上 下
38 / 70
第四話 大澤香 ~迷いのち覚悟~

深い悲しみ

しおりを挟む
 黒岩先生の訃報が届いたのは、大学三年の十月だった。

 大学生活は充実していたものの、過密なスケジュールであったとも置き換えられる。
 祖父母宅から通学し、近くに先生のお宅はあるけど、なかなか立ち寄れず、先生もお忙しいだろうと勝手に理由をつけ、顔を見に行かなかった。

 ピアノは担当である田岡先生の指導があったから、黒岩先生に質問をすることもなかった。
 十か月ぶりに黒岩先生にお会いしたのは、年度末コンサートの出演後だった。
 夫人に付き添われた黒岩先生は、驚くほど痩せていた。
 まるまると太っていたわけではないけれど、全体的に丸くふっくらしたフォルムで、ゆるキャラか某有名チキン販売店のマスコット人形のようだったのに、頬はこけ、肩も胸も腕もお腹も肉が削げ落ちていた。ゆるキャラがぬいぐるみ部分を脱いだ後みたいな。

 目を剝いて言葉を失うあたしに、先生は、
「軽い病気をしてね。ついでにダイエットしたんだ。贅肉がなくなったから、家内の旨い飯をまたたらふく食えるよ」
 そう言って笑った。

 実際、先生はその後元気を取り戻し、ピアノの指導を続けた。
 食は細くなっていたけれど、声にも身体にも力が戻り、あたしは安心し、また忙しい日々にかまけた。

 二年の年度末コンサートの時は元気な姿を見せていたのに、それから半年で逝ってしまわれるとは、思ってもいなかった。

 享年七十八歳。
 病気の発覚から亡くなる直前まで先生ご自身の演奏を録音した、先生が敬愛するベートーヴェンが流れる中、これまで指導してきたたくさんの生徒たちや、交流のある音楽家たちに囲まれて見送られた。

 あたしは突然のことに動揺し、ぼんやりとした中で祖父母と告別式に出席し、気が付けば終わっていた。
 顔見知りの人たちは、先生の思い出を語りに飲みに行ったけど、あたしはお酒を飲めないし、お酒の席で思い出を語るのはなんだか嫌だった。
 受験時、黒岩先生に教えを受けたという後輩に誘われたけれど、断った。
 祖父母と一緒に車に乗るのさえ気が進まず、一人になりたくて駅に向かった。

 歩きながら先生との思い出に浸ろうとした。
 だけど脳がうまく機能しなくて、何も考えられないまま、駅に着いた。
 階段を下りると、ふと一台のピアノに目が留まった。

 アップライトピアノが漆黒の艶を放っている。
 家に帰れば使い慣れたベヒシュタインのグランドピアノがある。
 時間も人の目も気にせず弾ける。それなのに、あたしはどうしてもそのピアノを、今弾きたかった。

 地下街を歩く人たちに、ピアノを弾く様子はなかった。
 土曜日の昼、誰もピアノに気付かない。
 触れて欲しいと訴えてかけてくるのに、目さえ向けられていない。だったらあたしが弾く。

 人の流れを突っ切ってまっすぐピアノに向かった。
 曲はベートーヴェン以外に考えられない。演奏をして、先生との思い出に浸ろう。

 いつも演奏をするときは、聴いてくださる人に向けるのだけど、今日はそれをしない。
 先生に届けよう。今日の聴き手は黒岩先生だから。

 生まれた頃から身近にあった音楽を、聴くだけでなく、奏でる楽しさを教えてくれた先生。
 数々のコンサートに連れて行ってくれた。
 悩むあたしに押し付けをせず、考えることが大事だと道を示してくれた。

 先生にもっともっとあたしのピアノを聴いてもらいたかった。
 たくさんのことを教えてもらいたかった。
 どうして、病気を患っていると教えてくれなかったの。
 どうしてなにも言わずに逝ってしまったの。
 先生にはいっぱいお礼を言いたかったのに、お別れも言えなかった。
 もっと会いに行けばよかった。連絡をすればよかった。

 あぁ、先生に会いたい。一緒にピアノを弾きたい。先生、黒岩先生。

 頭の中は黒岩先生の恵比寿顔と思い出でいっぱいになった。
 涙で鍵盤が滲んでいく。
 どうか安らかに、眠ってください。見守っていてください。

 最後の一音を弾き終わると、通り過ぎていた通行人が、いつのまにか足を止めて集まっていた。
 聴いてくれる人がいるとは思わなかった。泣いていたことがバレちゃうかも。

 気持ちを整えようと、あたしはピアノから離れた。
 すると、一人の少年があたしに声をかけてきた。物怖じしない、真っ直ぐな瞳で。

 あたしは彼の持ち物にすぐに気が付いた。鍵盤がプリントされた鞄。レッスンに行った帰りなのか、これからレッスンなのか。

 どうやらサボったらしい。
 彼はサボったのは悪いことだとちゃんとわかっていて、怒られる覚悟もしていた。
 潔い態度から、何か理由があるのだろうなと察した。
 十四歳の頃の自分を思い出し、あたしに何かできないかと思い、一緒に弾こうと誘った。

 戸惑う彼を強引にイスに座らせた。
 彼とのセッションの時間は、悲しみに包まれていたあたしの心を、少し上向きにさせてくれた。

 友達がいないと寂しそうに言う蓮音くんと、友達になった。
 ピアノに対して真剣に向き合い、それに実力もある彼に、黒岩先生の指導を受けさせてあげたかった。
 もう先生はいない。
 あたしにピアノの指導ができる自信はない。でも何か、これからの彼のピアノにプラスになるようなことをしてあげたかった。

 小さな友人の悩み事に答えることは、あたしにも良い刺激になった。
 気が付かなかったことにはっとさせられたり、自分が通ってきた道を振り返ったり。

 出会った時十歳だった蓮音くんは、来年二月に十七歳になる。
 あたしの腰ほどの高さしかなかった背丈がぐんぐん伸び、追い越された。
 少年から青年になり、いつの間にか頼れる存在になった。体格面だけじゃなくて、精神的にも。

 つい甘えてしまい、年上の威厳なんて蓮音くんの前では皆無だった。
 年齢も性別も越えた友情が築けていると、あたしは思っている。

 例え付き合っている男性とはお別れがあっても、蓮音くんとの関係は終わらせるつもりはない。
 人として、ピアノを愛する者として、今後の人生に互いの存在が必要だと思っているから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

処理中です...