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二章 旧友との再会
⒊出産後
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苦しい出産はもう終わった。
療養期間が終われば、今まで通りの生活に戻ればいい。
簡単なことと考えていたのに、苦しみは退院してからが本番だった。
自宅に戻ると妊娠期間に揃えたものはすべて片付けられていた。
息子のために買い揃えていた肌着やおもちゃや絵本に加え、マタニティウェアも見当たらなかった。
妊娠前の日常に戻るということは、こういうことなのだと現実を目の辺りにして、愕然とした。
しばらくの間は何事もなかったように振る舞うことはできた。
崇史との話も、なんてことのない日常の会話。
だが次第に芙季子の中で、違和感が芽生え始めた。
妊娠を、息子をいなかったことにしていいのかなと。
臭い物に蓋をするように、不自然な日常を送ることが正しいのかと。
崇史は仕事に戻り、毎日遅くに帰ってくる。
一人になると考え込まずにはいられなかった。
異変を感じたときになぜすぐに病院に行かなかったのか。
仕事より命の方が大事とわかっていたはずなのに、周囲に気を遣って気づかないうちに無理をしてしまった。
自分の行いが息子を死なせてしまった。
自分を責めることしか考えられなくなっていた。
そうすることが楽だった。
それが、息子に対する贖罪なのだと思っていた。
後悔をすることが息子への供養だと思っていた。
それ以来、悪夢を見るようになった。
あの時の暗い気持ちを思い出すと、胸が苦しくなる。
「今も、自分を責めてるんですか」
「今はどうだろう。あの時ほどではないけど、でもまだ自分のせいだって思ってる」
「誰も芙季子先輩を責めなかったですよね。仕事を続けたせいだなんて」
「言わない。言ってくれた方が楽かもしれないのに、お母さんはときどきご飯を持ってきてくれたし、義母も電話をくれた。崇史がいなくて寂しいでしょって。今はゆっくり体を休めてねって。わたしはこの人たちから楽しみと、祖母になる資格を奪ってしまった。申し訳ないなって」
「お母さんたちは、先輩に謝って欲しいなんて思っていません、絶対に。だから申し訳ないって思う必要はないと思います。先輩は頑張ったんです。仕事も出産も。残念な結果にはなってしまいましたけど、罰は受けなくていいと思いますし、自分を責めなくていいんですよ。誰のせいでもないんです」
範子の手に両手を包み込まれる。暖かくて優しくて、震えていた体がゆっくりと落ち着いてくる。
「まだ、前に進まなくていいよね」
「どういうことですか?」
「お父さんに言われたの。まだ若いんだから、まだ授かれる。次、頑張りなさいって」
「それ、きついですね」
「次って何っ、て頭に来て、怒鳴り散らした。人の気も知らないで、簡単に言わないで! 初めての子を亡くしたばかりで、次の子のことなんて考えられるわけないじゃない。体だけじゃなくて、心が無理なのって」
「お父さん、わかってくれましたか」
「過ぎたことに囚われるな。前を向きなさいって。あの人にはわからないのよ。わたしの苦しみは。未来に気持ちが向かないことだってある。次の子だって無事に産まれてくれるとは限らない。わたしはもう二度とあんな、つらい苦しい思いは、したくない」
父を恨む気持ちが喉元までせり上がって来て、叫び出しそうになる。
範子が手を握ってくれているお陰で、叫び出さずにすんでいる。
「……つらかったですね」
「悪気があるわけじゃないってわかってる。心待ちにしていた孫が生まれてこれなくて残念に思う気持ちも理解できる。言いたいこともわかる。励ましたかっただけだろうって。だけど、忘れろって言われたみたいでつらかった」
「誰に何を言われようと、先輩のペースでいいんですよ。気にしなくていいんです」
「いつまでも泣いてると、息子が悲しんでない?」
「自分のせいでママの体調が悪いと心配すると思いますけど、忘れないでいてくれるのは、嬉しいと思います」
「忘れなくていいんだよね」
「忘れなくていいんです。だって先輩と大村さんの所に来てくれた、初めての大切な赤ちゃんなんですから」
「いいんだよね。範ちゃん」
すがるように、何度も確認してしまう。
「悲しくなったらたくさん泣いたらいいんです。話したくなったらあたしに話してください。一人で抱えないでいいんですよ。いつでも聞きますから」
「こんな暗い話聞かされて、範ちゃんもつらいでしょ。ごめんね、大切な話の前に」
謝ると、範子は首を横に振った。
「何を言ってるんですか。こんな時は相手のことなんて考えなくていいんです。つらいことを話してくれて、ありがとうございます。その代わり、あたしにつらいことがあったら聞いてくださいね」
「いくらでも聞くわよ」
互いに涙で濡れた顔をタオルで拭き、居住まいを正す。
「それじゃ、本題に入ります」
芙季子は気持ちを切り替え、レコーダーのスイッチを入れた。
療養期間が終われば、今まで通りの生活に戻ればいい。
簡単なことと考えていたのに、苦しみは退院してからが本番だった。
自宅に戻ると妊娠期間に揃えたものはすべて片付けられていた。
息子のために買い揃えていた肌着やおもちゃや絵本に加え、マタニティウェアも見当たらなかった。
妊娠前の日常に戻るということは、こういうことなのだと現実を目の辺りにして、愕然とした。
しばらくの間は何事もなかったように振る舞うことはできた。
崇史との話も、なんてことのない日常の会話。
だが次第に芙季子の中で、違和感が芽生え始めた。
妊娠を、息子をいなかったことにしていいのかなと。
臭い物に蓋をするように、不自然な日常を送ることが正しいのかと。
崇史は仕事に戻り、毎日遅くに帰ってくる。
一人になると考え込まずにはいられなかった。
異変を感じたときになぜすぐに病院に行かなかったのか。
仕事より命の方が大事とわかっていたはずなのに、周囲に気を遣って気づかないうちに無理をしてしまった。
自分の行いが息子を死なせてしまった。
自分を責めることしか考えられなくなっていた。
そうすることが楽だった。
それが、息子に対する贖罪なのだと思っていた。
後悔をすることが息子への供養だと思っていた。
それ以来、悪夢を見るようになった。
あの時の暗い気持ちを思い出すと、胸が苦しくなる。
「今も、自分を責めてるんですか」
「今はどうだろう。あの時ほどではないけど、でもまだ自分のせいだって思ってる」
「誰も芙季子先輩を責めなかったですよね。仕事を続けたせいだなんて」
「言わない。言ってくれた方が楽かもしれないのに、お母さんはときどきご飯を持ってきてくれたし、義母も電話をくれた。崇史がいなくて寂しいでしょって。今はゆっくり体を休めてねって。わたしはこの人たちから楽しみと、祖母になる資格を奪ってしまった。申し訳ないなって」
「お母さんたちは、先輩に謝って欲しいなんて思っていません、絶対に。だから申し訳ないって思う必要はないと思います。先輩は頑張ったんです。仕事も出産も。残念な結果にはなってしまいましたけど、罰は受けなくていいと思いますし、自分を責めなくていいんですよ。誰のせいでもないんです」
範子の手に両手を包み込まれる。暖かくて優しくて、震えていた体がゆっくりと落ち着いてくる。
「まだ、前に進まなくていいよね」
「どういうことですか?」
「お父さんに言われたの。まだ若いんだから、まだ授かれる。次、頑張りなさいって」
「それ、きついですね」
「次って何っ、て頭に来て、怒鳴り散らした。人の気も知らないで、簡単に言わないで! 初めての子を亡くしたばかりで、次の子のことなんて考えられるわけないじゃない。体だけじゃなくて、心が無理なのって」
「お父さん、わかってくれましたか」
「過ぎたことに囚われるな。前を向きなさいって。あの人にはわからないのよ。わたしの苦しみは。未来に気持ちが向かないことだってある。次の子だって無事に産まれてくれるとは限らない。わたしはもう二度とあんな、つらい苦しい思いは、したくない」
父を恨む気持ちが喉元までせり上がって来て、叫び出しそうになる。
範子が手を握ってくれているお陰で、叫び出さずにすんでいる。
「……つらかったですね」
「悪気があるわけじゃないってわかってる。心待ちにしていた孫が生まれてこれなくて残念に思う気持ちも理解できる。言いたいこともわかる。励ましたかっただけだろうって。だけど、忘れろって言われたみたいでつらかった」
「誰に何を言われようと、先輩のペースでいいんですよ。気にしなくていいんです」
「いつまでも泣いてると、息子が悲しんでない?」
「自分のせいでママの体調が悪いと心配すると思いますけど、忘れないでいてくれるのは、嬉しいと思います」
「忘れなくていいんだよね」
「忘れなくていいんです。だって先輩と大村さんの所に来てくれた、初めての大切な赤ちゃんなんですから」
「いいんだよね。範ちゃん」
すがるように、何度も確認してしまう。
「悲しくなったらたくさん泣いたらいいんです。話したくなったらあたしに話してください。一人で抱えないでいいんですよ。いつでも聞きますから」
「こんな暗い話聞かされて、範ちゃんもつらいでしょ。ごめんね、大切な話の前に」
謝ると、範子は首を横に振った。
「何を言ってるんですか。こんな時は相手のことなんて考えなくていいんです。つらいことを話してくれて、ありがとうございます。その代わり、あたしにつらいことがあったら聞いてくださいね」
「いくらでも聞くわよ」
互いに涙で濡れた顔をタオルで拭き、居住まいを正す。
「それじゃ、本題に入ります」
芙季子は気持ちを切り替え、レコーダーのスイッチを入れた。
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