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29話 天秤

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 パニックになった円花さんが落ち着くまで側で様子を見て、二人で自宅に戻ってきた。
 僕の耳鳴りと気分が悪くなったのは一瞬だけで、すぐになんともなくなった。
 円花さんから何かの影響を受けたんだろうと推測した。

 その円花さんは、パニックからは戻ったけれど、肩を落とし元気がない。
 力なく床にぺたりと座りこみ、ぼんやりしている。
 そっとしておくのがいいのか、話しかけた方がいいのか。わからない。
 ただ、ひとりにしておくのはできなくて、僕は勉強机のイスに座って円花さんを見守った。

 しばらく経ってから、円花さんがぽつりと呟いた。

「思い出した‥‥‥よ」
「うん」

「私がトラックに撥ねられた時のこと」
 やっぱりそうだった。思い出してショックを受けていたんだ。

「話せる?」
「うん」

「ゆっくりで平気だから」
 円花さんが話す内容を、僕はメモに取った。

 すべてを聞いてから、僕はあの男の顔を思い出してイラついた。
 あいつのせいで円花さんは死んだ。心残りを抱えて幽霊になった。
 それなのに、あの男は自分が救急車と警察を呼んだと、鼻の穴を膨らませて、やや興奮気味だった。ドヤ顔を思い出して、腹が立った。

 たしか、谷恭也という名前だったな。

 妹が同じ年頃だから、他人事に思えないなんて話していたくせに、完全にあの男のせいだった。

 トラック運転手よりも、谷恭也と入れ替えたい。
 過去を代えるなら、そこから無いことにできないか。

 円花さんはつらそうに眉を寄せ、ひとり耐えている。
 僕は何もしてやれない。

 膝の上に置いていた両手は、円花さんの話を聞いている間に固く握りしめていた。
 喰い込む爪の痛さで、沸騰しかけていた頭の熱を少し冷やす。

 間違えちゃいけない。一番の目的は円花さんを生き返らせること。そこはブレちゃいけない。
 あれこれ欲張って、失敗したら意味がない。欲張らないように、と自分を戒めておく。

 原因はわかった。
 あの男を、事故の日に円花さんに近づけない。そうすれば、事故をなかったことにできるはずだ。

 あの日の僕は何をしていたんだろう。きっと家でボカロを聴いたり、動画を見たりしていたんだろう。過去の自分の体を使って、あの男を見張っておくことしてーー。

 もう少し情報が欲しいな。

「円花さん、水族館で家に帰ったって言ってたよね。それで、写真とか遺骨がなかったって」
「うん。目につくところにはなかった」

「ちゃんと見てきてもらうってのは、つらいかな?」
 ずっと引っ掛かっていた。新聞での事故の記事は重体と書いていて、死亡とは書かれていない。その後、いつ亡くなったのか。
 わかったところで、意味がないかもしれないけど。

「私が事故の後、すぐに死んじゃったのかどうか、知っておいた方がいいってことだよね」
「リスクを回避するのに必要かどうかはわからない。だから、無理にとは言わないよ」

「わかった。行ってくる」
 立ち上がろうとする円花さん。

「ああ、今すぐじゃなくても大丈夫だよ。円花さんの気持ちが落ち着いたらで、いいから」
 引き留めると、再びすとんと腰を下ろした

「‥‥‥ありがとう。いろいろやろうとしてくれて。私が弱いから、事故と向き合うのが怖いの」

「怖くてあたりまえだよ。僕だって、轢かれてないのに恐怖心が残ってるんだから。無理はしなくていいよ」

 力をなくしてしぼんだようだった円花さんが、顔を上げて少しだけ微笑んでみせた。
「ユージくんは、やっぱり優しいね。いざという時に行動力があって、寄り添うこともしてくれる。生きてる時に会いたかったな」

 円花さんは、いつも明るくて、ヒマワリみたいな元気な笑顔で、感情表現が豊かで。素直な子なんだと思う。
 そんな子が元気をなくして落ち込んでいるのを見ると、何かしてあげたくなる。

 やっぱり、怖い思いそのものをなくしてあげたいな。
 僕の頭の中で、リスクと円花さんが載った天秤が、不安定に揺れていた。



   次回⇒30話 円花さんの真実
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