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一章 新米女将誕生
3.子供の行方
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一階の玄関ロビーで、青山様ご一家と青陽荘のスタッフが何人か集まっていた。
「私、外を見てきます」
「俺が行く。湊が戻って来た時のために、ここにいて」
青山様の息子さんご夫婦が、今にも外に飛び出そうとしているところだった。
「お待ちください」
慌てて二人を制止する。
春風の声に二人は一瞬だけ振り返ったけれど、体は旅館の扉に向いている。
「すでに陽が落ちています。危ないですから、皆さまはこちらでお待ちになっていてください」
「でも……」
二人は迷う素振りを見せる。若いとはいえ女将の言うことを無視できない。けれど、気持ちは焦る。そういう心境なのだろう。
「お気持ちはわかりますが、土地鑑のある我々にお任せください」
待っていられない気持ちは、春風にはよくわかった。
春風が女将でなければ。一家がロビーにいなければ。飛び出していたのは春風の方だろうから。
「……わかりました。お願いします」
春風が気持ちをこめて夫婦を見つめていると、二人は納得してくれた。明かりもないまま外で探すのは無謀だと気がついてくれたのだろう。
「必ず湊様を見つけます」
すがるような目を向けてくる母親に、春風は力強く頷いた。
春風の脳裏に、ロビーを走り回っていた湊の姿が思い浮かぶ。母親が止めようと必死になって追いかけていたが、まるで飼い主に追いかけられているのを遊びと間違えて走り回るワンコのように、所狭しとはしゃいでいた。
あれだけ元気だったら、外に出てしまった可能性もあるかもしれない。
青陽荘は小さな山の上にある。山は経営者である清家家の私有地。旅館以外は開拓していないから、ここまで来る道以外は樹木の生い茂る森になっている。道沿いにガードレールは立っているが、くぐれば森に入れなくはない。
しかし、辺りはもう暗い。山の中は、子供どころか、大人だって躊躇うような闇が広がっている。
山裾の幹線道路まで行くと隣の山に繋がるハイキングコースと、道の駅に向かう分かれ道がある。幹線道路に沿って川が流れていて、河原ではキャンプができる。
昼間は五月の爽やかな陽光が降り注いでいたけれど、夜も七時を過ぎれば肌寒い。風呂上りで体が温まっていたとしても、すぐに冷めてしまうだろう。早く見つけてあげないと。
「女将。わたし、外を見てきます」
「郡治さん、お願いします」
旅館の法被にネクタイ姿の郡治が、懐中電灯を持って現れた。郡治は二十八年務めてくれている。この辺りのことをよく知っているから、安心して任せられる。
「僕は車で降りてみます」
後ろから、榊秀介も姿を見せた。
「榊さん、残業になるのに、すみません」
榊には経理を任せている。お客様を担当することはないので、夜には終業して帰路に着いている。もう一人いる事務員のみさえが、すでに帰宅しているように。
「人手が必要な時ですから」
あまり表情を変えないクールな印象の榊だが、今はさすがに顔を強張らせている。
3歳になる娘がいるから、他人事ではないのだろう。
「毛布を持っていってください」
外へ向かう二人を、背後から黒木陽子が呼び止めた。走ってきて、郡治と榊に毛布を手渡す。
陽子から毛布を受け取った二人は、旅館を飛び出していった。
「あたしたちは、手分けして中を探しましょう。でも他のお客様を放置しておくわけにはいきませんから、榮さんと郁さんには、客室とフロントをお願いします」
「わかりました」
頷いた二人が、さっと動いていく。
「美愛さんは女性風呂をお願いします」
「はい」
美愛がタタタと駆けていく。
「琴葉さんは?」
この状況の中、琴葉はロビーにいなかった。いない人は頼れない。
春風は男性風呂に向かった。
声をかけて、中に誰もいないのを確認してから、清掃中の札を置いて、男性風呂に入る。
ロッカーを一つひとつ開けて確認。ひのき風呂と水風呂には誰も浸かっていない。サウナも無人。
出ようとしたところで嫌な考えが過った。念のため、掃除用具入れからデッキブラシを持ってきて、柄に掛け湯をしてから、湯船に入れた。
かき回すように動かして、大丈夫そうだと感じた。大人が気づかないうちに溺れていたら大変だと思ったが、何にも触らなかった。
清掃中の札を外して、ロビーに戻ろうしたところで、美愛も女性風呂から出てきた。首を横に振る。
「いないです」
「他に探していないところは?」
「離れのお部屋ですけど、鍵が閉まっていますよね」
「そうね。でも一応見ておきましょう」
「はい」
事務所から離れの部屋の鍵を持ち出し、美愛に渡した。
春風は大広間を見ておく。ふだん襖は閉めているけれど、鍵はついていない。ただ、隠れられる場所もないから、見ただけで誰もいないのが一目瞭然。
他に探す場所は厨房くらいだが、この時間厨房は大忙しだ。板長を含んだ三人で食事を作っているから、もし子供が入り込んでいたら、邪魔になっているだろう。呼び出しの声がかかるはず。
厨房を見ようかどうか迷っているうちに、寮も見ておいた方がいいかと思いついた。
寮には渡り廊下を使って行けるので、靴を履き替えなくてもいける。
渡り廊下への扉に、鍵はかけていない。寮の扉はもちろん鍵がかかっているけれど、確認しておこう。
扉から渡り廊下に出て、離れの二部屋の間を通り過ぎる。三階建ての寮の一階は布団置き場、父と春風の生活スペースで、二階から上が従業員用になっている。
鍵をさしこんで回す。手応えがない。誰かが鍵をかけるのを忘れている。プライベートの空間だから、これはいけない。徹底するように言っておかないと、と考えながらノブを捻ってドアを開ける。
「あっ」
小さな声が聞こえた。顔を向けると、琴葉が角から現れたところだった。
「春風さん、どうしたんですか?」
何食わぬ顔をしているけれど、まずい、という表情をしていたのを春風は見逃さなかった。
「琴葉さんこそ、どうして? チェックインの時間はとっくに過ぎているのに」
「忘れ物しちゃって、探してたんです」
しれっというので、春風は一瞬言葉を失う。
「……青木様のお孫さんのお姿が見えないので、探しています。琴葉さんはフロントにいてください。松原様のご到着がまだなので、お越しになられたら、鶯の間にご案内をお願いします」
「はいはーい」
軽い返事に脱力しそうになるが、気を取り直して、布団置き場の襖を開ける。寮の中で唯一鍵のない部屋。まさかいないよね、と思いながら。
「……! いた!」
そのまさかが当たってほっとするやら、驚くやら。
湊は重ねていた布団を崩し、くるまって眠っていた。
「私、外を見てきます」
「俺が行く。湊が戻って来た時のために、ここにいて」
青山様の息子さんご夫婦が、今にも外に飛び出そうとしているところだった。
「お待ちください」
慌てて二人を制止する。
春風の声に二人は一瞬だけ振り返ったけれど、体は旅館の扉に向いている。
「すでに陽が落ちています。危ないですから、皆さまはこちらでお待ちになっていてください」
「でも……」
二人は迷う素振りを見せる。若いとはいえ女将の言うことを無視できない。けれど、気持ちは焦る。そういう心境なのだろう。
「お気持ちはわかりますが、土地鑑のある我々にお任せください」
待っていられない気持ちは、春風にはよくわかった。
春風が女将でなければ。一家がロビーにいなければ。飛び出していたのは春風の方だろうから。
「……わかりました。お願いします」
春風が気持ちをこめて夫婦を見つめていると、二人は納得してくれた。明かりもないまま外で探すのは無謀だと気がついてくれたのだろう。
「必ず湊様を見つけます」
すがるような目を向けてくる母親に、春風は力強く頷いた。
春風の脳裏に、ロビーを走り回っていた湊の姿が思い浮かぶ。母親が止めようと必死になって追いかけていたが、まるで飼い主に追いかけられているのを遊びと間違えて走り回るワンコのように、所狭しとはしゃいでいた。
あれだけ元気だったら、外に出てしまった可能性もあるかもしれない。
青陽荘は小さな山の上にある。山は経営者である清家家の私有地。旅館以外は開拓していないから、ここまで来る道以外は樹木の生い茂る森になっている。道沿いにガードレールは立っているが、くぐれば森に入れなくはない。
しかし、辺りはもう暗い。山の中は、子供どころか、大人だって躊躇うような闇が広がっている。
山裾の幹線道路まで行くと隣の山に繋がるハイキングコースと、道の駅に向かう分かれ道がある。幹線道路に沿って川が流れていて、河原ではキャンプができる。
昼間は五月の爽やかな陽光が降り注いでいたけれど、夜も七時を過ぎれば肌寒い。風呂上りで体が温まっていたとしても、すぐに冷めてしまうだろう。早く見つけてあげないと。
「女将。わたし、外を見てきます」
「郡治さん、お願いします」
旅館の法被にネクタイ姿の郡治が、懐中電灯を持って現れた。郡治は二十八年務めてくれている。この辺りのことをよく知っているから、安心して任せられる。
「僕は車で降りてみます」
後ろから、榊秀介も姿を見せた。
「榊さん、残業になるのに、すみません」
榊には経理を任せている。お客様を担当することはないので、夜には終業して帰路に着いている。もう一人いる事務員のみさえが、すでに帰宅しているように。
「人手が必要な時ですから」
あまり表情を変えないクールな印象の榊だが、今はさすがに顔を強張らせている。
3歳になる娘がいるから、他人事ではないのだろう。
「毛布を持っていってください」
外へ向かう二人を、背後から黒木陽子が呼び止めた。走ってきて、郡治と榊に毛布を手渡す。
陽子から毛布を受け取った二人は、旅館を飛び出していった。
「あたしたちは、手分けして中を探しましょう。でも他のお客様を放置しておくわけにはいきませんから、榮さんと郁さんには、客室とフロントをお願いします」
「わかりました」
頷いた二人が、さっと動いていく。
「美愛さんは女性風呂をお願いします」
「はい」
美愛がタタタと駆けていく。
「琴葉さんは?」
この状況の中、琴葉はロビーにいなかった。いない人は頼れない。
春風は男性風呂に向かった。
声をかけて、中に誰もいないのを確認してから、清掃中の札を置いて、男性風呂に入る。
ロッカーを一つひとつ開けて確認。ひのき風呂と水風呂には誰も浸かっていない。サウナも無人。
出ようとしたところで嫌な考えが過った。念のため、掃除用具入れからデッキブラシを持ってきて、柄に掛け湯をしてから、湯船に入れた。
かき回すように動かして、大丈夫そうだと感じた。大人が気づかないうちに溺れていたら大変だと思ったが、何にも触らなかった。
清掃中の札を外して、ロビーに戻ろうしたところで、美愛も女性風呂から出てきた。首を横に振る。
「いないです」
「他に探していないところは?」
「離れのお部屋ですけど、鍵が閉まっていますよね」
「そうね。でも一応見ておきましょう」
「はい」
事務所から離れの部屋の鍵を持ち出し、美愛に渡した。
春風は大広間を見ておく。ふだん襖は閉めているけれど、鍵はついていない。ただ、隠れられる場所もないから、見ただけで誰もいないのが一目瞭然。
他に探す場所は厨房くらいだが、この時間厨房は大忙しだ。板長を含んだ三人で食事を作っているから、もし子供が入り込んでいたら、邪魔になっているだろう。呼び出しの声がかかるはず。
厨房を見ようかどうか迷っているうちに、寮も見ておいた方がいいかと思いついた。
寮には渡り廊下を使って行けるので、靴を履き替えなくてもいける。
渡り廊下への扉に、鍵はかけていない。寮の扉はもちろん鍵がかかっているけれど、確認しておこう。
扉から渡り廊下に出て、離れの二部屋の間を通り過ぎる。三階建ての寮の一階は布団置き場、父と春風の生活スペースで、二階から上が従業員用になっている。
鍵をさしこんで回す。手応えがない。誰かが鍵をかけるのを忘れている。プライベートの空間だから、これはいけない。徹底するように言っておかないと、と考えながらノブを捻ってドアを開ける。
「あっ」
小さな声が聞こえた。顔を向けると、琴葉が角から現れたところだった。
「春風さん、どうしたんですか?」
何食わぬ顔をしているけれど、まずい、という表情をしていたのを春風は見逃さなかった。
「琴葉さんこそ、どうして? チェックインの時間はとっくに過ぎているのに」
「忘れ物しちゃって、探してたんです」
しれっというので、春風は一瞬言葉を失う。
「……青木様のお孫さんのお姿が見えないので、探しています。琴葉さんはフロントにいてください。松原様のご到着がまだなので、お越しになられたら、鶯の間にご案内をお願いします」
「はいはーい」
軽い返事に脱力しそうになるが、気を取り直して、布団置き場の襖を開ける。寮の中で唯一鍵のない部屋。まさかいないよね、と思いながら。
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