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第二部
40 忘れましょう
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「ねえ、先生。お願いがあるのですけれど」
ぱっと振り向いた夫人の顔は、もう元の表情に戻っていた。
「お願い、ですか?」
一度貴族の手を跳ね除けたのだから、拒否権はもうない。何をお願いされるのか、少し怖かった。
「そんなに構えなくても、取って食やしませんわ。引き続きリュートを教えてくださいませね。ということをお願いしたいのです」
仕事の依頼であることにほっと胸を撫で下ろした。
「もちろんです」
「あともう一つ」
「え?」
「今夜のことはお互いに忘れましょう」
そう云うと、夫人は鏡に向き直った。髪の手入れを再開する。
ディーノは夫人の提案に感謝した。それはディーノが夫人を拒否したことを赦してくれるということにほかならないから。
それと、夫人がたった今ぼやいた愚痴は忘れて欲しいということもわかった。
穏やかな方であったことに安堵し、ディーノは頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
何事もなかったように挨拶を交わし、ディーノは部屋を出て扉を閉めた。
廊下を歩いて階段に向かう。
服の上からペンダントを握り締める。
これがなければ欲望に負けて、イレーネを裏切ってしまうところだった。
もしかすると、イレーネは自分のことなどもう想っていないかもしれない。もしかしたら、別の男と恋に落ちている可能性だってある。
けれど、ディーノはイレーネのことを忘れたことなどなかった。手紙のことは、忙しさにかまけて、不精をしてしまったけれど、久しぶりに筆を取ろうと思った。
何を書こうか。
仕事のこと以外に報告するようなことは何もないけれど、元気でやっていることは伝えておこう。今夜のことは書いちゃだめだな、絶対。それと、チェンバロ奏者の弟子と話したことは書いたかな? 書いていてもいいや、他の楽器の演奏家と交流ができたことを書いておこう。彼と連絡を取っているわけではないけれど。元気でやっているだろうか。彼もデビューできていればいいのけれど。
イレーネのことを考えると、胸が躍った。
ぱっと振り向いた夫人の顔は、もう元の表情に戻っていた。
「お願い、ですか?」
一度貴族の手を跳ね除けたのだから、拒否権はもうない。何をお願いされるのか、少し怖かった。
「そんなに構えなくても、取って食やしませんわ。引き続きリュートを教えてくださいませね。ということをお願いしたいのです」
仕事の依頼であることにほっと胸を撫で下ろした。
「もちろんです」
「あともう一つ」
「え?」
「今夜のことはお互いに忘れましょう」
そう云うと、夫人は鏡に向き直った。髪の手入れを再開する。
ディーノは夫人の提案に感謝した。それはディーノが夫人を拒否したことを赦してくれるということにほかならないから。
それと、夫人がたった今ぼやいた愚痴は忘れて欲しいということもわかった。
穏やかな方であったことに安堵し、ディーノは頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
何事もなかったように挨拶を交わし、ディーノは部屋を出て扉を閉めた。
廊下を歩いて階段に向かう。
服の上からペンダントを握り締める。
これがなければ欲望に負けて、イレーネを裏切ってしまうところだった。
もしかすると、イレーネは自分のことなどもう想っていないかもしれない。もしかしたら、別の男と恋に落ちている可能性だってある。
けれど、ディーノはイレーネのことを忘れたことなどなかった。手紙のことは、忙しさにかまけて、不精をしてしまったけれど、久しぶりに筆を取ろうと思った。
何を書こうか。
仕事のこと以外に報告するようなことは何もないけれど、元気でやっていることは伝えておこう。今夜のことは書いちゃだめだな、絶対。それと、チェンバロ奏者の弟子と話したことは書いたかな? 書いていてもいいや、他の楽器の演奏家と交流ができたことを書いておこう。彼と連絡を取っているわけではないけれど。元気でやっているだろうか。彼もデビューできていればいいのけれど。
イレーネのことを考えると、胸が躍った。
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