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第一部
45 迷いの正体
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眠ったのかうとうとしただけなのか、よくわからないうちに目を覚ましたディーノは、寝台を降りた。工房の片隅に置いてあるリノから譲り受けたリュートを手にし、静かに家を出た。うっすらと明るくなりつつあるが、起床時間はいつもよりずっと早い。
それもそのはずで、昨夜聴いた演奏を忘れてしまわないうちに練習をしておこうと強く思っていた。よく眠れなかったのは、興奮していたせいだろう。
森に入り、伐採後の大きな木の根に腰掛けた。時間があるときにはいつもここで演奏をしている、お気に入りの場所だった。
夜行性の動物はすっかりなりをひそめ、小動物の動く気配がそこここでしている。小鳥のさえずりに混ざって、鶏の鳴き声も聞こえてくる。森の中でする声としては合わないが、すぐそこに人が住んでいる証であり、ディーノにとっては馴染みのある鳴き声で、安心を与えてくれるものであった。
朝の澄んだ空気を吸い込み、リュートを抱えなおす。
昨夜聴いた弾きだしを脳裏に思い浮かべてから、弦をはじいた。少しづつを思い浮かべながら、弾き進める。
初めて聴いた曲だけあって、気持ちをこめるなんて余裕はまったくない。これで合っているだろうか、と思いながら、記憶を遡って弾いていくことで精一杯だった。
気持ちをこめるのは充分に弾き込んでからだ。頭でメロディを思い浮かべ、それを追いかけて弾いているうちは弾き込めていない。曲を理解し気持ちを込められるようになるのは、指が自然と動くようになってから。それがディーノの練習法だった。誰に師事することもなく、独学であったがその練習法が自身に合っていると思っていた。
プロの演奏を聴けば、もっといい演奏ができるようになるかもしれない。
今まで他人のリュート演奏を聴く機会があまりなかった。リノたち職人が自分の作ったリュートの音を確かめるためや、趣味で弾くのを耳にしただけ。
聴くことより聴いてもらうことのほうが多かった。
人に聴いてもらうことは楽しいし、自分で演奏することも楽しかったが、プロの演奏を聴くことも胸が高鳴りとても楽しいものであることを知った。
もっと聴きたい。ロドヴィーゴの演奏も、世界にもっといるであろうリュート奏者の演奏も。世界にはリュート以外にも楽器があるだろう。もっともっと知りたい、聴いてみたい、という思いが胸に沸きあがってきた。
ディーノの知っている世界はかなり狭い。今住んでいるここと、あの非人間扱いだった劣悪な環境と、おぼろげに覚えている売られる前に育てられた水辺の家。地図なんて見たことがないから、その狭い範囲ですら世界のどこにあるのか、世界がどのくらいの広さなのか、見当もつかない。
けれど確実にここ以外の世界はあって、自分たちのような黒髪黒目以外をもつ人間がいる。金髪で白い肌をもつピエールの存在が、それをディーノに証明した。ここではピエールが目立つ存在だが、ピエールの出身地へ行けば、ディーノが目立つ存在となるのだろう。他人にじろじろと見られるのは気持ちのよいものではないかもしれないが、自分が存在している証となるのは間違いない。
自己が認められることがなかった生活が長かったディーノには、頬が軽く緩むほど、心が浮き立つことだった。
世界に関心を持ったことなどなかったし、リュート以外の楽器の存在を知ろうともしなかった。ワルター老が作っていたヴァイオリンを見ても、何の感情も浮かばなかった。
ロドヴィーゴたちの存在が、ディーノの狭かった世界の扉を開いた。
ディーノは変わりつつあった。
ロマーリオと同い年であれば、十六歳。そろそろ親元を離れて社会に出る年頃だ。
いつまでもリノとロゼッタの世話になっているわけにはいかないと、自身でも気付いていた。社会に出ることで出来る恩返しもあるんじゃないか。
ロドヴィーゴについて行くことができなくても、街に行きたいと云えば、二人は反対しないだろう。村の貴重な男手がなくなる、なんて云うような人たちじゃない。喜んで送り出してくれるはずだ。
ロドヴィーゴにお願いをするのが先になるか、リノたちに告げるのが先になるかはわからない。が、どちらもそう遠い日のことではないだろう。
イレーネはどうしよう。
住むところも食べることもどうなるかわからないのに、イレーネを連れて行けるわけがない。ここで暮らすことがイレーネにとって幸せであることに間違いないのだから。どうなるかわからない未来に、イレーネをつきあわせるわけにはいかない。イレーネの心からの笑顔はたくさん見せてもらった。気持ちが通い合っていることもわかった。けれど、今はさよならを云うしかないのだろうか。
ディーノは演奏を止め、ネックから手を離した。その手を胸の中央に持っていく。
痛かったのだ。
あまりの胸の痛みに、涙が溢れそうだった。
イレーネの笑顔を思い出すほどに、心がズタズタに引き裂かれそうになる。
これが昨日の迷いの正体だったのだと悟った。
それもそのはずで、昨夜聴いた演奏を忘れてしまわないうちに練習をしておこうと強く思っていた。よく眠れなかったのは、興奮していたせいだろう。
森に入り、伐採後の大きな木の根に腰掛けた。時間があるときにはいつもここで演奏をしている、お気に入りの場所だった。
夜行性の動物はすっかりなりをひそめ、小動物の動く気配がそこここでしている。小鳥のさえずりに混ざって、鶏の鳴き声も聞こえてくる。森の中でする声としては合わないが、すぐそこに人が住んでいる証であり、ディーノにとっては馴染みのある鳴き声で、安心を与えてくれるものであった。
朝の澄んだ空気を吸い込み、リュートを抱えなおす。
昨夜聴いた弾きだしを脳裏に思い浮かべてから、弦をはじいた。少しづつを思い浮かべながら、弾き進める。
初めて聴いた曲だけあって、気持ちをこめるなんて余裕はまったくない。これで合っているだろうか、と思いながら、記憶を遡って弾いていくことで精一杯だった。
気持ちをこめるのは充分に弾き込んでからだ。頭でメロディを思い浮かべ、それを追いかけて弾いているうちは弾き込めていない。曲を理解し気持ちを込められるようになるのは、指が自然と動くようになってから。それがディーノの練習法だった。誰に師事することもなく、独学であったがその練習法が自身に合っていると思っていた。
プロの演奏を聴けば、もっといい演奏ができるようになるかもしれない。
今まで他人のリュート演奏を聴く機会があまりなかった。リノたち職人が自分の作ったリュートの音を確かめるためや、趣味で弾くのを耳にしただけ。
聴くことより聴いてもらうことのほうが多かった。
人に聴いてもらうことは楽しいし、自分で演奏することも楽しかったが、プロの演奏を聴くことも胸が高鳴りとても楽しいものであることを知った。
もっと聴きたい。ロドヴィーゴの演奏も、世界にもっといるであろうリュート奏者の演奏も。世界にはリュート以外にも楽器があるだろう。もっともっと知りたい、聴いてみたい、という思いが胸に沸きあがってきた。
ディーノの知っている世界はかなり狭い。今住んでいるここと、あの非人間扱いだった劣悪な環境と、おぼろげに覚えている売られる前に育てられた水辺の家。地図なんて見たことがないから、その狭い範囲ですら世界のどこにあるのか、世界がどのくらいの広さなのか、見当もつかない。
けれど確実にここ以外の世界はあって、自分たちのような黒髪黒目以外をもつ人間がいる。金髪で白い肌をもつピエールの存在が、それをディーノに証明した。ここではピエールが目立つ存在だが、ピエールの出身地へ行けば、ディーノが目立つ存在となるのだろう。他人にじろじろと見られるのは気持ちのよいものではないかもしれないが、自分が存在している証となるのは間違いない。
自己が認められることがなかった生活が長かったディーノには、頬が軽く緩むほど、心が浮き立つことだった。
世界に関心を持ったことなどなかったし、リュート以外の楽器の存在を知ろうともしなかった。ワルター老が作っていたヴァイオリンを見ても、何の感情も浮かばなかった。
ロドヴィーゴたちの存在が、ディーノの狭かった世界の扉を開いた。
ディーノは変わりつつあった。
ロマーリオと同い年であれば、十六歳。そろそろ親元を離れて社会に出る年頃だ。
いつまでもリノとロゼッタの世話になっているわけにはいかないと、自身でも気付いていた。社会に出ることで出来る恩返しもあるんじゃないか。
ロドヴィーゴについて行くことができなくても、街に行きたいと云えば、二人は反対しないだろう。村の貴重な男手がなくなる、なんて云うような人たちじゃない。喜んで送り出してくれるはずだ。
ロドヴィーゴにお願いをするのが先になるか、リノたちに告げるのが先になるかはわからない。が、どちらもそう遠い日のことではないだろう。
イレーネはどうしよう。
住むところも食べることもどうなるかわからないのに、イレーネを連れて行けるわけがない。ここで暮らすことがイレーネにとって幸せであることに間違いないのだから。どうなるかわからない未来に、イレーネをつきあわせるわけにはいかない。イレーネの心からの笑顔はたくさん見せてもらった。気持ちが通い合っていることもわかった。けれど、今はさよならを云うしかないのだろうか。
ディーノは演奏を止め、ネックから手を離した。その手を胸の中央に持っていく。
痛かったのだ。
あまりの胸の痛みに、涙が溢れそうだった。
イレーネの笑顔を思い出すほどに、心がズタズタに引き裂かれそうになる。
これが昨日の迷いの正体だったのだと悟った。
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