上 下
67 / 93
番外編 猫のいる街 1997

12. 誠二郎 10

しおりを挟む
「珠! 珠!」
「殿。そんなに慌てていかがなさったのですか?」
珠が戻ってきてからも、わしはときどき自宅の様子を見に帰っていた。
荷物の整理はあまりはかどっていなくて、大半が残されたままだった。京子一人ではなかなか進まんのだろう。
盗られて困るような金品の類は置いていなくても、万一にも泥棒に入られたり、変な輩に住みつかれでもしては困るからな。
ブロック塀の上から家を見下ろしていると、ご近所の奥様方が立ち話をしておられた。
最初は取るに足りない四方話をしておったのだが、その中で公園の話題が上がったのだった。
猫の数が増えていくようだ。この辺りは今はまだ被害は出ていないが放置していればそのうちゴミを荒らされるようになるのではないか。放置しておいて大丈夫だろうか。などと。
その中の一人が、「ああ、そういえば、公園に古い建物がありますでしょう。五十年以上も放置しているのは問題だからって、数年前から複数の町内から訴えがでていたんですって。取り壊してはどうかって。やっと行政が重い腰を上げたのだそうよ」
わしは塀の上から下り、奥様たちの会話がもっとよく聞こえる場所に移動したが、いつ取り壊すことになるのか具体的な話は出なかった。
取り壊すのはそう簡単なことではないだろうから、実際に手が入るのはまだ先のことだろうが、役所や解体業者関係の人間が見回りに来ることだろう。わしの気づかないところですでに来ていたかもしれない。
猫たちの住処になっていることは、もう把握していることだろう。捕り物が行われるのは時間の問題であると思われる。
それらを珠に語って聞かせた。
珠に動揺は見られず、最後まで落ち着いて話を聞いていた。
「実は、しばし前から殿が不在の折、人が幾度も来ておるのです」
「やはりか」
「最初は外におりましたが、次は中に入ってまいりました。なにやら調べておるようでした。拙者たちに餌をくれることもありました」
「ここに居ついている猫たちを調べておったのではないか。建物を壊すとなると、猫たちをどうにかするのが先だからの。追い立てるだけか、捕獲をするつもりか」
珠の手前言葉を濁したが、かなりの確立で捕獲であろうとわしは思っている。
ここの猫たちを一斉に街中に追い立てては、住民からの苦情が殺到するのが目に見えているからの。
「珠、あまり時間がないかもしれん。ここを離れよう」
「離れると申しましても、行く所がございませぬ」
「行く所などどうとでもなる。他の猫たちにも伝えたほうが良いだろう」
「しかし……」
子猫たちは大きくなっているとはいえ、大きさはわしが珠を保護した頃を少し上回るほど。乳飲み子を抱えての移動は困難かもしれない。しかし、捕獲が始まってからでは遅過ぎるのだ。
「早くリン殿を説得するのだ」
「リンはここを気に入っております。自然が豊富なお陰で餌に困りませんし、雨風を凌げます。すんなり動いてくれぬのではないかと」
「なにを気弱なことを言っている。リン殿やチビたちを守れるのは珠しかおらんのだぞ。ひとまずはわしの家にいけばいい。縁の下なら雨風を凌げる。すべての猫たちを匿うのは無理だが、珠たちだけなら何とかなる、早うせい」
珠を急かしてリンの説得にあたらせた。やはりと言うべきか。じゃれている子猫たちを見ながら話を聞いていたリンは、泰然自若としていた。
リンの過去についてわしは何も知らない。生まれたときから野良だったのか、飼い猫だった時期があるのか。
ただ気位が高いことだけは確かだ。とっつきにくく、他の猫との交流もほとんどないようだ。
生まれつきなのか、生活がそうさせたのかわからないが、飼われた場合、飼い主に懐くか、今の性格を見ているだけではわからない。
案外、生活が落ち着くと丸くなったりするのかもしれないが。
べたべたに惚れ込み、尻に敷かれている感のある珠では、リンを動かすのは無理かもな。
仕方が無い、わしが動こう。
「リン殿」
声をかけると、リンはこちらを見つめ返してきた。最初にあったときと同じ、冷ややかで警戒心を含んだ瞳。
「リン殿がここを気に入っておると聞いたが、その子たちのために動いてくれぬか。わしはお前たちが捕まるかもしれないのに黙って見ていることなどできない。頼む、皆でここを出てくれ」
「それでは、珠さんと子供たちを連れて行ってください。わたくしはここに残ります」
「リン!」
珠が悲鳴のような声を上げた。
「なぜそこまで拒む」
リンの考えがわからない。なぜ自分は動かんのだ。
しばらくわしを見つめていたリンが目を逸らした。少し寂しげでもある。
「わたくしは、人が信用できないのです」
「わしが信用できんと言う事かの」
リンはもう何も言わなかった。これ以上聞いても答えてくれるかどうか。
「わかった。チビたちと珠を連れて行く」
「殿まで!」
「珠、観念せい。動く意志がない者を動かせるわけがなかろう。お主も父親になったのなら、まずは子供たちの安全を真っ先に考えい」
珠はしょぼんと肩を落とした。リンは立派な成猫だから、いざとなったら一匹で生きていくことも可能だ。しかし今の子猫たちは単独では生きていけない。それがわかったから、それ以上の反論は止めたのであろう。
「承知しました」
「では、行こうか。チビたちを歩かせていては時間がかかる。一匹ずつ運び、大急ぎで戻ってくるか」
「承知しました」
珠はリンを見つめたまま答えた。リンはわざとのように視線を逸らし続けている。
わしは傍で遊んでいた子猫のうちの一匹の首ねっこを咥え、珠を促した。
珠はリンの頭を少し舐めると、断ち切るかのように移動し、子猫を咥えた。
わしらは身を翻し、建物の戸口に向かった。
しおりを挟む

処理中です...