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第二部6
6-1
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――何か言い残すことはあるかと、その男は言った。
何もないと答えた胸の内には、何があるのか自分でもわからないほど、様々な思いが渦を巻いていた。
最も心に残っているのは、牢の格子にしがみついて泣いていた女の姿だ。生まれて初めて、愛しいと感じた女だった。決して長いとはいえない彼の人生の最後に咲いた花。その花があまりに綺麗で美しかったので、自分のものにしたいと本気で思った。共に生きる未来を夢見た時間は、信じられないくらいに幸せだった。
だからもういい。もう充分だと何度も言い聞かせているのに、どうしても彼女の泣き顔が頭から離れないことに、もはや笑う気さえも起こらなかった。本当はもっと一緒にいたかった。あの手を取って、一緒に遠くに逃げられたならどれほどよかっただろう。――だが、もう何もかも遅すぎる。
背後で刀を抜いた音がする。風を切る音がして、後ろ首に衝撃が走る。
衝撃で口の中が切れたらしい。鉄の味が口腔だけでなく、喉奥にまで広がって行く。切れた口の中がとても痛い。これまでにも歯を食いしばったことは何度もあるが、こんな風に己が歯で皮膚を食い千切ったのは初めての経験だった。
そこまで考えて、彼は自分が今、確かに生きていることに気が付いた。
「お前はまだ若い。……さぞかし、人生に未練も多かろう」
いつの間にか、両脇を固めていた人間の姿が消えていた。指を折られている為、使いものにならない手で苦労して目隠しを外すと、振り返った先で恰幅の良い男が、刀を鞘に戻したところだった。
先ほど後ろ首に感じた衝撃は、確かに刀によるものだ。だが刃ではない。刃であれば今頃、この首と胴は繋がっていない。刃が身体に触れる寸前に、刃を返して刀背の部分で首を打ち据えたのだ。
もちろん、刀背とはいえ刀で人体の急所である首を打つのだから、打ちどころによっては首が落ちなくとも命を落とす。それを生かしたままで済ませるというのは、相当な手練れであり――最初から、そのつもりだったのか。
「お前がどうしても死にたいと言うなら殺してやろう。――お前は、どうしたい?」
「俺は……」
この場所に連れてこられる時、この男の顔をどこかで見たことがあると感じたことを思い出した。そしてその顔をどこで見たかも。なるほどな……と胸の内で嘲笑する。これは裏切りの誘いだ。彼は自身の所属する組織について、随分と多くのことを知っている。そしてその組織を束ねている人間の考えることが大体わかる。もっとも、あいつだってこちらの考えることなど、大体はお見通しだろうが。
ここで死ぬべきであることはわかっていた。それなのに体中が痛くてまともに思考が働かない。痛むのは口の中だけではなかった。手も足も――これまで感じていなかったが、恐らく肋骨にひびが入っている――あばらの辺りも息をするたびに酷く痛い。痛みを感じるということはすなわち、身体が生きたいと叫んでいるということだ。
死にたくない。生きていたい。生きて、もう一度会いたい。――そうか、本当は俺はこれほどまでに生きたかったのか。
秋の乾いた風が頬を嬲る。先ほどまで飛んでいた鳥の姿は見えなくなっていた。薄い雲の狭間から射し込む陽の光が目に沁みる。まるでそれが、ただ一筋の救いであるといわんばかりに。
「……こちらに来い。傷の手当てをしてやろう」
爪がはがれ、指があらぬ向きに曲がった自分の手が、取ってはならない手に向かって伸ばされてゆく光景を、彼はまるで他人事のように眺めていた。――それが、新たな悪夢の始まりであるとも知らず。
本領いた影衆の弟分・雅之が清水の邸にやって来たのは、雅道と玄徳医師が法勝寺に落ち着いてから、半月ほどたった早朝のことだった。
今ではもうすっかり秋が深まって、あれほど盛大だった秋虫の鳴く声も聞こえなくなった。早朝や夜更けに吹く風に冬の気配が感じられ、清水の邸では既に火鉢を出している。この分ではもう間もなく、初霜が下りるかもしれない。
法勝寺での対面の後、すぐに城に忍ばせている影衆に連絡を取ろうと試みたものの、既にその手は封じられていた。武智行久の名を借りて藩主に文をしたためても返答はない。そして先日、ついに本領から忠雅に対して、正式に城に上がるようにとの命が下った。
今、この状況で本領に行けば殺されることは目に見えている。取りあえず忠雅がいなくとも明野領の政が成り立つよう、頼めることは他の人間に頼み、書き記せることはすべて書き記した。しかしこんなものはその場凌ぎだ。少しくらいの時間稼ぎはできても、すぐに行き詰まることは明らかだった。
そんな中、息も絶え絶えの状態で明野領にやってきた雅之は、三年前小姓として、武智雅久と一緒に城に入った影衆である。その後もずっと城の奥深く、藩主のすぐ側で仕え続けてきた。あまりに藩主と近い立場なので、変事があった際に真っ先に粛清されたと思っていたのだが、雅之に密書を預け、密かに城から逃がしたのは、君水藩主・武智雅久その人であるという。
本領から明野領へ向かう道筋は、通常ならば半月もかからない。だが今回、雅之は道中で、三度追手と切り結び、葉隠衆の目を逃れ、街道や渡し船を使わずに単身山を越えてきたのだから、無事にたどり着いたこと自体が奇跡に近い。全身傷だらけの弟分から文を受け取って、忠雅はしばし瞑目した。
「……そうか。殿が俺にこれを」
藩主はこの文を弟の武智行久ではなく、確かに忠雅に手渡すようにと伝えた。となれば無事に忠雅の手に密書が渡った今、武智雅久は既にこの世の者ではないか――まだ生きていたとしても、忠雅が再び生きて藩主と対面することはないだろう。
――本音を言うならずっと、恨んでいた。
三年前、当時の筆頭家老が藩主の暗殺を決めた時、忠雅は言葉の限りを尽くして領主を説得した。千代丸君の本家への養子縁組がまとまりそうなこの時期に、藩主を殺害することは決して得策ではない。そんな意味のないことで人の命を奪って何になる――
――失敗することなど構わん。いや、むしろ失敗してくれていいのだ。影衆一人の命であの義父上がしばらく口を噤んでくれるのなら、安い物だろう。
武智雅久は決して、仕えるに値しない暗愚の主君ではない。家臣に対する態度は理知的で、領民達には慈愛に満ちたよい領主だ。だが結局、領主もまた影衆を人とは思っていなかったのだと知って、深く絶望した。
先日の突風で庭木の葉はほとんど落ちたが、どこかで咲いているらしい金木犀の香りが漂っている。西の空にはまだ夜の気配があるものの、東の方角に黄金色の朝日が昇り始めていた。朝と夜の狭間で、傷だらけの弟分の肩を抱く。城にいた影衆は全員殺されたのだと思っていたから、生きて再び会えたことがこの上なく嬉しい。
「ご苦労だった。雅之、お前は法勝寺に行け。今あの寺には雅道がいるから傷を診てもらうんだ。――あ、いや、待て、俺も一緒に行く」
そうして共に向かった法勝寺では、騒ぎが起こっていた。
何もないと答えた胸の内には、何があるのか自分でもわからないほど、様々な思いが渦を巻いていた。
最も心に残っているのは、牢の格子にしがみついて泣いていた女の姿だ。生まれて初めて、愛しいと感じた女だった。決して長いとはいえない彼の人生の最後に咲いた花。その花があまりに綺麗で美しかったので、自分のものにしたいと本気で思った。共に生きる未来を夢見た時間は、信じられないくらいに幸せだった。
だからもういい。もう充分だと何度も言い聞かせているのに、どうしても彼女の泣き顔が頭から離れないことに、もはや笑う気さえも起こらなかった。本当はもっと一緒にいたかった。あの手を取って、一緒に遠くに逃げられたならどれほどよかっただろう。――だが、もう何もかも遅すぎる。
背後で刀を抜いた音がする。風を切る音がして、後ろ首に衝撃が走る。
衝撃で口の中が切れたらしい。鉄の味が口腔だけでなく、喉奥にまで広がって行く。切れた口の中がとても痛い。これまでにも歯を食いしばったことは何度もあるが、こんな風に己が歯で皮膚を食い千切ったのは初めての経験だった。
そこまで考えて、彼は自分が今、確かに生きていることに気が付いた。
「お前はまだ若い。……さぞかし、人生に未練も多かろう」
いつの間にか、両脇を固めていた人間の姿が消えていた。指を折られている為、使いものにならない手で苦労して目隠しを外すと、振り返った先で恰幅の良い男が、刀を鞘に戻したところだった。
先ほど後ろ首に感じた衝撃は、確かに刀によるものだ。だが刃ではない。刃であれば今頃、この首と胴は繋がっていない。刃が身体に触れる寸前に、刃を返して刀背の部分で首を打ち据えたのだ。
もちろん、刀背とはいえ刀で人体の急所である首を打つのだから、打ちどころによっては首が落ちなくとも命を落とす。それを生かしたままで済ませるというのは、相当な手練れであり――最初から、そのつもりだったのか。
「お前がどうしても死にたいと言うなら殺してやろう。――お前は、どうしたい?」
「俺は……」
この場所に連れてこられる時、この男の顔をどこかで見たことがあると感じたことを思い出した。そしてその顔をどこで見たかも。なるほどな……と胸の内で嘲笑する。これは裏切りの誘いだ。彼は自身の所属する組織について、随分と多くのことを知っている。そしてその組織を束ねている人間の考えることが大体わかる。もっとも、あいつだってこちらの考えることなど、大体はお見通しだろうが。
ここで死ぬべきであることはわかっていた。それなのに体中が痛くてまともに思考が働かない。痛むのは口の中だけではなかった。手も足も――これまで感じていなかったが、恐らく肋骨にひびが入っている――あばらの辺りも息をするたびに酷く痛い。痛みを感じるということはすなわち、身体が生きたいと叫んでいるということだ。
死にたくない。生きていたい。生きて、もう一度会いたい。――そうか、本当は俺はこれほどまでに生きたかったのか。
秋の乾いた風が頬を嬲る。先ほどまで飛んでいた鳥の姿は見えなくなっていた。薄い雲の狭間から射し込む陽の光が目に沁みる。まるでそれが、ただ一筋の救いであるといわんばかりに。
「……こちらに来い。傷の手当てをしてやろう」
爪がはがれ、指があらぬ向きに曲がった自分の手が、取ってはならない手に向かって伸ばされてゆく光景を、彼はまるで他人事のように眺めていた。――それが、新たな悪夢の始まりであるとも知らず。
本領いた影衆の弟分・雅之が清水の邸にやって来たのは、雅道と玄徳医師が法勝寺に落ち着いてから、半月ほどたった早朝のことだった。
今ではもうすっかり秋が深まって、あれほど盛大だった秋虫の鳴く声も聞こえなくなった。早朝や夜更けに吹く風に冬の気配が感じられ、清水の邸では既に火鉢を出している。この分ではもう間もなく、初霜が下りるかもしれない。
法勝寺での対面の後、すぐに城に忍ばせている影衆に連絡を取ろうと試みたものの、既にその手は封じられていた。武智行久の名を借りて藩主に文をしたためても返答はない。そして先日、ついに本領から忠雅に対して、正式に城に上がるようにとの命が下った。
今、この状況で本領に行けば殺されることは目に見えている。取りあえず忠雅がいなくとも明野領の政が成り立つよう、頼めることは他の人間に頼み、書き記せることはすべて書き記した。しかしこんなものはその場凌ぎだ。少しくらいの時間稼ぎはできても、すぐに行き詰まることは明らかだった。
そんな中、息も絶え絶えの状態で明野領にやってきた雅之は、三年前小姓として、武智雅久と一緒に城に入った影衆である。その後もずっと城の奥深く、藩主のすぐ側で仕え続けてきた。あまりに藩主と近い立場なので、変事があった際に真っ先に粛清されたと思っていたのだが、雅之に密書を預け、密かに城から逃がしたのは、君水藩主・武智雅久その人であるという。
本領から明野領へ向かう道筋は、通常ならば半月もかからない。だが今回、雅之は道中で、三度追手と切り結び、葉隠衆の目を逃れ、街道や渡し船を使わずに単身山を越えてきたのだから、無事にたどり着いたこと自体が奇跡に近い。全身傷だらけの弟分から文を受け取って、忠雅はしばし瞑目した。
「……そうか。殿が俺にこれを」
藩主はこの文を弟の武智行久ではなく、確かに忠雅に手渡すようにと伝えた。となれば無事に忠雅の手に密書が渡った今、武智雅久は既にこの世の者ではないか――まだ生きていたとしても、忠雅が再び生きて藩主と対面することはないだろう。
――本音を言うならずっと、恨んでいた。
三年前、当時の筆頭家老が藩主の暗殺を決めた時、忠雅は言葉の限りを尽くして領主を説得した。千代丸君の本家への養子縁組がまとまりそうなこの時期に、藩主を殺害することは決して得策ではない。そんな意味のないことで人の命を奪って何になる――
――失敗することなど構わん。いや、むしろ失敗してくれていいのだ。影衆一人の命であの義父上がしばらく口を噤んでくれるのなら、安い物だろう。
武智雅久は決して、仕えるに値しない暗愚の主君ではない。家臣に対する態度は理知的で、領民達には慈愛に満ちたよい領主だ。だが結局、領主もまた影衆を人とは思っていなかったのだと知って、深く絶望した。
先日の突風で庭木の葉はほとんど落ちたが、どこかで咲いているらしい金木犀の香りが漂っている。西の空にはまだ夜の気配があるものの、東の方角に黄金色の朝日が昇り始めていた。朝と夜の狭間で、傷だらけの弟分の肩を抱く。城にいた影衆は全員殺されたのだと思っていたから、生きて再び会えたことがこの上なく嬉しい。
「ご苦労だった。雅之、お前は法勝寺に行け。今あの寺には雅道がいるから傷を診てもらうんだ。――あ、いや、待て、俺も一緒に行く」
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