めた。
その時ーー。
「なんか、不気味だね」
同僚が私の耳元でそう言った。
通路側の席に座っていた同僚が、
いつの間にか窓に顔を近づけて、林を眺めていた。
「そうかな?
別に不気味だなんて思わないけど」
私は同僚の言葉を否定したが、
声がうわずっていた。
言葉にされたことで、
私の中にあった〝恐怖心〟が、
無視できないものとなってしまった。
早く、こんな林を抜け、
明るい場所に出ればいいのにーー。
そう思った時、
私は目撃してしまった。
林の中に打ち捨てられた
〝廃バス〟を。
それは、時速60kmで走るバスのライトに、
一瞬だけ照らし出され、
そして、一瞬のうちに見えなくなった。
しかし、私はその一瞬で、
廃バスを目に焼き付けてしまった。
なぜか、異様にくっきりと、
目に飛び込んできたのだ。
廃バスは、
何年も放置されていたようで、
車体は錆び、もとの色さえ分からないありさまで、窓ガラスはすべて割れていた。
暗闇にひっそりとたたずむ廃バスは、
それ自体が怪物のように見えた。
私はそれから、
暗いバスの車内で、たびたび廃バスを思い出した。
瞬きするたびに、
まぶたの裏に、あの廃バスを見た。
車窓の外の闇、
バス特有のにおい、
揺れる車体、
乗客の咳払い。
そして、瞬きのたびにちらちらと蘇る廃バスの光景。
私はだんだんと心地が悪くなってきた。
同僚は、いつの間にか眠っていた。
その他の乗客も、先ほどまで騒がしくしゃべっていたのに、
いつの間にか一人残らず眠っていた。
車内がしんと静まりかえっている。
もう、旅行帰りの高揚した気分はすっかり消えていた。
今はもう、早くアパートに帰って、
見慣れた景色の中でホッとしたいと思っていた。
私は目的の駅でバスから降りて、
スーツケースを受け取り、
土産の紙袋をさげて帰途に着いた。
その暗い道々、やっぱり廃バスを思い出した。
私の背後を、不気味な記憶が追いかけてくるようだった。
でも、明日になったら、きっと忘れるはず。
明日忘れていなくても、明後日になったら忘れるはず。
ほら、私の住むアパートがもう見えてきた。
帰ったら、まずバスタブにお湯をはろう。
そして、あったかい湯に身を沈めよう。
それから、
荷物をスーツケースから出して、
明日の出勤の準備をしたら、
冷蔵庫にある冷えたビールを飲もう。
ほら、もう大丈夫だ。
日常に帰ってきた。
私はそう思いながら、自宅のドアノブに手をかけた。
ガチャリ、という音がした。
私はその瞬間に硬直した。
開いたドアの向こうには、夜の林があった。
そして、林の中には、打ち捨てられた廃バスがあった。
廃バスはまるで、巨大な怪物の死骸のようだった。
私は「ひっ」と声を上げたが、
次の瞬間には、廃バスも林も煙のように消え、
見慣れたアパートの玄関がそこにはあった。
今のは何?
まるで、映画のフィルムの一コマだけ、
間違ったフィルムが混じってしまったみたいに、
一瞬だけそこにないはずの景色が見えたのだ。
そんなことは、翌朝以降も続いた。
朝起きると、
自宅で眠っていたはずの私の目に、
林の景色が飛び込んでくる。
そして、そこには必ず廃バスがあるのだ。
私は驚き、目を覆う。
それから、恐る恐る指の隙間から辺りをうかがうと、
そこには見慣れた寝室があるのだった。
そんなことが毎朝続いた。
私は次第に、朝を迎えるのが怖くなってきた。
朝になるたび、あの景色の中に引き戻されてしまう。
その景色は、今にも私を日常から引き離して、
飲み込んでしまいそうに思えた。
そして、あの廃バス。
あの廃バスには、
何者の姿もなかったが、
そこに何かがいるような気配がありありと感じられた。
姿が見えないから、
いっそう、気配だけを濃厚に感じた。
私は、だんだんと眠れなくなっていった。
ある夜だった。
ベッドでうつらうつらとしながら、
眠っているのか、眠っていないのか分からないような状態で一晩過ごした。
そして、朝がきた。
私はその日、朝が来ても廃バスを見なかった。
良かった。
そう思った時だった。
私は自分がベッドの上にいないことに気がついた。
布ばりのバスのシートの上に私はいた。
肘掛けは折れ、
シートの足元には水が溜まっていた。
ゆっくりとあたりを見渡すと、
壊れたシートや、落下した天井で散乱した、
バスの車内が見えた。
そう、私はあの廃バスの中にいたのだ。
私は声にならない悲鳴をあげ、
ガラスのはまっていない窓から外へ出ようと身を乗り出した。
その時、明かりが遠くから近づいてきた。
観光バスのフロントライトだ。
廃バスの窓の外には林があって、
林を抜けた場所には車道があった。
そこを観光バスが走っている。
そして、
観光バスは、私がいるこの場所を、
サアッと光でなでて遠ざかっていった。
私はその時、
もう一人の自分が、
観光バスに乗って遠ざかっていったような感覚を覚えた。
もう、ここから戻れないんだ。
そんな予感がした。
私は、窓枠にすがりついて、
喉が焼きつきそうな叫び声をあげた。
• • •
気がつくと、
私は見慣れた寝室のベッドの上にいた。
朝の光が、カーテンの隙間からさしていた。
窓を開くと、
アパートの庭の銀杏の香りがして、
秋の朝の冷たい空気が舞い込んできた。
その後、私は再び廃バスを見ることはなかった。
穏やかな日常がもどってきた。
しかし、私はいまだに、
自分が廃バスの中にいるような気がしている。
もう一人の自分が、
あの場所に取り残されているみたいに……。
目を閉じれば、
ほらーー、
濡れた冷たい夜の林と、
バスの錆びた車体のにおいを感じる気がする。
ありありと、すぐそばにーー。
完
会社の同僚と、バスツアーに行った帰りのことだった。
「買いすぎたかも。楽しすぎて、テンションあがっちゃってたよね」
同僚の女性は、顔をほころばす。
バスの車内は、旅行の思い出話をする観光客の声で賑やかだった。
「本当、楽しかったね。明日から仕事だなんて、やだなあ」
「もう一泊したかったよね」
「本当にね」と相槌をうちながら、私はなんとなく窓の外を見た。
バスは、林に両脇を挟まれた国道を走っていた。
うっそうとした針葉樹の林が目に映る。
時刻はもう午後七時。
とっくに日は暮れていて、
林は暗闇に沈んでいた。
道路脇に設置された街灯に照らされたあたりだけ、木々の姿がぼんやりと見えていた。
無言で立ち並ぶ木々は、息を潜める怪物みたいだった。
なぜかしら、
理由は分からないけれど、
見ているものから目を離せなくなることが、
私にはある。
何気なく眺めていても、
じっと凝視しているうちに、
その景色が何か意味のあるものに思えてくる。
林の奥の闇が、何が訴えかけてきているように思え始めた。
その時ーー。
「なんか、不気味だね」
同僚が私の耳元でそう言った。
通路側の席に座っていた同僚が、
いつの間にか窓に顔を近づけて、林を眺めていた。
「そうかな?
別に不気味だなんて思わないけど」
私は同僚の言葉を否定したが、
声がうわずっていた。
言葉にされたことで、
私の中にあった〝恐怖心〟が、
無視できないものとなってしまった。
早く、こんな林を抜け、
明るい場所に出ればいいのにーー。
そう思った時、
私は目撃してしまった。
林の中に打ち捨てられた
〝廃バス〟を。
それは、時速60kmで走るバスのライトに、
一瞬だけ照らし出され、
そして、一瞬のうちに見えなくなった。
しかし、私はその一瞬で、
廃バスを目に焼き付けてしまった。
なぜか、異様にくっきりと、
目に飛び込んできたのだ。
廃バスは、
何年も放置されていたようで、
車体は錆び、もとの色さえ分からないありさまで、窓ガラスはすべて割れていた。
暗闇にひっそりとたたずむ廃バスは、
それ自体が怪物のように見えた。
私はそれから、
暗いバスの車内で、たびたび廃バスを思い出した。
瞬きするたびに、
まぶたの裏に、あの廃バスを見た。
車窓の外の闇、
バス特有のにおい、
揺れる車体、
乗客の咳払い。
そして、瞬きのたびにちらちらと蘇る廃バスの光景。
私はだんだんと心地が悪くなってきた。
同僚は、いつの間にか眠っていた。
その他の乗客も、先ほどまで騒がしくしゃべっていたのに、
いつの間にか一人残らず眠っていた。
車内がしんと静まりかえっている。
もう、旅行帰りの高揚した気分はすっかり消えていた。
今はもう、早くアパートに帰って、
見慣れた景色の中でホッとしたいと思っていた。
私は目的の駅でバスから降りて、
スーツケースを受け取り、
土産の紙袋をさげて帰途に着いた。
その暗い道々、やっぱり廃バスを思い出した。
私の背後を、不気味な記憶が追いかけてくるようだった。
でも、明日になったら、きっと忘れるはず。
明日忘れていなくても、明後日になったら忘れるはず。
ほら、私の住むアパートがもう見えてきた。
帰ったら、まずバスタブにお湯をはろう。
そして、あったかい湯に身を沈めよう。
それから、
荷物をスーツケースから出して、
明日の出勤の準備をしたら、
冷蔵庫にある冷えたビールを飲もう。
ほら、もう大丈夫だ。
日常に帰ってきた。
私はそう思いながら、自宅のドアノブに手をかけた。
ガチャリ、という音がした。
私はその瞬間に硬直した。
開いたドアの向こうには、夜の林があった。
そして、林の中には、打ち捨てられた廃バスがあった。
廃バスはまるで、巨大な怪物の死骸のようだった。
私は「ひっ」と声を上げたが、
次の瞬間には、廃バスも林も煙のように消え、
見慣れたアパートの玄関がそこにはあった。
今のは何?
まるで、映画のフィルムの一コマだけ、
間違ったフィルムが混じってしまったみたいに、
一瞬だけそこにないはずの景色が見えたのだ。
そんなことは、翌朝以降も続いた。
朝起きると、
自宅で眠っていたはずの私の目に、
林の景色が飛び込んでくる。
そして、そこには必ず廃バスがあるのだ。
私は驚き、目を覆う。
それから、恐る恐る指の隙間から辺りをうかがうと、
そこには見慣れた寝室があるのだった。
そんなことが毎朝続いた。
私は次第に、朝を迎えるのが怖くなってきた。
朝になるたび、あの景色の中に引き戻されてしまう。
その景色は、今にも私を日常から引き離して、
飲み込んでしまいそうに思えた。
そして、あの廃バス。
あの廃バスには、
何者の姿もなかったが、
そこに何かがいるような気配がありありと感じられた。
姿が見えないから、
いっそう、気配だけを濃厚に感じた。
私は、だんだんと眠れなくなっていった。
ある夜だった。
ベッドでうつらうつらとしながら、
眠っているのか、眠っていないのか分からないような状態で一晩過ごした。
そして、朝がきた。
私はその日、朝が来ても廃バスを見なかった。
良かった。
そう思った時だった。
私は自分がベッドの上にいないことに気がついた。
布ばりのバスのシートの上に私はいた。
肘掛けは折れ、
シートの足元には水が溜まっていた。
ゆっくりとあたりを見渡すと、
壊れたシートや、落下した天井で散乱した、
バスの車内が見えた。
そう、私はあの廃バスの中にいたのだ。
私は声にならない悲鳴をあげ、
ガラスのはまっていない窓から外へ出ようと身を乗り出した。
その時、明かりが遠くから近づいてきた。
観光バスのフロントライトだ。
廃バスの窓の外には林があって、
林を抜けた場所には車道があった。
そこを観光バスが走っている。
そして、
観光バスは、私がいるこの場所を、
サアッと光でなでて遠ざかっていった。
私はその時、
もう一人の自分が、
観光バスに乗って遠ざかっていったような感覚を覚えた。
もう、ここから戻れないんだ。
そんな予感がした。
私は、窓枠にすがりついて、
喉が焼きつきそうな叫び声をあげた。
• • •
気がつくと、
私は見慣れた寝室のベッドの上にいた。
朝の光が、カーテンの隙間からさしていた。
窓を開くと、
アパートの庭の銀杏の香りがして、
秋の朝の冷たい空気が舞い込んできた。
その後、私は再び廃バスを見ることはなかった。
穏やかな日常がもどってきた。
しかし、私はいまだに、
自分が廃バスの中にいるような気がしている。
もう一人の自分が、
あの場所に取り残されているみたいに……。
目を閉じれば、
ほらーー、
濡れた冷たい夜の林と、
バスの錆びた車体のにおいを感じる気がする。
ありありと、すぐそばにーー。
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