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一度でいいから――伊部瀬 麻理(享年25歳)

11. 麻理 3

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「猫、ですか」
あたしがお爺さんの家に戻ったのは午前11時頃。
お爺さんは朝が遅いのか、昼が早いのかわからないけれど、食事中だった。
アトリエの片隅で、あたしが抜けた状態のままだったマネキンに戻り、食堂でお爺さんの向かいの椅子に腰をかけた。
そして、お爺さんが思い出したことがあるのだと、話をしてくれた。
ずっと以前に、人型ではなくて動物を選んだ幽霊がいたのだと。
それが猫のマネキンだったらしい。
「ちゃーんとね、猫に見えてたよぉ。君らのような存在は、思っている以上に自由なのかも、しれないねぇ」
「でも猫だと赤ちゃんを抱けません」
「そういうことではなくてねぇ。赤ちゃんを抱けそうな、それでいて警戒されなさそうなマネキンを使えばいいって、ことじゃないかなぁ」
「なるほど。そういうことですね。あたしったら頭固い。アトリエ見せて頂いてもよろしいですか」
「机の付近のもの以外なら構わんよぉ」
「ありがとうございます」
やっぱりお爺さんに相談してよかった。経験豊富だから、アイデアも浮かびやすいのかな。
まっすぐアトリエに向かおうとして、がんと大きな音がした。
おもいきり壁にぶつかっちゃった。
痛くないけど、恥ずかしい。
今はマネキンに入ってるってこと、忘れていたわ。
ちゃんと扉から行かなきゃ。
思ってたより幽霊の身体に慣れてたのね。ちょっと複雑だけど。
あたしだとばれなきゃいいってことは、成人女性以外のマネキンを選べばいいってことよね。
警戒心を抱かれなさそうな人だと、老人かしら。
年配の方って子供好きな方が多いから、声をかけても警戒されにくいはず。
ご老人、ご老人。
ど、どれかしら。
どれも似たような感じね。
背が低めで、腰が少し曲がっているものがいいかしら。
腰、曲がってないわね。
どれもしゃんって伸びてる。
マネキンだものね。腰の曲がったマネキンって見た覚えないもの。
どうしよう。ひとまずこれなんてどうかな。
やや背の低い人形を選んでみたけれど、鏡で見た姿はあたしのまま。
ダメね。ばればれ。
何体か、胸があるものやないものを選んで入ったみたものの、どれもあたしから大して変わらない。
もっと劇的に姿が変わるものじゃないと。
やっぱり動物? いやいやきっとあるはず。
老人は諦めて。
赤ちゃんは、もっとダメね。自力歩行が難しいかも。できたとしても一人で歩いていたら保護されちゃうものね。
そこそこの大きさで、でもあたしの姿にならないもの。
これならいけるかしら。
いいじゃない。いいじゃない。これならあたしだって気づかれないわよ。
食事を終えたお爺さんに見てもらったけど、大丈夫って言ってもらえたし。
よし、あとはタイミングね。
家には行けないから、外での機会を狙わなきゃ。
公園とか、電車。あとはスーパーとか。
あ、大事なこと忘れてた。
新生児は外出、控えないといけないんだった。
母乳の免疫がしっかりつくのはいつ頃かしら。
そもそも、母乳あげてくれたのかな。
そこはあたしが考えても仕方がないか。もう死んじゃってるからどうこうできないし。
赤ちゃんと外出できる機会っていうと。
あ、検診。
病院ならいろんな人が出入りするから、この姿で近づいても怪しまれないはず。
問題はいつ行くのか、よねえ。
病院でずっと待ってる。っていうのは逆に怪しまれそうだし。
よし、偵察にいこう。
「お爺さん。この姿で1ヶ月検診を狙おうと思います。しばらく向こうにいるので、あたしが戻ってくるまで、このマネキン置いててもらっていいですか」
お爺さんが頷いてくれるのを見届けてマネキンの身体から抜け出ると、あたしは再び義実家に戻ってきた。
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