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最期の贈り物――橘 修(享年55歳)

14. 修 6の続き

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また幽霊に戻って、玄関に向かう。
家に入るのにどこの壁から入っても構わないのだが、なんとなく玄関から入ってしまうことに律儀だなと自分でも思うが、幽霊になったからといって、急に奔放な性格になれるものでもないのだろう。
すり抜けにもすっかり慣れた。躊躇うことなく玄関を抜け、靴も履いたまま廊下を進んで居間に向かおうとして、電気がついていないことに気がつき、方向転換をする。
階段を上がって貴子の寝室に入ると、彼女はすっかり眠っていた。
家を出たのは十九時くらいだったか。もう日付が変わっているのだろうか。
暗闇では枕元の時計も貴子の寝顔も見えない。
隣室を覗くと伸次は起きていた。机に向かって書き物をしたり、本をめくっている。
近寄ってみると、大学のテキストであることがわかった。
朝からスーツで出掛けて疲れているだろうに、それでも夜にちゃんと勉強をしていた。
少し前まで小さかったその背中が広く見えた。
俺の死が何の影響も与えていないわけがない。
これからの生活や、学費の面など不安を覚えているだろうに。
それでも疎かにせず、自棄になることもなく、今やるべきことをやっている。
いつまでも子供だと思っていたが、ちゃんと大人になっていたようだ。
身体だけではなく、精神的にも。
俺の人生が突然終わったことは悔しいが、息子の成長を後押しできたのであれば、無駄ではなかったか、と思えた。伸次にいろいろ負担を強いるかと思うと心苦しいが。
この部屋には時計がない。
息子が一人暮らしを始めてからまもなく丸二年。
高校時代に使っていたベッドの上の置時計は電池が切れたまま四時で止まっている。
この部屋のテレビやブルーレイレコーダーは引越しの時に持ち出している。時間がわかるものは伸次のスマートホンだけだが、今は画面が暗いままだ。
伸次は何時まで起きているつもりだろうか。暖房をつけて部屋を暖めてはいても、湯冷めをして風邪をひいてしまうかもしれない。
俺がそわそわしていると、伸次のスマートホンが光った。着信だったらしく、伸次は受け答えをしながら机から離れた。そのまま部屋を出て行く。
残された俺は、机に置かれたままのシャーペンを取ろうとしたが、やはり霊体では掴めない。なんとかメッセージだけでも残す方法はないものかと考えてみたが、マネキンを使う以外思いつかない。しかしマネキンで二人に会うには抵抗があった。
そうこうするうちに伸次の笑い声が聞こえ、部屋に戻ってきた。ビールの缶を手にしている。
伸次の表情が、なんとなく優しいものに思えた。電話の相手は気心の知れた人なのだろう。友人か彼女か。いずれにしても盗み聞きをするつもりはない。
早々に伸次の部屋から退散したが、この家に今の俺の居場所はなく、足が向かったのは一階の和室だった。そこには俺の代わりがある。
たまにここで晩酌をしていたように、あぐらで座る。
目の前にはお酒の入ったコップの代わりに、戒名が書かれた位牌と、袋に包まれたきっと俺の骨が入った壷だろう物が置かれている。
壁をすり抜けられるのだから、壷の中身を見ることもできるのだろうが、自分の骨を見る気にはなれない。
ぼんやりと座り込んでいると、このちゃぶ台を買うためにあちこちの家具屋を訪れたことや、伸次が生まれた日のこと、結婚式と貴子の実家に挨拶に向かった日のことなど、たくさんの思い出が甦る。死ぬ間際ではなく死んでから走馬灯をみる人なんていないだろうな。
位牌を見つめながら人生を振り返ってみて、悪い人生ではなかったなと思えることができた。
何の準備もできず、突然死という最期は残念だが。
心残りはあっても、俺がどうにかしてやれることはない。生きる者には己でその人生を全うしてもらおう。
老人がくれたせっかくのマネキンだが、二人には会わないと決めた。
その代わりに、妙案を思いついた。マネキンはそれの実行のために使うことにしよう。
と決めたものの、それを実行するためにはまず先立つものが必要だった。
予算は二万円もあれば足りるだろうか。
俺のカードはもう止められているだろうな。
自分の部屋にへそくりを隠す、なんてこともしていないし。
知人に借りて後から貴子に返すように手紙を書く手も考えたが、それでは貴子に買わせたことになるから意味がない。それに家族に会わないのに友人には会う、という気はない。
ここはやはり働くしかない。履歴書不要で二・三日だけ雇ってくれるところを探してみよう。 
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