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一度でいいから――伊部瀬 麻理(享年25歳)
2. 麻理の悲しみ
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「寒くないかねぇ」
「温度は感じません」
うずくまる彼女は、頭からタオルを被り、膝に置いた両腕に顔を埋めたまま首を振った。
「人形の服なら貸せるよぉ。着替えてきたら。風邪ひくよぉ」
「ひきません。あたし死んでますから」
「そうだったねぇ」
どう扱えばいいのやら。老人は自分のアトリエでおろおろしていた。
夜半に彼女は現れて、老人からマネキンをもらって喜んで出て行った。
それから一日も経たずに戻ってきた。鼻先から、髪の毛の先から、スカートの裾から水を滴らせて。
相手はマネキンであるはずなのに、老人は一瞬ぎょっとして怯んだ。
有名な幽霊話が頭をよぎったことだろう。
ともかくアトリエに彼女を通し、お茶を持っていくと、扉の横の壁際で彼女はうずくまっていた。
「お茶、入れたんだけどねぇ。飲むかい?」
「あたしマネキンですよ。飲めませんから」
「そうだったねぇ」
頭を掻く。
困り果て、しばらくそっとしておいて作業でもしようかね、と老人が思ったところで、彼女が顔を上げた。
「すみません。子供みたいな真似をして」
雨に濡れたせいで、本当に涙を流して泣いていたかのようだった。
「かまわんよぉ。あんたみたいな年の人は、私からしたら子供みたいなもんだからねぇ。
何かあったのかなぁ」
「家族に拒絶されました。イタズラだと思われたんです」
投げ捨てるように言い放つ。
老人は何も返さない。
沈黙に耐えかねたのか、彼女が言葉を紡いだ。
「といっても、会えたのは義母だけです。彼は赤ちゃんのお世話を義母に任せて、仕事に行ってます。実母は義母に遠慮しているみたいで、たまに手伝いに来てくれてましたが、今日は来ない日だったみたいで」
再び彼女は顔を埋めた。
「お義母さんが帰ったタイミングで行けば良かった」と呟く。
「お姑さんとうまくいってなかったのかなぁ」
「表面上はうまくやれてましたよ。あちらはわかりませんけど、あたしは合わせるようにしていました」
言い訳をするような強い口調だったが、ふと和らげ「でも」と顔を上げた。
「苦手だったんですよね。実は」
内緒話を打ち明けるように小さく呟くと、老人を見て肩をすくめた。
うんうんと老人は頷く。
「声の大きな人が子供の頃から怖くて。何もしてないのに怒られているような気になるんです。もしかしたら、実際に怒られたことがあるのかもしれないですね。悪いことして、トラウマになっちゃったとか。
義母もすごく声が大きくて。たまに耳栓も使っていたんです。髪で隠せばわからないから」
「あなたなりに、歩み寄ろうと努力されてたんだねぇ」
「努力になるのかわかりませんけど。いがみあうのが嫌で。嫁姑バトルってよく聞くじゃないですか。あんなの子供に見せたくないなってずっと思ってて。
あたし、半年ほど前に結婚したばかりなんです。授かり婚で」
老人が首を傾げたので、「結婚より先に子供ができたんです」と言い換えた。
「彼とは付き合ってまだ一年くらいだったんです。結婚の約束もしてなかったので、妊娠を打ち明けるときは不安ですごく怖かったです。でも彼、喜んでくれて。とんとん拍子に進みました。お腹の子も順調で。男の子だってわかって義母もよろこんでくれたんです。
今思えば、結婚までが幸せの絶頂でした」
思い出して憂鬱になったのか、小さく溜め息をつく。
「結婚したら毎日のように義母が来るようになったんです。元気な子を産んでもらわないといけないから、あれを食べろこれを食べろって。食べきれないほどの食べ物を持ってきて。あたし、食が細い上に味の濃いものは苦手で。正直義母の料理は口に合わないんです。でもあたしのためを思って持ってきてくださるんだからって、無理して食べてました。やせ過ぎもダメだからって。でも我慢しすぎてしまったみたいで、妊娠中毒症になってしまって。義母はなかなか理解してくれなくて」
「昔は大きく生めって言われたからねぇ」
「そうらしいですね。今は違うんだってことを彼にも手伝ってもらって説得して、料理は止めてもらいました。これでやっと自分の味に戻せるって安心したら、今度は物責めになりました。たくさんの服やおもちゃで家が物だらけになって。
赤ちゃんにはできるだけ天然素材の優しいものを与えようって思ってて。お裁縫が好きなので、作れるものは自分でって。そう思ってたのに、義母が持ってきてくれる物は原色のどきついものばかりで。とことん合わないなって。
でも、義母の気持ちもわかるんです。初めての男の子の孫だから。嬉しくて何かしたいんだって。それが親切の押し売りだ、なんて言えませんよ」
老人は黙っているが、彼女を見つめる眼差しは柔らかい。
少しして、再び彼女が語りだした。
「赤ちゃんは嬉しいけど、嫁ぐ家を間違えたなって思ったこともありました。生まれたら今度は教育方法にも口を出してくるんだろうなって先が見えちゃって。生むことがだんだん不安になってきていました。そうは言ってもみるみるお腹が大きくなって、どんなに不安でも備えなきゃいけなくなって。
だから決めたんです。無事に出産できたら強くなろうって。あたしの子供なんだから、あたしが守らなくちゃって。義母にもきちんと言える人になろうって。
でも、あたしにはできませんでした」
「義母さんに言えなかったってことかなぁ」
「いえ。出産中に意識を失ってしまって。この姿になってわかったんですが、くも膜下出血だったらしいです。帝王切開に切り替わって赤ちゃんは大丈夫だったんですけど、あたしは間に合わなかったみたいで。
結局、あたしは自分の力で赤ちゃんを生むこともできずに、人生まで終えることになってしまいました」
「さぞ、悔しかろうねぇ」
「はい、悔しいです。たくさん子供が欲しかったし、やってあげたいこともたくさんありました。彼とももっと一緒にいたかったのに。たった一人の子を見守ることができないばかりか、この腕に抱くことさえ叶わなかったんですよ」
彼女は両手を広げた。まるで赤ちゃんを抱いているかのようなポーズをとる。しかしながら、その腕は彼女の腕であって、彼女のものではない。
「生んだこと、後悔してるのかな」
「それはありません!」
腕を下ろし激しく首を振った。雨に濡れ、乾ききらない髪の毛が頬に張り付く。
「後悔なんてまったくないです。あたしがどうなろうとも、あの子が無事に生まれてくれたことが、あたしにとっての救いです。
ただ、あの子を腕に抱けなかったことが一番の心残りですけど」
「それで出向いてみたものの、義母さんに拒絶されてしまった。っていうことだねぇ」
「はい。他に方法はないんでしょうか」
しゅんと肩を落とす。
「方法と言われても、ねぇ」
「例えば、別の人に見える方法とかないですか」
「残念ながらわからないねぇ」
「そうですか。すみません、わがままを言いました」
「何か方法を考えてみようねぇ」
気落ちする彼女を不憫に思ったのか、具体的な方法は思い浮かばないながらも何か力になれれば、と老人は思ったのだろう。
「ありがとうございます。お爺さんはこういうこと、よくされてるんですか」
「こういうことって、マネキンをあげることかなぁ」
「はい。だってお金もらってないのに。それに電車賃までくれて」
「私はね、待ってる側の人間なんですよぉ」
「待ってる側、ですか」
謎めいた言い方に、彼女が首を傾ける。
「ちょっと待っててねぇ」
言い置くと、老人はアトリエを出て行った。
「温度は感じません」
うずくまる彼女は、頭からタオルを被り、膝に置いた両腕に顔を埋めたまま首を振った。
「人形の服なら貸せるよぉ。着替えてきたら。風邪ひくよぉ」
「ひきません。あたし死んでますから」
「そうだったねぇ」
どう扱えばいいのやら。老人は自分のアトリエでおろおろしていた。
夜半に彼女は現れて、老人からマネキンをもらって喜んで出て行った。
それから一日も経たずに戻ってきた。鼻先から、髪の毛の先から、スカートの裾から水を滴らせて。
相手はマネキンであるはずなのに、老人は一瞬ぎょっとして怯んだ。
有名な幽霊話が頭をよぎったことだろう。
ともかくアトリエに彼女を通し、お茶を持っていくと、扉の横の壁際で彼女はうずくまっていた。
「お茶、入れたんだけどねぇ。飲むかい?」
「あたしマネキンですよ。飲めませんから」
「そうだったねぇ」
頭を掻く。
困り果て、しばらくそっとしておいて作業でもしようかね、と老人が思ったところで、彼女が顔を上げた。
「すみません。子供みたいな真似をして」
雨に濡れたせいで、本当に涙を流して泣いていたかのようだった。
「かまわんよぉ。あんたみたいな年の人は、私からしたら子供みたいなもんだからねぇ。
何かあったのかなぁ」
「家族に拒絶されました。イタズラだと思われたんです」
投げ捨てるように言い放つ。
老人は何も返さない。
沈黙に耐えかねたのか、彼女が言葉を紡いだ。
「といっても、会えたのは義母だけです。彼は赤ちゃんのお世話を義母に任せて、仕事に行ってます。実母は義母に遠慮しているみたいで、たまに手伝いに来てくれてましたが、今日は来ない日だったみたいで」
再び彼女は顔を埋めた。
「お義母さんが帰ったタイミングで行けば良かった」と呟く。
「お姑さんとうまくいってなかったのかなぁ」
「表面上はうまくやれてましたよ。あちらはわかりませんけど、あたしは合わせるようにしていました」
言い訳をするような強い口調だったが、ふと和らげ「でも」と顔を上げた。
「苦手だったんですよね。実は」
内緒話を打ち明けるように小さく呟くと、老人を見て肩をすくめた。
うんうんと老人は頷く。
「声の大きな人が子供の頃から怖くて。何もしてないのに怒られているような気になるんです。もしかしたら、実際に怒られたことがあるのかもしれないですね。悪いことして、トラウマになっちゃったとか。
義母もすごく声が大きくて。たまに耳栓も使っていたんです。髪で隠せばわからないから」
「あなたなりに、歩み寄ろうと努力されてたんだねぇ」
「努力になるのかわかりませんけど。いがみあうのが嫌で。嫁姑バトルってよく聞くじゃないですか。あんなの子供に見せたくないなってずっと思ってて。
あたし、半年ほど前に結婚したばかりなんです。授かり婚で」
老人が首を傾げたので、「結婚より先に子供ができたんです」と言い換えた。
「彼とは付き合ってまだ一年くらいだったんです。結婚の約束もしてなかったので、妊娠を打ち明けるときは不安ですごく怖かったです。でも彼、喜んでくれて。とんとん拍子に進みました。お腹の子も順調で。男の子だってわかって義母もよろこんでくれたんです。
今思えば、結婚までが幸せの絶頂でした」
思い出して憂鬱になったのか、小さく溜め息をつく。
「結婚したら毎日のように義母が来るようになったんです。元気な子を産んでもらわないといけないから、あれを食べろこれを食べろって。食べきれないほどの食べ物を持ってきて。あたし、食が細い上に味の濃いものは苦手で。正直義母の料理は口に合わないんです。でもあたしのためを思って持ってきてくださるんだからって、無理して食べてました。やせ過ぎもダメだからって。でも我慢しすぎてしまったみたいで、妊娠中毒症になってしまって。義母はなかなか理解してくれなくて」
「昔は大きく生めって言われたからねぇ」
「そうらしいですね。今は違うんだってことを彼にも手伝ってもらって説得して、料理は止めてもらいました。これでやっと自分の味に戻せるって安心したら、今度は物責めになりました。たくさんの服やおもちゃで家が物だらけになって。
赤ちゃんにはできるだけ天然素材の優しいものを与えようって思ってて。お裁縫が好きなので、作れるものは自分でって。そう思ってたのに、義母が持ってきてくれる物は原色のどきついものばかりで。とことん合わないなって。
でも、義母の気持ちもわかるんです。初めての男の子の孫だから。嬉しくて何かしたいんだって。それが親切の押し売りだ、なんて言えませんよ」
老人は黙っているが、彼女を見つめる眼差しは柔らかい。
少しして、再び彼女が語りだした。
「赤ちゃんは嬉しいけど、嫁ぐ家を間違えたなって思ったこともありました。生まれたら今度は教育方法にも口を出してくるんだろうなって先が見えちゃって。生むことがだんだん不安になってきていました。そうは言ってもみるみるお腹が大きくなって、どんなに不安でも備えなきゃいけなくなって。
だから決めたんです。無事に出産できたら強くなろうって。あたしの子供なんだから、あたしが守らなくちゃって。義母にもきちんと言える人になろうって。
でも、あたしにはできませんでした」
「義母さんに言えなかったってことかなぁ」
「いえ。出産中に意識を失ってしまって。この姿になってわかったんですが、くも膜下出血だったらしいです。帝王切開に切り替わって赤ちゃんは大丈夫だったんですけど、あたしは間に合わなかったみたいで。
結局、あたしは自分の力で赤ちゃんを生むこともできずに、人生まで終えることになってしまいました」
「さぞ、悔しかろうねぇ」
「はい、悔しいです。たくさん子供が欲しかったし、やってあげたいこともたくさんありました。彼とももっと一緒にいたかったのに。たった一人の子を見守ることができないばかりか、この腕に抱くことさえ叶わなかったんですよ」
彼女は両手を広げた。まるで赤ちゃんを抱いているかのようなポーズをとる。しかしながら、その腕は彼女の腕であって、彼女のものではない。
「生んだこと、後悔してるのかな」
「それはありません!」
腕を下ろし激しく首を振った。雨に濡れ、乾ききらない髪の毛が頬に張り付く。
「後悔なんてまったくないです。あたしがどうなろうとも、あの子が無事に生まれてくれたことが、あたしにとっての救いです。
ただ、あの子を腕に抱けなかったことが一番の心残りですけど」
「それで出向いてみたものの、義母さんに拒絶されてしまった。っていうことだねぇ」
「はい。他に方法はないんでしょうか」
しゅんと肩を落とす。
「方法と言われても、ねぇ」
「例えば、別の人に見える方法とかないですか」
「残念ながらわからないねぇ」
「そうですか。すみません、わがままを言いました」
「何か方法を考えてみようねぇ」
気落ちする彼女を不憫に思ったのか、具体的な方法は思い浮かばないながらも何か力になれれば、と老人は思ったのだろう。
「ありがとうございます。お爺さんはこういうこと、よくされてるんですか」
「こういうことって、マネキンをあげることかなぁ」
「はい。だってお金もらってないのに。それに電車賃までくれて」
「私はね、待ってる側の人間なんですよぉ」
「待ってる側、ですか」
謎めいた言い方に、彼女が首を傾ける。
「ちょっと待っててねぇ」
言い置くと、老人はアトリエを出て行った。
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