7 / 13
7話 アランの本音
しおりを挟む
慌てて立ち上がり、窓を閉める。タイミングよくアランが戻ってきた。
「アラン、窓の外が夜になってしまったの? 何かあったのかしら?」
心配になって訊ねると、私の顔を見たアランが、ぷっと噴き出し、口を覆って笑い出した。
何が起こったのかわからない私は、笑っているアランをぼんやりと眺める。
やがてアランは顔を戻し、「失礼しました」と謝った。胸ポケットから取り出したハンカチで、私の顔を拭う。
「え? ちょっと‥‥‥」
戸惑って体を引くと、荷物から手鏡を取り出し見せてくれた。
鏡に映るのは、鼻先と頬が黒く染まった私の顔。
「どうして、こんなことに?」
「トンネルに入ると、汽車の煤が入ってくるのです。警笛が鳴りませんでしたか?」
「警笛? 気づかなかったわ」
「では、今後汽車に乗る時、警笛が鳴ればすぐに窓を閉めてください。でないと、また、ふふ‥‥‥煤けますよ」
注意を促しながらも、最後は明らかに笑っていた。私を座らせてから、ハンカチで顔を拭ってくれる。
むくれながら、でもおとなしくされるがままになる。こんな顔では、顔を洗いに個室から出ることもできない。アランに甘えない、とさっき思ったばかりなのに。
優しい笑みを浮かべながら、やっていることは私のお世話。当たり前のようにしているけれど、アランはどうして、ついてきてくれたのかしら、嫌じゃないのかしらと気になった。
ふと、違和感に気づいた。いつもどおりの優しい表情なのに、いつもと違う。
「あ‥‥‥髪型」
頭に沿うように固めていた髪が下りていて、こめかみを覆っている。まだ濡れていて、溜まった雫がぽたっと落ちた。
いつもと違う雰囲気に、私の心臓が早鐘を打つ。
腕を伸ばし、頬を濡らした雫を拭ってやると、アランは驚いたように軽く目をみはった。
「髪を洗ったの?」
「はい。実を言うと、髪が固いのは苦手だったのです」
「そう、だったのね。知らなかったわ」
「清潔さを求められていましたから、崩れる髪型はできなかったのです。でも、もう自由でよろしいのですよね」
「もちろんよ。あなたは執事じゃないもの」
「ありがとうございます。シェリーヌ様」
「敬称もいらないわ。私は貴族の身分を捨てて平民になるの。アランは執事でなくなったんだから、おかしいわ」
「そうですが‥‥‥急には無理です。わたしは生まれた時から執事教育を受け、シェリーヌ様が生まれた時から、お世話をさせていただいておりますから」
「ねえ、アラン」
顔を拭いてくれているアランの手に、自分の手をそっと重ねる。
「どうして、私の世話を焼いてくれるの? 私は世間知らずで、あなたに面倒ばかりかけるのが目に見えているのに。自由になるチャンスを逃していいの? それとも私をアノルド国で降ろしてから、自由になるつもりなの?」
「シェリーヌ様をおひとりにはさせません。あなたといることが、わたしにとっての自由なのです」
「どうしてそこまでしてくれるの? お給金はもう出せないの。両親の領地は取られてしまったから」
「そんなものは、いりません。使う暇がなかったので、個人資産はそれなりにありますから」
「それじゃあ、情? 全てを失った私が可哀想だから?」
「いいえ。情でついてきたのではありません。わたしがいるのは、ご迷惑ですか? 新しい生活を始めるのに、わたしがいると踏み出せませんか?」
「そんなわけないわ! とても心強いの。でも、私はアランに甘えてしまう。頼ってしまうから、成長できないでしょう?」
顔を拭うために顎に軽く添えられていた指が、私の頬を包み込む。
「甘えてください、頼ってください。成長のお手伝いは、わたしがいたします」
アランの真摯な言葉が、私の胸を打つ。一歩踏み込みたい。踏み込んでもいいかしら? と何かが私の背中を押した。
「側近として?」
酷く弱々しい声。アランが、何と言うのか、返事を聞くのが怖い。けれど、訊いてしまったからには、答えが知りたい。返事によっては、今後一緒にいるのがつらくなるかもしれないのに。
「側近としてではありません」
はっきりと、違うと否定してくれた。でも、私が訊きたいのはその先。アランの心が知りたい。
見つめあっていたのに、アランの視線が少し外れた。顔を拭っていた右手が持ち上がる。
優しく撫でるのは、アランがくれた髪留め。
もう一度、目を合わせてくれる。
「身分がなくなるのですから、叶わぬ恋に身を焦がさなくていい。あなたを諦めなくていい。ということですよね」
今度は私が目をみはる番だった。
次回⇒8話 5年後、夫婦になって
「アラン、窓の外が夜になってしまったの? 何かあったのかしら?」
心配になって訊ねると、私の顔を見たアランが、ぷっと噴き出し、口を覆って笑い出した。
何が起こったのかわからない私は、笑っているアランをぼんやりと眺める。
やがてアランは顔を戻し、「失礼しました」と謝った。胸ポケットから取り出したハンカチで、私の顔を拭う。
「え? ちょっと‥‥‥」
戸惑って体を引くと、荷物から手鏡を取り出し見せてくれた。
鏡に映るのは、鼻先と頬が黒く染まった私の顔。
「どうして、こんなことに?」
「トンネルに入ると、汽車の煤が入ってくるのです。警笛が鳴りませんでしたか?」
「警笛? 気づかなかったわ」
「では、今後汽車に乗る時、警笛が鳴ればすぐに窓を閉めてください。でないと、また、ふふ‥‥‥煤けますよ」
注意を促しながらも、最後は明らかに笑っていた。私を座らせてから、ハンカチで顔を拭ってくれる。
むくれながら、でもおとなしくされるがままになる。こんな顔では、顔を洗いに個室から出ることもできない。アランに甘えない、とさっき思ったばかりなのに。
優しい笑みを浮かべながら、やっていることは私のお世話。当たり前のようにしているけれど、アランはどうして、ついてきてくれたのかしら、嫌じゃないのかしらと気になった。
ふと、違和感に気づいた。いつもどおりの優しい表情なのに、いつもと違う。
「あ‥‥‥髪型」
頭に沿うように固めていた髪が下りていて、こめかみを覆っている。まだ濡れていて、溜まった雫がぽたっと落ちた。
いつもと違う雰囲気に、私の心臓が早鐘を打つ。
腕を伸ばし、頬を濡らした雫を拭ってやると、アランは驚いたように軽く目をみはった。
「髪を洗ったの?」
「はい。実を言うと、髪が固いのは苦手だったのです」
「そう、だったのね。知らなかったわ」
「清潔さを求められていましたから、崩れる髪型はできなかったのです。でも、もう自由でよろしいのですよね」
「もちろんよ。あなたは執事じゃないもの」
「ありがとうございます。シェリーヌ様」
「敬称もいらないわ。私は貴族の身分を捨てて平民になるの。アランは執事でなくなったんだから、おかしいわ」
「そうですが‥‥‥急には無理です。わたしは生まれた時から執事教育を受け、シェリーヌ様が生まれた時から、お世話をさせていただいておりますから」
「ねえ、アラン」
顔を拭いてくれているアランの手に、自分の手をそっと重ねる。
「どうして、私の世話を焼いてくれるの? 私は世間知らずで、あなたに面倒ばかりかけるのが目に見えているのに。自由になるチャンスを逃していいの? それとも私をアノルド国で降ろしてから、自由になるつもりなの?」
「シェリーヌ様をおひとりにはさせません。あなたといることが、わたしにとっての自由なのです」
「どうしてそこまでしてくれるの? お給金はもう出せないの。両親の領地は取られてしまったから」
「そんなものは、いりません。使う暇がなかったので、個人資産はそれなりにありますから」
「それじゃあ、情? 全てを失った私が可哀想だから?」
「いいえ。情でついてきたのではありません。わたしがいるのは、ご迷惑ですか? 新しい生活を始めるのに、わたしがいると踏み出せませんか?」
「そんなわけないわ! とても心強いの。でも、私はアランに甘えてしまう。頼ってしまうから、成長できないでしょう?」
顔を拭うために顎に軽く添えられていた指が、私の頬を包み込む。
「甘えてください、頼ってください。成長のお手伝いは、わたしがいたします」
アランの真摯な言葉が、私の胸を打つ。一歩踏み込みたい。踏み込んでもいいかしら? と何かが私の背中を押した。
「側近として?」
酷く弱々しい声。アランが、何と言うのか、返事を聞くのが怖い。けれど、訊いてしまったからには、答えが知りたい。返事によっては、今後一緒にいるのがつらくなるかもしれないのに。
「側近としてではありません」
はっきりと、違うと否定してくれた。でも、私が訊きたいのはその先。アランの心が知りたい。
見つめあっていたのに、アランの視線が少し外れた。顔を拭っていた右手が持ち上がる。
優しく撫でるのは、アランがくれた髪留め。
もう一度、目を合わせてくれる。
「身分がなくなるのですから、叶わぬ恋に身を焦がさなくていい。あなたを諦めなくていい。ということですよね」
今度は私が目をみはる番だった。
次回⇒8話 5年後、夫婦になって
59
お気に入りに追加
1,860
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる