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三章 元カレ来たりて父、動揺

2.初対面

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「女将、話があります」
 深刻な顔をした青田拓也と、柳竜太に呼び止められた。
「遅くまでお疲れ様です。どうされました?」
 リイチが来た翌日の夜だった。仲居たちは仕事を終え、春風もそろそろ上がろうとしていた。

「今日、板長が指を切りました」
「父が? 怪我を?」

 春風のようなあまり家事をしない人間が手を切るのはありがちだが、父のようなベテランの料理人が怪我するというのは、よくあるのだろうか。

 疑問に思って訊ねると、
「しないように気をつけています。出血するとすべての作業を中断しなければなりませんし、食材はすべて廃棄になります。道具類も消毒をしなければいけません」

 青田が詳しく教えてくれた。
 皮膚や髪の毛には黄色ブドウ球菌という食中毒を引き起こす菌がついている。食品を扱う前には必ず手を洗って消毒することが必須。
 傷があると菌の量が増え、リスクが高まることになる。絆創膏で傷を覆っていても、濡れていたり蒸れていた場合、さらに菌が繁殖するのだという。
 食中毒を発生させた場合、営業停止命令や、営業禁止処分が行政から下される。のみならず、被害にあったお客様の飲食代金と医療費や交通費などこちらが負担をしなければならない。

「板長は明日は休日ですが、明後日以降は、傷が治るまで、食品には触れないようにするそうです」
「それじゃ、数日はかなり大変ですよね」

「ええ。それはまあ、僕たちでなんとかします」
「カバーできる人材がすぐに必要ですね。いつかは人を入れないといけないと思っていましたから、求人を出しますね。あ、でも今回は間に合わないから、知り合いに来てもらうとかできないかな……」

 どうしようか、と思案していると、
「あの、女将……違うんです」
 青田に否定された。
「え? 違うってなにが?」

「女将さんのことっすよ」
 それまで黙っていた柳竜太が、もどかしそうに口を開いた。
「あたしのこと? どういうこと?」
 父の怪我と自分がどう繋がるのか、春風にはピンとこない。

「例のお客様のことが、板長の耳に入っています」
 青田が言いにくそうに伝えてくる。
「どなたのことですか?」

「なんていったっけ? ごつい名前の」
 竜太が思い出そうと頭をひねっていると、青田があっさりと答えた。
「剛力様です」

「リイチ……ああ、いえ、剛力様ですか?」
 昨日の今日で、もう父の耳に届いているとは。
 厨房は隔離されているようなものだから、大丈夫だと思っていた。

「彼氏なんすよね? おやっさん、気にしちゃってるんすよ」
 竜太が父を本気で心配してくれているのが伝わってくる。

「彼氏じゃないよ」
「違うんすか?」
 春風が否定すると、竜太は意外そうな顔をした後、「だって玄関でハグしてたって」と言った。

「どうして知ってるの?」
「逆に噂にならないと思ってたんすか」
「大丈夫かなと」

 苦笑いするしかなかった。リイチを連れていくとき、何人かの従業員に見られていた。バンのドライバー金子や、美愛と陽子、あんぐりと口を開けた榮がいた。
 誰が言ったのかわからないが、人の口に戸は立てられないんだなと、実感する。

「僕たちは、板長の心配を取り除いてくださいとお願いにきたんです」
「上の空のおやっさん、見てらんないすよ」

 二人は業務に支障が出るから上の空をどうにかしろと、訴えにきたというわけだった。
「父が知ってるなら、言わないわけにはいかないですよね」
 もう別れているから報告の必要はないかと思っていたけど、また怪我をされては、皆に迷惑をかけてしまう。

「わかりました。父に伝えます」
 気は重いが、腹を決めた。

 寮に戻って声をかけたが、父はすでに眠っていた。
『父が心配しているので、あたしたちの関係を報告しておきます』と、リイチのスマホにメッセージを送ると、
『お父さんが嫌じゃなかったら、僕は会いたいな』
 とすぐに返ってきた。

 翌日、寮でお昼を食べながら話をすることになった。
 父が作っておいてくれた食事を、リイチと並んで座って食べる。

 炊き込みご飯、ナスと豚肉の甘酸炒め、ひじきの煮物、冷たいお味噌汁の具はきゅうりとオクラ。

 リイチが嬉しそうな声を上げた。
「美味しいなあ。冷たい味噌汁初めて飲みました。夏にいいですね。ふだんろくなもの食べてないから、内臓に染みわたります」
「君は、いつもどんなものを食べているのかな」
「コンビニ弁当がほとんどです。おにぎりとかサンドイッチとか。たまに弁当屋に行きますけど、お金に余裕のある時しか行けないですね」

「年は?」
「26です」
「食べ盛りじゃないか。それで足りるの?」
「足りないけど、我慢ですね。たまにファンの子から差し入れもらえるのが、ありがたかったです」
「そうなんだ。あのさ、ファンってなんだろう」

 父は、強面に困惑の色を浮かべて、視線をうろうろさまよわせている。
 説明を求められているのがわかっていたけど、どこから話せばいいのか。春風は食べながら考えていた。

「僕、本名は剛力利一ごうりきとしかずっていうんですけど、ごついから、嫌いなんです。それで、リイチって芸名で地下アイドルをやってるんです。ファンっていうのは、僕を推してくれている子たちです。女の子だけじゃなくて、同性もいるんです。売れてないし、知名度も低いんですけど」

「それは……つまり、芸能人ってことかな?」
「どうでしょう? メジャーレーベルと契約してないとだめって考える人もいますし、ショービジネスをしているなら芸能人だと言う人もいます」
「リイチ。お父さんはあまりわからないから、一応芸能人でいいのかも」
「え? そうなんだ」

「それで、うちの春風とはどういう関係なのかな」
 父の方から核心をつく質問を振ってきた。

「お付き合いさせて頂いてました」
 リイチが言ってくれた。父にこういう報告をする日がくるなんて、恥ずかしくて仕方がない。

「どれくらい?」
「二年ぐらいでした」
「きっかけは? どこで会ったのかな」
「春風さんが勤めていた会社のイベントに、僕がアルバイトに行ったんです。春風さん、きびきび動いて現場仕切っていて、上司らしい人にも意見してて、かっこよかったんです。僕の一目惚れですね」

 恥ずかしいことをなんの躊躇いもなくさらりと言えてしまうのは、職業柄なのか、性格なのか、どちらだろう。

「一緒に住んでいたりは……」
 ここからは、春風も答える。
「してないよ。リイチはお金なかったけど、アルバイトしながらアイドル業をしてた。あたしがお金を貸したことはない。貢いでもないから」

「そうか。お金のことはちゃんとしておいた方がいいからな。二人は、結婚とか考えてるのかな?」
「お父さん、待って。付き合ってた。過去形だから。一年ぐらい前に別れたんだ、あたしたち」
「そうなのか」
 どうしてここで残念そうな顔をするんだろう二人とも。リイチは理解できるけど、父も? そんなにリイチが気に入ったのだろうか。

「お父さん、聞いてください。春ちゃん、メールだけで別れようって言ったんです。いきなりだったから僕びっくりしちゃいました。でもね、春ちゃんの幸せのためならって、涙を呑んで身を引いたんですよ」
「春風、それは酷いとお父さん思うよ」
「そうですよね。酷いですよね」
「初対面なのに、仲良くなるの早すぎない?」
「再会して、気づいたんです。僕はやっぱり春ちゃんが好きだって」
「話聞いて。っていうか、さらっと告白しないで」

 たった三人しかいないのに話がかみ合わず、カオスな展開になってきた。
 春風は咳払いをして、「あのね」と場の主導権を握った。

「今は旅館の事しか考えられない。インフルエンサーの影響がいつまでも続くとは限らないから、経営が安定するようにいろいろ考えなきゃいけないし。今はプライベートに頭を使ってる余裕ないんだ」

 隣のリイチに体を向ける。きらきらした瞳に吸い込まれそうだ。
「そういうわけだから、結婚は当分考えられない。誰かと付き合うことも。リイチの気持ちは嬉しいんだけど」

 気持ちが自分の中に残っていることは、もう確信している。
 リイチが好き。
 邪気のない笑顔が。
 職業のわりに、以外とちゃらちゃらしていなくて、根は真面目で物事にけじめがつけられる性格が。
 自分に甘いけれど、他人にも優しいところが。
 リイチといると、心が癒される。

 だけど、春風は女将としてスタートを切ったばかり。母が遺した旅館を守りたい。父の料理をたくさんの人に食べてもらいたい。やると決めたからには、従業員の生活を守らないといけない。中途半端は許されない。

 春風は器用じゃないから。
 今は優先することだけに力を注ぐべき。

「いいよ。僕は春ちゃん以外考えられないから、いつまででも待つよ。予約してていいでしょ? 彼氏のイス」
「いつになるかわからないよ」
「僕、若いから。平気」

 春風の手を取って、優しく包んでくれる。
 目を覗き込まれる。上目遣いは反則だよ。
 体が熱い。冷たい味噌汁を飲んで体温は心地良く下がっていたはずなのに、全身が火照って来る。
 気持ちを抑えないといけないのに、今にもぐらつきそうだった。
 理性を保つ努力をしていたところに、向かいから空咳がきこえた。
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