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第四話 大澤香 ~迷いのち覚悟~
深い悲しみ
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黒岩先生の訃報が届いたのは、大学三年の十月だった。
大学生活は充実していたものの、過密なスケジュールであったとも置き換えられる。
祖父母宅から通学し、近くに先生のお宅はあるけど、なかなか立ち寄れず、先生もお忙しいだろうと勝手に理由をつけ、顔を見に行かなかった。
ピアノは担当である田岡先生の指導があったから、黒岩先生に質問をすることもなかった。
十か月ぶりに黒岩先生にお会いしたのは、年度末コンサートの出演後だった。
夫人に付き添われた黒岩先生は、驚くほど痩せていた。
まるまると太っていたわけではないけれど、全体的に丸くふっくらしたフォルムで、ゆるキャラか某有名チキン販売店のマスコット人形のようだったのに、頬はこけ、肩も胸も腕もお腹も肉が削げ落ちていた。ゆるキャラがぬいぐるみ部分を脱いだ後みたいな。
目を剝いて言葉を失うあたしに、先生は、
「軽い病気をしてね。ついでにダイエットしたんだ。贅肉がなくなったから、家内の旨い飯をまたたらふく食えるよ」
そう言って笑った。
実際、先生はその後元気を取り戻し、ピアノの指導を続けた。
食は細くなっていたけれど、声にも身体にも力が戻り、あたしは安心し、また忙しい日々にかまけた。
二年の年度末コンサートの時は元気な姿を見せていたのに、それから半年で逝ってしまわれるとは、思ってもいなかった。
享年七十八歳。
病気の発覚から亡くなる直前まで先生ご自身の演奏を録音した、先生が敬愛するベートーヴェンが流れる中、これまで指導してきたたくさんの生徒たちや、交流のある音楽家たちに囲まれて見送られた。
あたしは突然のことに動揺し、ぼんやりとした中で祖父母と告別式に出席し、気が付けば終わっていた。
顔見知りの人たちは、先生の思い出を語りに飲みに行ったけど、あたしはお酒を飲めないし、お酒の席で思い出を語るのはなんだか嫌だった。
受験時、黒岩先生に教えを受けたという後輩に誘われたけれど、断った。
祖父母と一緒に車に乗るのさえ気が進まず、一人になりたくて駅に向かった。
歩きながら先生との思い出に浸ろうとした。
だけど脳がうまく機能しなくて、何も考えられないまま、駅に着いた。
階段を下りると、ふと一台のピアノに目が留まった。
アップライトピアノが漆黒の艶を放っている。
家に帰れば使い慣れたベヒシュタインのグランドピアノがある。
時間も人の目も気にせず弾ける。それなのに、あたしはどうしてもそのピアノを、今弾きたかった。
地下街を歩く人たちに、ピアノを弾く様子はなかった。
土曜日の昼、誰もピアノに気付かない。
触れて欲しいと訴えてかけてくるのに、目さえ向けられていない。だったらあたしが弾く。
人の流れを突っ切ってまっすぐピアノに向かった。
曲はベートーヴェン以外に考えられない。演奏をして、先生との思い出に浸ろう。
いつも演奏をするときは、聴いてくださる人に向けるのだけど、今日はそれをしない。
先生に届けよう。今日の聴き手は黒岩先生だから。
生まれた頃から身近にあった音楽を、聴くだけでなく、奏でる楽しさを教えてくれた先生。
数々のコンサートに連れて行ってくれた。
悩むあたしに押し付けをせず、考えることが大事だと道を示してくれた。
先生にもっともっとあたしのピアノを聴いてもらいたかった。
たくさんのことを教えてもらいたかった。
どうして、病気を患っていると教えてくれなかったの。
どうしてなにも言わずに逝ってしまったの。
先生にはいっぱいお礼を言いたかったのに、お別れも言えなかった。
もっと会いに行けばよかった。連絡をすればよかった。
あぁ、先生に会いたい。一緒にピアノを弾きたい。先生、黒岩先生。
頭の中は黒岩先生の恵比寿顔と思い出でいっぱいになった。
涙で鍵盤が滲んでいく。
どうか安らかに、眠ってください。見守っていてください。
最後の一音を弾き終わると、通り過ぎていた通行人が、いつのまにか足を止めて集まっていた。
聴いてくれる人がいるとは思わなかった。泣いていたことがバレちゃうかも。
気持ちを整えようと、あたしはピアノから離れた。
すると、一人の少年があたしに声をかけてきた。物怖じしない、真っ直ぐな瞳で。
あたしは彼の持ち物にすぐに気が付いた。鍵盤がプリントされた鞄。レッスンに行った帰りなのか、これからレッスンなのか。
どうやらサボったらしい。
彼はサボったのは悪いことだとちゃんとわかっていて、怒られる覚悟もしていた。
潔い態度から、何か理由があるのだろうなと察した。
十四歳の頃の自分を思い出し、あたしに何かできないかと思い、一緒に弾こうと誘った。
戸惑う彼を強引にイスに座らせた。
彼とのセッションの時間は、悲しみに包まれていたあたしの心を、少し上向きにさせてくれた。
友達がいないと寂しそうに言う蓮音くんと、友達になった。
ピアノに対して真剣に向き合い、それに実力もある彼に、黒岩先生の指導を受けさせてあげたかった。
もう先生はいない。
あたしにピアノの指導ができる自信はない。でも何か、これからの彼のピアノにプラスになるようなことをしてあげたかった。
小さな友人の悩み事に答えることは、あたしにも良い刺激になった。
気が付かなかったことにはっとさせられたり、自分が通ってきた道を振り返ったり。
出会った時十歳だった蓮音くんは、来年二月に十七歳になる。
あたしの腰ほどの高さしかなかった背丈がぐんぐん伸び、追い越された。
少年から青年になり、いつの間にか頼れる存在になった。体格面だけじゃなくて、精神的にも。
つい甘えてしまい、年上の威厳なんて蓮音くんの前では皆無だった。
年齢も性別も越えた友情が築けていると、あたしは思っている。
例え付き合っている男性とはお別れがあっても、蓮音くんとの関係は終わらせるつもりはない。
人として、ピアノを愛する者として、今後の人生に互いの存在が必要だと思っているから。
大学生活は充実していたものの、過密なスケジュールであったとも置き換えられる。
祖父母宅から通学し、近くに先生のお宅はあるけど、なかなか立ち寄れず、先生もお忙しいだろうと勝手に理由をつけ、顔を見に行かなかった。
ピアノは担当である田岡先生の指導があったから、黒岩先生に質問をすることもなかった。
十か月ぶりに黒岩先生にお会いしたのは、年度末コンサートの出演後だった。
夫人に付き添われた黒岩先生は、驚くほど痩せていた。
まるまると太っていたわけではないけれど、全体的に丸くふっくらしたフォルムで、ゆるキャラか某有名チキン販売店のマスコット人形のようだったのに、頬はこけ、肩も胸も腕もお腹も肉が削げ落ちていた。ゆるキャラがぬいぐるみ部分を脱いだ後みたいな。
目を剝いて言葉を失うあたしに、先生は、
「軽い病気をしてね。ついでにダイエットしたんだ。贅肉がなくなったから、家内の旨い飯をまたたらふく食えるよ」
そう言って笑った。
実際、先生はその後元気を取り戻し、ピアノの指導を続けた。
食は細くなっていたけれど、声にも身体にも力が戻り、あたしは安心し、また忙しい日々にかまけた。
二年の年度末コンサートの時は元気な姿を見せていたのに、それから半年で逝ってしまわれるとは、思ってもいなかった。
享年七十八歳。
病気の発覚から亡くなる直前まで先生ご自身の演奏を録音した、先生が敬愛するベートーヴェンが流れる中、これまで指導してきたたくさんの生徒たちや、交流のある音楽家たちに囲まれて見送られた。
あたしは突然のことに動揺し、ぼんやりとした中で祖父母と告別式に出席し、気が付けば終わっていた。
顔見知りの人たちは、先生の思い出を語りに飲みに行ったけど、あたしはお酒を飲めないし、お酒の席で思い出を語るのはなんだか嫌だった。
受験時、黒岩先生に教えを受けたという後輩に誘われたけれど、断った。
祖父母と一緒に車に乗るのさえ気が進まず、一人になりたくて駅に向かった。
歩きながら先生との思い出に浸ろうとした。
だけど脳がうまく機能しなくて、何も考えられないまま、駅に着いた。
階段を下りると、ふと一台のピアノに目が留まった。
アップライトピアノが漆黒の艶を放っている。
家に帰れば使い慣れたベヒシュタインのグランドピアノがある。
時間も人の目も気にせず弾ける。それなのに、あたしはどうしてもそのピアノを、今弾きたかった。
地下街を歩く人たちに、ピアノを弾く様子はなかった。
土曜日の昼、誰もピアノに気付かない。
触れて欲しいと訴えてかけてくるのに、目さえ向けられていない。だったらあたしが弾く。
人の流れを突っ切ってまっすぐピアノに向かった。
曲はベートーヴェン以外に考えられない。演奏をして、先生との思い出に浸ろう。
いつも演奏をするときは、聴いてくださる人に向けるのだけど、今日はそれをしない。
先生に届けよう。今日の聴き手は黒岩先生だから。
生まれた頃から身近にあった音楽を、聴くだけでなく、奏でる楽しさを教えてくれた先生。
数々のコンサートに連れて行ってくれた。
悩むあたしに押し付けをせず、考えることが大事だと道を示してくれた。
先生にもっともっとあたしのピアノを聴いてもらいたかった。
たくさんのことを教えてもらいたかった。
どうして、病気を患っていると教えてくれなかったの。
どうしてなにも言わずに逝ってしまったの。
先生にはいっぱいお礼を言いたかったのに、お別れも言えなかった。
もっと会いに行けばよかった。連絡をすればよかった。
あぁ、先生に会いたい。一緒にピアノを弾きたい。先生、黒岩先生。
頭の中は黒岩先生の恵比寿顔と思い出でいっぱいになった。
涙で鍵盤が滲んでいく。
どうか安らかに、眠ってください。見守っていてください。
最後の一音を弾き終わると、通り過ぎていた通行人が、いつのまにか足を止めて集まっていた。
聴いてくれる人がいるとは思わなかった。泣いていたことがバレちゃうかも。
気持ちを整えようと、あたしはピアノから離れた。
すると、一人の少年があたしに声をかけてきた。物怖じしない、真っ直ぐな瞳で。
あたしは彼の持ち物にすぐに気が付いた。鍵盤がプリントされた鞄。レッスンに行った帰りなのか、これからレッスンなのか。
どうやらサボったらしい。
彼はサボったのは悪いことだとちゃんとわかっていて、怒られる覚悟もしていた。
潔い態度から、何か理由があるのだろうなと察した。
十四歳の頃の自分を思い出し、あたしに何かできないかと思い、一緒に弾こうと誘った。
戸惑う彼を強引にイスに座らせた。
彼とのセッションの時間は、悲しみに包まれていたあたしの心を、少し上向きにさせてくれた。
友達がいないと寂しそうに言う蓮音くんと、友達になった。
ピアノに対して真剣に向き合い、それに実力もある彼に、黒岩先生の指導を受けさせてあげたかった。
もう先生はいない。
あたしにピアノの指導ができる自信はない。でも何か、これからの彼のピアノにプラスになるようなことをしてあげたかった。
小さな友人の悩み事に答えることは、あたしにも良い刺激になった。
気が付かなかったことにはっとさせられたり、自分が通ってきた道を振り返ったり。
出会った時十歳だった蓮音くんは、来年二月に十七歳になる。
あたしの腰ほどの高さしかなかった背丈がぐんぐん伸び、追い越された。
少年から青年になり、いつの間にか頼れる存在になった。体格面だけじゃなくて、精神的にも。
つい甘えてしまい、年上の威厳なんて蓮音くんの前では皆無だった。
年齢も性別も越えた友情が築けていると、あたしは思っている。
例え付き合っている男性とはお別れがあっても、蓮音くんとの関係は終わらせるつもりはない。
人として、ピアノを愛する者として、今後の人生に互いの存在が必要だと思っているから。
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