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第三話 桐生蓮音(きりゅう れおん) ~噓と真実~

蓮音の想い

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 テーブルの空き缶を袋に入れて、ごみ箱の横に置いておく。
 枕元のサイドテーブルにホテルのメモ用紙を見つけて、書置きを残しておいた。

 目が覚めたら、お腹が空いていなくても温かいものを摂って。それとアルコールはもう飲んじゃだめですよ。

 帰る間際、香さんの顔を見る。
 穏やかであどけない顔で眠る香さん。
 この時、僕の中で激しい衝動が突き上げた。それまで感じたことのない、何にも例えようのない、抗い難い甘い誘惑。

 はっと気がついたときには、僕の目の前に香さんの寝顔があった。
 唇に感じるとてつもない柔らかい感触に気づき、我に返る。

 眠っている抵抗のできない女性になんてことを。
 僕はコートと鞄をひっつかみ、逃げるように部屋を飛び出した。

 香さんに気づかれただろうか。怒っていないだろうか。
気になって気になって、いろいろと手につかなかった。

 しばらく経ってクラスの一番仲の良いやつにぽろっと打ち明けてしまい、(もちろん相手が大澤香であることは隠して)
「お前それ最低なやつな」と笑われたけど、
「初チューはどうだったんだよ」と興味を持たれ、少しうざかった。

 一週間ほどして、僕宛に香さんから荷物が届いた。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ。これお世話になったお礼ね」
 と書かれたメモと、ブラームスのピアノ曲集の楽譜が入っていた。
 これ以降、ブラームスが僕のお気に入りの作曲家になった。

 僕は香さんが好きだ。

 親戚みたいなお姉さんでも、アドバイスをくれる優しいお姉さんでもない。
 異性として、香さんに恋焦がれている。
 それが望みのない、失恋がわかっている恋でも、生涯この気持ちがなくなることはないだろう。

 例え他に惹かれる人ができたとしても、香さんが一番であることはきっと変わらない。
 異性としても友人としても、僕の中で香さんの存在はトップから転落はしないと自信をもって言える。

 それからしばらくして、香さんは良縁に恵まれた。
 仕事を通じて知り合ったドイツ人指揮者と二年半ゆっくりと愛を育んだ。
 ピアニストとしても認められてきていて、響子さんの名前がなくてもCDは売れ、コンサートも精力的に行い、オケと共演もしている。

 僕がコンクールで最優秀賞を受賞した五日後、日本にいた香さんとホテルのカフェで話をした。
 あの日以来、僕は香さんが宿泊する部屋には立ち入らず、必ず外で会うようにした。
 自戒と贖罪の気持ちからだが、香さんは僕の所業に気づいていなかったみたいで、急に変わった僕に戸惑った顔をしつつも、了承してくれた。
「大人になっちゃって寂しい」とも言われた。
 あの時の写真が週刊誌に撮られちゃったわけだけど。

 香さんの中で僕はいつまでも子供なんだなと、はっきり自覚した。
 男として見てもらえはしない。あの日僕は性に目覚めたのに。

 最優秀賞受賞を祝ってくれた日は、嬉しい日でもあり最悪の日でもあった。

 香さんから満面の笑顔で告げられた。
「彼からプロポーズされたの。来年の春パーティをする予定だから、蓮音くんも来てね。詳しくはまだ決まってないけど、ヨーロッパのどこかになると思うの。今のうちに海外の空気に触れておくと受験にきっと役に立つと思うから、いろいろ案内してあげるね。お金の心配はしないで、滞在費はあたしが持つから。絶対に来てね。彼も蓮音くんに会えるのをとても楽しみにしているのよ」

 この時、僕の視界から一瞬、色も音も消えた。
 香さんが結婚。人妻になる。もう僕の手の届かない人になる。

 いずれそうなるかもとはわかっていたけど、現実を突きつけられると、ショックが大きかった。

 僕はブラームスと同じ恋愛歴を辿ることになるかもしれない。
 ブラームスを演奏するにあたって、僕はその人生を調べた。
 恩師シューマンの妻である十四歳年上のクララを慕い続け、生涯に渡って交流をもち、たくさんの女性と恋愛をしながらも結婚はしなかった。クララともプラトニックだった。クララの死から十一ヶ月後に、ブラームスも人生の幕を閉じる。

 そんな人生も悪くない。
 そばにいられなくても、困ったことがあったら力になって、香さんが頼りにしてくれるような存在になりたい。香さんをずっと見守っていきたい。

 パーティで旦那になる男に会ったら、僕はこれだけは言ってやろうと決めている。
「香さんを悲しませたら、僕が奪いに行きます」
 と、ドイツ語で告げてやるんだ。
 ああ、でも警戒されて香さんに会えなくなったら困るから、
「香さんを幸せにしてください」って悔しいけどつけ足そう。
 香さんの幸せを望んでいるのは真実だから。
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